Sontag, Susan

 「病気とは隠喩などではなく、(...)隠喩がらみの病気観を一掃すること」(p.5.)が、このエッセイの主題である。主に西洋の文学をもとに歴史を振り返り、結核、梅毒、ペストなどの病気についてまわる隠喩的表象を検証しながら、最終的には現代の癌に付着している隠喩の言語構造を批判する。

1.
 病気が隠喩に頼るには、「未知な何かがそこに潜んでいる」「恐怖心をかきたてる」からである。病気を病気として捉えるためには、病気を非神話化する必要がある(p.9.)。

 高度産業社会での死は、「死を受け止めることが耐え難い」(p.10)という意味を持つ。私たちは普段は死を考えたりしない。あるいは死を間近で体験することがさほど少ないことから、この現象が生まれるのだろう。では、ソンタグの言うようにたとえ死にたいして普段は意識が気迫であっても、それでも人は死を前にして、何らかの意味づけはするのではないだろうか。そのとき人はどのような意味に頼るのだろうか。考察すべき点である。

 ソンタグによれば、癌だけが、ことさら嘘による隠蔽の対象になるのは、「何かおぞましいものー不吉なもの、感覚的におぞましく、吐き気のするようなおのが感じられるから」(p.11.) だという。つまり癌だけが、強い意味作用をもって、感覚に働きかけるのである。

2.
 つづいてソンタグは、癌の隠喩的使用の歴史を、その歴史と重なる(ただし、19世紀のロマン主義の結核にまつわる隠喩的使用は、20世紀には癌にまつわるそれへと移る-p.21.)結核の隠喩的使用と対照させながら追っていく。そしてその表象の歴史は「捏造した神話」(p. 19.)にすぎないと断言する。

 たとえば、結核による死は安楽死であり、癌による死は苦しみによる無残な死という表象は、現実のさまざまな死に方を捨象し、イメージだけで意味を支配してしまう。結核であれ、癌であれ、こうした「空想が繁殖」(p.20.)するのは、どちらも「病気をはるかに越える何か」と考えられているからだ。それは死のことである。しかし、ソンタグにとって、「はるかに越える何か」とは、余剰の部分であろう。ソンタグは結核、癌にはりつく、死と同一視される余剰の部分を批判しているのだ。たとえば結核の場合は、それは死の美化であろう。

3.
 次にソンタグは「結核の神話」と「癌の神話」の類似点として、「情熱に縁がある」ことを挙げる。それは情熱の過剰であっても、抑圧、衰弱であっても、「生のエネルギー」に関係あるものとして表象される。

4.
 ここでソンタグはあらためて、17世紀から19世紀の文学作品から結核が「ロマンティクな連想を獲得していた」例を挙げていく。「結核こそ上品で、繊細で、感受性の細やかなことの指標」となり、「自我をイメージとして売り込む(...)最初の大がかりな例」となり、そして「ロマン的苦悩」となる。

 また結核は、悲しむという感受性の繊細さとも結びつく。芸術家とは繊細な魂の持ち主であり、憂鬱な精神の持ち主であり、こうした芸術家こそが結核にかかるのであると。それをソンタグは「結核と創造力を結びつける紋切り型の表現がすっかり根をおろしていた」と指摘する。またそれ以上に結核は、「ボヘミアンの生活の重要な範型を提供」した。そしてこの神話が終息するのは、戦後の治療法の確立によってであった。以後この結核にまつわる神話性は、狂気と癌に引き継がれた。

 この「紋切り型」という表現に注意したい。つまりこれは一般に流通するイメージに過ぎず、そこに認識の更新はないし、当然ながら現実の事象からは遊離する。紋切り型を使う人は、自らの認識を眠らせ、紋切り型の言語行為による意味を現実にかぶせ、その現実自体を見ようとはしていないのである。
 
5.
ここではソンタグは、結核とそれ以外の感染症の違いを述べる。ソンタグによれば、「過去の大きな流行病においては、各人はその災禍に見舞われた社会の一員として病気にやられた」が、結核は「個人を社会から切り離す病気」であり、「つねに個人をねらう神秘的な病気」のように見えていた。それと同様に癌も、「個人を懲罰として襲う」病気だとみなされる。だから、「癌にかかった人々の多くは、『なぜ、自分が?』」と問うのだとソンタグは言う。
 
 そしてソンタグは、近代以前と近代以後では病気と病人の性格・行動の関係が変わったと指摘する。近代以前では、病気の後で、人間の性格が破壊されていくことがトゥキディデスでも『デカメロン』でも描かれる。対して近代以後は、病気によって、人間の徳性がむしろ試されるようになる。イヴァン・イリッチも、黒澤明の「生きる」の主人公も同様である。

6.
 ここでは、病気をめぐる表象が、外的要因、内的要因の観点から考察される、『イーリアス』『オデュッセイア』の古代ギリシャでは、超自然の罰であったり、「個人の過誤、集団の違反行為、祖先の犯罪などに対する当然の報い」であったりした。19世紀にはショーペンハウアーは、「病気は意志の産物」、すなわち内面の表現として病気をとらえた。またロマン派においては、「隠された情熱こそ」が病気の原因とみなされた。

 しかし、病気が内的要因とされてしまうと、「病気の責任はすべて患者にある」ことになってしまう。病気が悪化するのも快癒するのも、個人の内面の力に還元されてしまうのである。ここから当然ながら、患者に対する侮蔑の情も生まれ、また「人生の敗者」という診断や、その逆の敗北に対しての賛美も、病者に対して向けられたりするのである。

7.
 では癌と内的要因はどのような関係にあるだろうか。「癌の情緒原因説」は多く報告され、癌と、癌患者が言う「気が滅入る」や「人生の不満」や喪失の悲しみなどの苦痛な感情の間には関係があると言われる。しかしソンタグは、こうした苦痛の感情は、癌患者だけがもつものではなく、「人生の条件」(p.55.)だとして関係を退ける。そして苦痛の感情を表す表現は、「出来合いの言葉」、多くのアメリカ人たちが使うことばだと批判するのだ。

 癌という病気に対して、患者の内面に原因があるとする思想、そしてその内面を表現することばが、紋切り型になっていること、この二点をソンタグは問題視している。

 同様の言説が結核をめぐっても流布し、治療法が見つかるまではずっと続いていた。癌についても情緒を病気の原因とする理論が最近でもはやっているが、ソンタグはそれを「筋の通らない話」と断罪する。

 17世紀のイギリスでは、「幸福な人間はペストにかからない」と言われていた。そして現代にいたっても、「病気の心理的な説明を特に偏愛し」、「病気という、ひたすらに物質的であるしかない現実さえも心理学的に説明がつく」とされてしまう。ソンタグは、現実の中に精神性を持ち込むことが現代において拡大していることを指摘する。そしてその理由として次の二点を挙げる。ひとつは「社会的逸脱は病気」と考える仮説。もうひとつは「すべての病気は心理学的に考察できる」という仮説である。この考え方は、病気の状態をひとつの悪とみなす方向へ進んでしまう。つまり病気は「自業自得」(p.61.)というわけである。

8.
 ここでは病名に生じる暗喩としての意味づけについて述べられている。癩病の事例を通してわかるのは、物理的な病因がわからず、治療法がないとき、病気は「意味また意味の波にもまれやすいものとなる」(p.62.)。まずは「恐れの対象」となり、そして病名自体が隠喩となる。この二世紀は、梅毒、結核、癌という個人の病気とされるものが、「悪の隠喩」として広まった。たとえば『わが闘争』では、「病的恐怖と政治的恐怖」がこの病気に投影されている。結核は「繊細さ・感受性・哀しみ・弱々しさの隠喩的等価物」(p.65.)であった。癌は「非情で、容赦なく、略奪を事とするように見えるもの」に例えられた。

 癌を記述する中心的な隠喩は、「戦争用語から借用」(p.68)されている。「侵す」「防衛力」「走査」「腫瘍の侵略」などの言い方である。治療法も「化学療法は毒物を使う化学戦争」、治療の目的は癌細胞を「殺す」こと、そして癌との「戦争」などと言われる。これらの言い方は、悲観的にも楽観的にも事態を捉えることになり、どちらにしてもその修辞法によって、癌治療そのものの認識が阻害されるのだ。

9.
 十九世紀を通して、病気の隠喩はますます激しいものとなっていく。「本来等しく自然の一部であると考えられる健康と病気なのに、病気のほうは『不自然な』ものいっさいの同義語」と化してしまったのだ」。そして病気は生に対立するものと見なされる。

 そして、社会的幸福が健康であるならば、それとは対照的に、病気は社会の混乱の隠喩となり、混乱は治療の対象となる。その中でラディカルなのは、やはり革命である。ソンタグは、ヴィクトル・ユゴーの『九十三年』で、革命が「嵐」であり、「ペストの魔手」に例えられている一節を引用する。またトロツキーにおいてもヒトラーにおいても、病気の隠喩は頻出する。それは、中国の四人組、パレスチナ紛争へと続いていく。

 二十世紀になり、我々は「絶対の悪」を「適切な隠喩」で表現しようとする。しかしそれを病気に例えるのは、「複雑なものを単純化する傾向を助長する」とソンタグは言う。すなわち、ソンタグは、隠喩に頼ることは、その言葉がもたらす安定化によって、私たちがもはや複雑さについて考えを巡らせ続けようとはしない、と言っているのだろう。

 隠喩は安易に使えるからこそ、プロパガンダに、戦争の、革命のプロパガンダに用いられやすい。だからこそ私たちは、政治において隠喩が使われるときこそ、不信の目を向けなくてはならない。

 今後、癌の治療法が確立すれば、やがて癌も「非神話化」(p.91.)されるだろう。ただしこの隠喩が関心を引くのは、現代の社会そのものが大きな欠陥をもっているからに違いない。現代社会の諸問題の解決と癌の隠喩の消滅とどちらが先にくるだろうか。ソンタグはそれは後者の方であると予言して、このエッセイを終わっている。

 この書は、ソンタグの思索の書というよりも、判断と行動の書と言ったほうがふさわしい。ここに収められているのはワールドトレードセンター爆破、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争などの状況に呼応して書かれ、あるいは語られた記録である。さらにこれらの一連の出来事に対して、ソンタグは武力行使に容認の姿勢を示していることで大きな話題にもなった。

 作家はメディアの中でも果たしうる役割がある。ソンタグ、村上春樹がエルサレム賞を受賞し、スピーチの中でイスラエルを批判することは、その内容がメディアによって運ばれ、世の中に波及するという意味で一定の価値がある。村上春樹と同じく、ソンタグのスピーチでもイスラエル批判は辛辣である。

一般市民への均衡を欠いた火力兵器攻撃、彼らの家の解体、彼らの果樹園や農地の破壊、彼らの生活手段と雇用、就学、医療、近隣市街・居住区との自由な往来の剥奪(...)。(p.211)

 ソンタグは、作家がこうした批判的な自己の判断をメディアを用いて伝えることを否定しない。ただしそこには条件がある。それは自らが現地に実際に行き、その現実に自らの身をさらしている限りにおいてである。メディアによって伝えられることだけが現実ではない。だからこそソンタグは、グリュックスマンの「戦争は今やメディア・イヴェントだ」ということばを否定する(p.96.)。確かにメディアによって現実が伝えられることが、出来事の成り行きを左右することもあるだろう。しかしそれによって現実が矮小化される場合もあるのだ。

 ただ、確かに作家が政治的な立場を持ち、自らの意志によって行動することは一個人として自由である。しかし同時に作家は「言葉に心を砕く」存在である。作家は「オピニオン・マシーン」(p.208)ではなく、「単純化された声に対抗する、ニュアンスと矛盾の住処」としての文学を創造する者である。20世紀は自らが正義と判断して意見を表明してきた作家たちが実は多くの誤りを犯してきた時代である。単純化とは妄信と同意である。その意味で作家は真実を追い求める存在である。

 ニュアンスと矛盾のある言葉を創造しながら、真実を追い求めるとはどういうことか。それはソンタグ自身が、ニューマン枢機卿の言葉を引いて次のように答えている。

「高いところの世界ではそうではないが、この下界では、生きることは変化することであり、ここで言う完璧とは、相次ぐ変化の経緯である」。

 真実とは、永遠不動のものではない。その都度刷新されるものであり、変化という運動こそが人間が生きている証拠であり、作家は「人間の生命・生活のありうる姿を見据えること」(p.202.)が使命となる。不断の刷新、ソンタグが引く、ヘンリー・ジェイムスの言葉「何に関しても、最終的な言葉など、私にはない」。

 およそ芸術を創造する人間とは、この人間の生命を見据える人間であり、世界を更新していく人間である。芸術家とは「自己固定化」の作用を持たない人間であり、それゆえにソンタグにとっては、芸術は他者へと向かう契機となる。

作家がすべきことは、人を自由に放つこと、揺さぶることだ。共感と新しい関心事へと向かって道を開くことだ。(p.215.)

 ここでソンタグの行動と思索が一致する。芸術が不断の刷新であるならば、そしてそれが生の表現であるならば、今その同じ生を虐げられ、苦痛に歪む人々のところへ、なぜ赴かないのかという厳しい問いつめが、私たちに投げかけられる。

 本書に収められている「サラエヴォでゴドーを待ちながら」はまさにこの優れた実践の記録である。1993年7月半ば、ソンタグはサラエヴォに行き、現地の俳優たちを使って『ゴドーを待ちながら』の上演を行う。砲撃にさらされている最中のサラエヴォである。物資もほとんど行き渡らないなか、ソンタグたちは上演を試みる。

 それは深刻な現実においても、芸術がひとときの喜びやあるいは勇気をもたらすからだろうか。そうではない。『ゴドーを待ちながら』の状況と、サラエヴォの置かれている「待つ」という状況が呼応するからだ。『ゴドー』を芸術と呼べるならば、この作品の上演が、現実の意味を増幅させ、今サラエヴォが置かれている状況を明るみにさらけ出すからだ。芸術とはまさに現実との接触のうちに、状況のなかで生まれてくる。この刷新の力をもつ芸術を用いて、ソンタグは、現地から世界に、サラエヴォの現実を知らしめようとしたのである。

 ソンタグは言う。ここにあるのは「宗教問題ではない。現実問題だ」。

 スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』は戦争写真論として書かれた。綿密に論理を積み重ねた論証というよりも、さまざまな写真、そして写真と隣接する絵画、映画などの具体的な作品によりそって、ポートレイト風に写真の表現世界と私たちの生きる現実世界の関係を考察した論考である。9章に分かれてはいるものの、むしろアフォリスムを集めたものに近いと言ったほうが正確である。

1.
 戦争写真に写された破壊と殺戮の光景を見れば、普通は戦争への嫌悪、平和への希求が私たちの中に生まれるはずである。しかし実際には写真家の政治的立場がどうであれ、意味が一元的に決定されるとは限らない。なぜならば戦争写真は、虐げられている人々を守るためによりいっそうの戦意をかき立てることもあるからだ(p.7.)。

 だから戦争の破壊性を示しても戦争の抑止に向かうとは限らず、また暴力は、その暴力を受ける人間を殉教者や英雄に祭り上げることもある(p.12)。ソンタグは対立する反応が生まれる理由を、戦争に反対する場合は「誰がいつ、どこで、という情報に依存」しないのに対し、新たな戦意をかき立てる場合は「誰によって誰が殺されるか」という特殊性に求めている。

2.
 写真は、間近から現実を撮る。その意味で写真は、絵画よりも過去を保存することに優れ、またどんなことばにも及ばない「直接性と権威」を獲得した。しかしそれでも写真は、現実の証人ではあるが、その現実がある一部を切り取ったその瞬間でしかない以上、切り取りをした個人の証言である。そしてそれが一部である以上、解釈の余地が生まれる(p.25.)。

 写真がある現実の証拠であるということを強調する立場から見れば、制作者の主観性を排さなくてはならず(この立場では、写真を撮るさいの偶然性が評価される)、また芸術が意匠であり仕掛けである以上は、芸術性も極力排除しなくてはならない。

 また私たちが被写体から物理的、時間的に距離の離れた写真に向かう場合、その写真の説明は幾様にも加えられる。赤ん坊を抱いて空を見上げている女性の写真がある。その眼差しは空襲への不安をたたえていると解釈されている。しかしその写真を見ると太陽がまぶしく目を細めているようにも見える。このような解釈に実は写真はたえずさらされるのだ。

 写真への意味付与。それはその写真そのものの生命にも関わる。チャコ戦争はボリビアとパラグアイの間で起きた戦争で、ドイツ人写真家によって記録されたが、その戦争も、写真も忘れられている。一方、スペイン内戦、イスラエル・パレスチナ紛争については「深刻な闘争という意味が付与」されているがために、注目され続けている。

3.
 写真がいくら現実を忠実に再現すると言われているとはいえ、主観性を排除することはできない。それは「常に誰かが選びとった映像」(p.44)である。そもそも被写体を加工することはいくらでもできる。クリミア戦争を撮った、「世界初の戦争写真家と称されているロジャー・フェントン」はまずは兵士たちにポーズをとってもらい、静止した状態で撮影をしていた。

 ソンタグは写真がこのように主観性や演出を免れることはできないのに、私たちが報道写真に対して、それらが「演出されたものであるように見えることではなく、そうであると知ってわれわれが驚き、常に失望する」ことの奇妙さを指摘している。ソンタグによれば、写真が演出によらずに私たちに届くようになるのはヴェトナム戦争以降のことである。

4.
 次にソンタグは被写体とそれを見る私たちの関係を考える。

遠い異国的な土地であればあるほど、われわれは死者や死の間際にある人々をあますところなく真正面から捉える傾向がある。(p.69.)

 だからこそ西洋において「一般的に、むごたらしく傷つけられた死体の公開写真は、アジアまたアフリカから来る」(p.70.)として、植民地の人間を展示する慣習から今だに抜け出ていないことを批判する。

5.
 写真には二重の力がある。それは「記録を作ること」と「視覚芸術の作品を生み出すこと」である。この場合の芸術とは被写体を変貌させることにある。

 写真は教訓となるだろうか。ソンタグはショックと慣れについてさまざまな事例を語る。カナダのタバコの箱に印刷した癌などの写真ーそれらはショッキングではあるかも知れないが、だんだん慣れるか、そもそもそれらを見ないことによって自己を防御することができるー。十字架像や『忠臣蔵』は、それらに慣れるということがない。むしろその普遍的表象を人々はもとめ、その度に強い感動を受ける。そしてけっして私たちを慣れへとは導かない写真。それは「廃墟のように崩れた顔」、「原子爆弾のために溶けて、かさぶたで厚く覆われた被災者たちの顔」、「ナタの一撃で割られたツチ族の生存者の顔」である。(p.82.)

 写真は証拠ではあるが、それは瞬間の証拠であって、ときに事後の瞬間でしかない。また写真は「例証」でもある。この瞬間の証拠、例証という写真の性質は、出来事を全体性、総合性において語ることができないという限界を示している。「物語はわれわれに理解させる」が、写真は「われわれにつきまとう」(p.88.)。

 写真が流布されると、その写真に写されている出来事が、ひとつの社会的問題として「記憶」の対象となるとされるが、ソンタグはその記憶は究極的にフィクションであるとし、集団的記憶を否定する。

集団的記憶は集団的罪と同様に、一連の虚偽の概念を構成している。だが集団的教訓は存在する。
あらゆる記憶は個人的なもので複製不可能であり、個人とともに死ぬ。集団的記憶と呼ばれるものは、記憶することではなく規定することである。これが大事なのだ、それはこういうふうにして起こったのだ、というふうに。(p.84.)

 ソンタグが言おうとしているのは、社会とは歴史的な存在であり、そうである以上、保存される記憶、生き残る記憶、そして忘れられる記憶が規定されるということであろう。アメリカにはホロコースト博物館はあるが、奴隷制の全貌を伝えるような博物館はない。その理由をソンタグは「思うにこれは社会の安定にとって、活性化し、創造するには危険すぎる記憶なのである」と述べる。

 虚偽のなかに私たちは生きている。規定する以上、それは誰かが規定するのだ。その規定された記憶を私たちは自らの記憶の領域に流し込んで生きている。

6.
 写真は私たちにどのような態度をとらせるか。残虐な行為の写真は必ずしも、生と死に直面させ、そこから人間の尊厳へ思いを至らせるとは限らない。私たちには恐ろしいものを見たいという欲求がある。ソンタグはプラトンの『国家』第四巻を引き、人間にはこうした「軽蔑すべき衝動」があることを指摘する。

 次にソンタグは同情という気持ちについて考える。同情は確かに苦しんでいる人間のことを考え、そしてときに怒りにかられながらその事態を見つめる。しかしソンタグは次のように同情を批判する。

同情を感じているかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる。(p.101.)

 被写体の人々の苦しみに対して私たちは果たして無関係なのだろうか。私たちが見るという立場にある以上、それはひとつの特権であり、この特権的な私たちの立場が、被写体の人々の苦しみに連関しているかもしれないと洞察を働かすことこそ、私たちの課題ではないかとソンタグは言う。

7.
 ソンタグの写真についての考察、ひいては芸術表現と現実世界をめぐる考察をひとことでまとめるとするならば、「新鮮な感情と適切な倫理」ではないか。芸術はこの世界から切り離されて存在するのではない。むしろこの世界を刷新する新鮮さをもつ。そしてこの世界と関係する以上、そこには私たちの他者への一定の責任が倫理という形で要請される。決して野放図に作品を鑑賞してよいわけではないのだ。

 だからこそソンタグは、世界をスペクタクルという一元的な見方しかしない、フランスのドゥボール、ボードリヤール、グリュックスマンらを批判する。こうした見方は現実の苦しみを存在しないものとして片付けてしまう。ソンタグはこうした人々は「戦争の近くに身を置いたことのない斜に構えた人々」であると切り捨てる。