Ozouf, Mona

Mona Ozouf, Jules Ferry (2005)

 本書は歴史家Mona Ozoufが一般向けに行なった講演を冊子にしたものである。この短い講演の趣旨は、Jules Ferry(1832-1893)の再評価である。
 Jules Ferryといえば、第三共和制において義務教育の拡充をはかった人物であり、また同時に植民地拡張政策を推進した人物である。後者については、たとえばTodorovはその著書『われわれと他者』(nous et les autres)のなかで、わずかなページではあるが、全国民の文化水準を上げるための無償義務教育の政策と、教育と文明化の使命を帯びた植民地政策に連続性をみて、痛烈な批判をしている。
 しかしながら、この小著では、当時、左右両派から非難を受け続けた政治家に潜む偉大さを掬いとる試みがなされている。
 まず最初にFerryの生まれてからの政治家になるまでの足跡が簡単に述べられているが、この中で取り上げたいのは次のニ点であろう。第一点は、Ferryが旅行するなかで、イギリスの現実主義的な気質に触れたこと(p.13.)、第二点は、若いときに二月革命から第二帝政、すなわち「共和制の敗北」(p.16)に遭遇した世代であるということである。
 こうしたFerryの若い時の時代を素描した後で、Ozoufは、Ferryには解くべき3つの謎が科せられたとする。1)中央集権化。ここでOzoufは、FerryがToquevilleにならって、政治的な中央集権と行政的な中央集権を区別し、国家に対して社会が自律して、「自由な議論と会合ができる体制」を重視していたことを指摘する。2)共和主義体制の不安定さ。3)フランスが孕む対立項。この対立項とは、フランス革命を肯定するのか、否定するのかという対立である。
 この2), 3)の解決としてFerryが持ち出したのが、フランス革命と共和主義を切り離して考えるという視点である。そしてここでもOzoufが強調するのは、Ferryが、フランス革命における国民の単一性は結局専制主義的な形でなされてしまったのに対し、この単一性は、あくまでも自由において、たとえば出版の自由、地方自治や組合(p.31.)のような中間団体の設立さえも可能とする自由において、うち立てられなくてはならないと考えていたことを強調する。
 この自由の確立において、教育の問題も考えられる。Ozoufの後半の主題はこの教育における自由の問題である。それは次のようにまとめられよう。
 学校制度においては共同体の精神原理として、神という絶対的価値基準、すなわち宗教的な価値基準ではなく、フランスの歴史という過去の共同性を置くことが、フェリーの関心の中心となる。共和国においては、フランス革命によって根こそぎにされた近代ではなく、それ以前から脈々とつながる「フランス国民の魂」こそが統合の原理となる。したがってフランス革命時の共和主義移行によって否定された王や臣下たちが、歴史的な対象として学ばれる。すなわち、フランス革命による断絶を修復し、歴史による過去の共同性によって統合原理を構成するのがフェリーの目的である。教育こそ、19世紀以来なんども倒されてきた共和国を安定させる鍵であると、フェリーは考えていたのである。
 この共同性さえ学校という公的な空間で構成できれば、宗教は、18世紀の啓蒙主義のように無知蒙昧の迷信、国家の敵とはならない。それどころか、フランスという国はキリスト教による安寧のもとに成立していることをフェリーは進んで肯定する。フランス人の心性がキリスト教にあることを認めているのである。フェリーはナポレオンによるコンコルダートさえ否定することはなかったのである(その破棄は1905年の政教分離法である)。このあたり、Ozoufは、Ferryの現実主義的な考え方を例証している。

 では自由とは何だろうか。OzoufはFerryが女子教育にも力を入れたことを述べているが、その理由を次のようにまとめている。

Il s'agissait bien de former des femmes capables de partager avec leurs époux le goût de la discussion politique et le souci de l'éducation civique des enfants.
 
女性を、政治的な話題への興味や子どもの市民教育への配慮を夫とともに分かち合えるよう、教育することが主眼であった。

 つまり女性にplus de lumières「より多くの知性」とmoyens critiques「批判的方法」を与えることがその目的であったとOzoufは指摘する。

 Ozoufは、Ferryのなかに自由と批判的精神が堅固に結びついていることをこの講演の主題としているのだろう。自由とは批判の精神である。ではcritiqueとは何だろうか。それは、このFerryの思想に従うならば、自ら思考し、相手にその思考を伝える言語化の技術であり、ある価値を鵜呑みにせずみずから検証する作業であり、そしてそうごにその意見を交わして議論するための知的活動である。そしてわれわれには、われわれの意見を書き、話し、議論する自由があるということ。Ozoufはこの自由の保証こそが、共和国を永続化させるための根本であるとフェリーが考えていたとする。そしてフランスという国家の単一性を自由の上にうち立てようとしたことに(p.61.)ことにFerryの独自性をみているのである。

 Mona Ozoufは、1931年生まれ、今年78歳になるフランス革命、および近代フランス学校教育制度を専門とする歴史家である。しかし本人のインタビューによれば、彼女は自らを«demi-historienne»「半歴史家」と呼んでいる。その理由は彼女が歴史学の専門教育を受けたことがないということ、もともとの専門は哲学であったことに由来している。だがこの肩書きは新著Composition Françaiseの著者としてのMona Ozoufにこそふさわしい。この作品でのOzoufのエクリチュールは、歴史と自伝のあわいを縫って、ブルターニュの過去をよみがえらせる。半歴史、半自伝の書である。
 'universelとle particulier。普遍と特殊。前半のブルターニュでの生い立ちも、後半のフランス革命以降における、共和主義とその批判も、この普遍と特殊を軸として描かれている。
 前半は、家庭(ブルターニュ)、学校(フランス)そして教会(信仰)の相反する関係を描く。そしてその3者を行き来する主人公が他でもない「私」である、「私」を形成してくれた大人たちである。その意味では自伝に近いのだが、この少女の「私」はもう一人の「私」、すなわち、現在の歴史家としての、78歳となった老齢の「私」によって、洞察を加えられ、その周囲の歴史的状況に置き直されて語られてゆく。
 そのため、私たちの前に描かれるブルターニュの日々は、一人物の想起だけで織られている私的な物語ではなく、また乾いた出来事の羅列でもない。人々の生は、決してその時代、社会、共同体に還元されてしまうものではない。ブルターニュのアイデンティティといっても、そのアイデンティティを何に、さらにはどのような行動に求めるかは、ひとりひとり異なる。その個人の選択、とまどい、思い込み、錯誤を、祖母、父、母、そして私という家族の肖像を通して叙述したのがこの作品の前半である。そしてこの個と普遍を巡る問いは、作品の後半、Ozoufはこれまでの研究を振り返りながら、フランスの共和主義批判においても一貫している。
 個はたしかに、言語、宗教、土地といった所属なしに生きることはできない。そうした属性を剥いでしまうのは幻想であり、それは幻想としての共和主義である。しかし同時にこれらの所属は、個を支配する属性ではない。個人がそこに従属してしまうならば、共同体主義は一つの信仰、ヒエラルキーとなってしまう。この共和主義でもなく、共同体主義でもない位置にMona Ozoufは立つ。しかしそれは折衷主義ではない。Ozoufの立場は、革命以前の過去を含みこんだ共和主義を立案したとOzouf自らが分析するFerryに近いように思える。フランスの過去や、地域と特性は、フランスの要素として構成しなおされる。この第3共和制における教育の体制化と歴史観に立ち、しかしその歴史に束縛されるのではなく、むしろそこから離れる自由をもった個人によって構成される共和制こそ、Ozoufの描く共和主義である(ただし第3共和制においても言語の問題だけは特殊なものとして取り残されてしまう)。
 私たちは歴史、社会の中で生きている。そのため必然的に自分が自分の生を決定しているようにみえて、実はイデオロギー、風習、伝統に絡めとられて生きていると言わざるをえない。しかしそのような制限を受けながらも、私たちは自分の生においてそのつど小さな決定をしてゆく。この生の具体性を歴史の客観性のなかに埋没させないこと、それが文学をもっとも愛しているOzoufが試みたことである。
 Ozoufはあるインタビューに答えて、「雑誌のなかにはこの本はOzoufの遺言だという評があるが、かならずしも気分のよいものではない」とユーモアをたたえて答えているが、しかし父の死から、はじまり、パリでの教育をうけ、共産党員としての活動、そしてやがて歴史家へといたる道筋は、たしかに晩年に想い描く自分の存在史に近い。だがOzoufはあくまでこの書を「私」の物語としては描いていない。ここにあるのはやはりひとりの歴史家の、透徹した時代観察による記録であり、フランス革命の歴史家としての思索の歩みなのである。

 再生ということばは、革命以前に遡るが、しかし現実味を帯びたのはルソー以降である。その意味で、再生は革命による断絶がきっかけになっているといってよい。またこの再生は、あらゆる領域に関わる再生である。

 たとえば、子ども、若者、老人に関わる肉体自身の再生。また宗教的な意味に捉えられれば、新たな生(洗礼による生まれ変わり)、原初社会の再生という意味にもなる。たとえキリスト教という宗教的文脈に頼らなくとも、革命の思想の中に、法から慣習までのすべてを含み込んだ「回心」を認めることは誰もが受け入れる考えであったろう。

 そして「再生」ということばは、「改革」という言葉を追いやった。なぜならば、「改革」には、まだ過去の痕跡が残っているからである。それは「専制、教権、封建制」の残滓といってよく、革命は、それらの過去を「腐敗と頽廃」とみなす。こうした過去を裁断し、あらたな人民(peuple)を到来させるために「再生」を必要とするのだ。

 この再生の具体的方法としては2つの方法が示される。一方は未曾有の出来事をした人間は、「自然と」、「突然奇跡のごとく」新しく生まれ変わるという考え方である。他方は、「再生」を遂げるためには、まだ過去の残滓があり、これを抹殺しなくてはならないという人々の考え方である。現実の変化と魂の変化の間にはまだ差が存在している。これを考えていかなくてはならない。そのためにはまず内心の中にある過去の残滓を強制的であっても解体しなくてはならない。しかしこの考え方は、疑わしき成員を、再生された共同体から排除していくことも意味する。

 そして重要なのは、この自由・自律の再生と制約・他律の再生とは、異なる政党、異なる時期、異なる人物にきれいにわけることができないという点である。

 再生において最も重要になるのが教育の再生であり、子どもをより有益な国民にするために、学校は課題の中心を占める。そしてやはり自由か規律かということで方針はたえず揺れ動くこととなる。たとえば革命初期におけるコンドルセの公教育案は自律と自由にまかせたものであり(無償で、義務ではない教育を提案)、一方ジャコバン期の教育とは、制約である。この案では、再生の道具は、寄宿舎と義務である。

 しかしこの2つの再生には共通点がある。それは第一に「時間」がもたらす限界である。実際に精神や魂の育成には時間が必要となるが、「突然奇跡のごとく」再生が果たされると思っている革命家たちにはこの遅さは致命的である。また、体系的に新しい人間を創り上げていこうと考える革命家にとっては、時間の存在は、いくら法令を布告しても、時間の経過によってこそやりとげられる現実もあるということを思い知らせる存在なのである。

 第二に、新しいものの誕生に古い世界を使うことはできないということである。前者にとってはすでにそれは存在しないものであり、後者にとってはそれは消えるべきものである。

 最後は、感覚論である。この問題は、前者に、個人が変わるのは、たとえば革命の光景といった外在的なものであり、その意味で人間個人の自発性とは言い難い。他方、後者にとっては、制約を課す教育も、人間が変わりやすい存在である以上、その制約は逆の教育によって解体されてしまうという危機意識である。そして、この統制主義が優位にたっていく。

 革命の難しさは、個人にそのまったき権利を与えた後に、その個人を集団へとつなぎ止めなくてはならない点にある。革命が混乱の事態に陥るにつれ、個人の精神を従わせることのできるほど強力な集団精神が必要となった。そして集団精神により大きな統制力をもたせるために、権力はあらゆる方法を用いるのである。