Eco, Umberto

 芸術作品は<生>をもつか。もし芸術作品が生きていると言えるならば、それはどのような条件においてか。芸術と生をめぐるこの問いが第一章「開かれた作品の詩学」のテーマである。

 作者は作品を生む。作品には形が与えられ、受容者のもとへと届く。作品という形式の中に作者はメッセージを込め、受容者はそのメッセージを解読する。こうした単純なコミュニケーションモデルが仮に成り立つとするならば、そこから導き出されるのは、それ自体で完結した作品の姿である。またこのモデルによって意味が伝達されるならば、それは単に解読の対象としての表現でしかない。作品は完結すると同時に、単なる「慣習的記号」(p.36.)と化し、「単一の意味において一義的に看取され」(p.37.)る「道路標識」に過ぎなくなってしまう。

 このような記号はいつでも、どのような状況においても意味の再現がなされることで、優れた記号であると言われるようになる。時と場所を問わず、記号がその機能を十全に発揮するならば、そこに歴史を規定する重要な要素である変化はもはやない。仮に作品が完結しうるとことがあるするならば、それは作品が記号となるということであり、そこにはもはや歴史が不在である。

 しかし私たちの生命の根拠はどこに求められるか。それは間違いなく私たちがたえまなく活動をしながら、変化をしていることではないだろうか。毎日同じように繰り返される生活、他者に言葉を投げかけても、たえず同じことばしか返ってこないとき、そこにあるのは「複製」でしかない。生の根拠は認められない。

 その意味で歴史と生は分ち難く結びついているのである。

 では作品において生があるとはどういう状況か。それは、解釈者が作品の生に作書とともに参与するときである。解釈者の歴史性が作品へと投影されるときである。解釈者の歴史性は「ある実存的な具体的状況、特殊な制約を受けた感受性、一定の文化、趣味、性向、個人的先入見」によって明らかにされる。

 もちろん作品は作者によって形を与えられている以上完結している。しかし作品が単なる記号でないならば、そこには様々な意味の読み込みが可能であり、その意味で作品は「開かれている」と言える。

 ではそもそも芸術作品が、受容者の解釈を許すというならば、およそあらゆる芸術作品は、そのような性質を共通に持っているのではないか。確かにそうとも言える。しかしエーコは、この「解釈関係」が十分成熟して、「批判的自覚」に到達したのは、現代美学に至ってからであるとし、また開かれた作品という概念には「歴史的展開」や「文化的諸要因」があると強調する。

 解釈者の主体の価値と解釈の唯一性の関係について、エーコは歴史的に例証する。例えば中世の寓意解釈理論。聖書は確かに書かれている内容を解読する作業が必要とされる。しかしその「読む可能性」は「あらかじめ規定されている」。寓意的、道徳的、天上的にあわせて行う解釈には意味の一義性の規則しか適用されない。

 この中世の「典則の慣例を抜け出て」、現代的意味での「開かれ」に近づくのは、バロックの造形である。エーコの規定するバロックとは「運動」、「<本質的>永遠性」に対立する、動的な特性である(p.42.)。

 さらにこの開かれた作品が詩学において展開したのが19世紀後半の象徴主義である。ヴェルレーヌやマラルメの詩論が主張するのは、暗示である。神秘、世界の深み、そのような比喩に象徴されるように、詩的言語は明確な名指しではなく、意味を確定することなく、「無数の多様な暗示」(p.45.)をはらんでいるのである。

 そして現代世界の到来。不定であり、不確実であり、曖昧である。そうした世界に私たちは生きており、その具現としてジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』があり、現代音楽があり、そしてコールダーの『モビール』がある。エーコはこうした作品を動的作品、「絶えず新たなものとして享受者の眼に万華鏡のように姿を帰る可能性のようなもの」と呼んでもいる。

 芸術作品が「開かれ」において、世界を認識方法だとは主張できない。科学的な論理的認識によらず世界を認識することが真であるというのはあまりに危険だからだ。しかしそれでも芸術作品を「認識論的隠喩」とみなし、概念を作品という形象にとけ込ませることは可能であるとエーコは言う。

 この芸術的認識と世界認識の相関性で引用されるのがフッサールである。それをエーコは次のように言う。

今日では、心理学や現象学は知覚の曖昧性についても、習慣的認識の慣習性を超えたところに身を置き、慣例や習慣に由来するあらゆる安定化に先立つ可能性のみずみずしさの中で、世界を把握する可能性として語るのである。(p.59.)

 慣例や習慣とは繰り返されることである。さらに言うなら複製されることである。時と場所そして主体を問わず、事柄が繰り返されるとき、そこに生命はない。慣例や習慣が過去から来ているとしても、それが現在においてそして未来において不断に繰り返されるなれば、時間意識は消える。可能性も消える。世界に生があるとは、潜在的な可能性があるという意味である。エーコはフッサールを引用する。

それぞれの体験は、その体験の属する意識連関の変化、およびその体験自身の流れの局面の変化に応じて変化する地平を持つ。

 ここにあるのは「絶えず変化する主体」であり、「未来予持」であり、それが世界にみずみずしさをもたらすのである。世界はある。しかし未完結である。作品はある。しかし未完成である。完結することなく、完成することなく、受容者は多様な意味を生まれ、更新され続ける。そこに世界の、私たちの生の根拠があるのだ。

 残るのは、何が作品たらしめるのかという問いである。エーコは、動的作品がもつ不確定性や未完結性は、カオスではないと強調する(p.63.)。受容者は参与するが、それは無定形ではなく、「諸関係の組織化を可能にする規則」があるとする。完成はされていないとも、その作品が作者のものであることには変わりない。『モビール』は絶えず違う姿で現れるが、ある姿が作品そのものを離脱することはない。あくまでも作品の中に収まっているのである。

 では何がこの作品の形を根拠づけるのだろうか。エーコは「辞書は(...)作品ではない」と断言する。語が無数に集まり、その意味で開かれきっている辞書は作品ではない。語は作者のもとで構造化されていなくてはならない。そしてその構造という方向性がなければ、私たちは解釈の前提そのものを失っているということになる。辞書を解釈するというのはそもそも無意味である。辞書に死蔵された語から、ある構造をもった形象をつくりあげてゆくこと、それによって初めて作品は成立し、その作品に対して私たちは解釈行為を初めてゆく。この行為に生命がやどるのだ。

 最後にエーコはここまでの論を次のようにまとめる。
 1)動的なものとしての<開かれた>作品は、作者とともに作品を作ることへの誘いによって特徴づけられる
 2)(<動作作品>という種に対する類のような)より広いレベルで、すでに物理的に完結していながらも、刺激の総体を知覚する行為において享受者が発見し、選択するべき内的諸関係の絶えざる胚胎へと<開かれて>いる作品が存在する
 3)あらゆる芸術作品は、たとえそれが明示的であれ暗黙のものであれ、必然性の詩学に従って生産されたとしても、実質的には一連の可能な読みの潜在的に無限な系列へと開かれており、その読みのそれぞれは、ある展望、ある趣味、ある個人的演奏=上演に応じて作品を蘇らせる

 残る問題は、解釈者(受容者)の資質であろう。開かれた作品において、作者、作品、受容者のどれひとつとして優位にたつものはない。むしろそれぞれが関係を作り上げるなかで、作品自体の生が生まれてゆく。ならば解釈者となりうる条件は何なのか。これをあらためて問わねばならず、そのための考察は、以後『物語のなかの読者』で発展してゆくことになる。