江藤淳『一族再会』(1973)

 自分は必ず誰かの子である。そして父、母も必ず誰かの子である。しかしその当然の意識を三代前、四代前へと遡らせていくことは難しい。祖先とは縦につながっている以上、自分の生と直接に重ねあわせることのできる、祖先たちとの時間はそれほど多くない。自分が生まれる前にすでに死んでいた祖先、幼い頃に亡くなった親への記憶は一層乏しくなる。さらに戦前では、家を継ぐためには養子を迎えたり、早くに妻を亡くしたために再婚をするということも珍しくはなかった。であるならば、ある家とは疎遠になり、また家族の構成も腹違いの子供たちなど複雑になっていく。

 それでも、自分が誰かの子であり、父と母も誰かの子である以上、自分は誰かと血でつながっているという意識は否定しようがない。『一族再会』は、「私」の「源泉」であり、「核」である、江藤淳の一族の生き方、在り方を追った旅の書である。江藤は、若い時に会った祖父の記憶を想起する。母を知る人々に会いに行き、人々の母の記憶を集める。海軍に奉職した二人の祖父の記録を調査し、祖父の故郷を訪ねる。内面の記憶、人の声、文字資料、そうしたさまざなことばによって構成されたこの作品は、実は複雑に構造を持っている。

 だがこの複雑さの奥に、ひとつの通底したトーンがある。それが「昏さ」である。一族全体を覆い、江藤自身の中にも流れている昏さ。普段の意識と日常の光の中では、その昏さが意識されることはない。私たちの体内を流れる血の流れを、私たちが普段意識することはないが、その血流が、私たちを生かし続けているように、この昏さは私たちの意志とは無関係に、しかし同時に私たちを構成する本質として、私たちを生かす影として存在しているのだ。

 もちろんこの昏さは、江藤の一族の人々の人生そのものの昏さでもある。母親は江藤が4歳半のときに亡くなっている。江藤の意識の出発点は喪失そのものである。その母の母、江藤の祖母も25歳で亡くなっている。そして子どもの時親しくしていた、母の実家を継ぐはずの叔父の自殺。たとえ生死と結びつかずとも、日本近代の幕開けから、第二次世界大戦での敗北までの歴史が投映された二人の祖父。山本権兵衛が血気盛んで、エネルギッシュで、それでいて冷静に海軍を国防計画のなかでビューロクラティックに近代化した、したたかな人物として描かれるに対して、同じ海軍の二人の祖父は、時に時流をつかみきれず、それ以上に時代の制約の中の軛の中に放り込まれ、最終的には「栄誉か死か」という英雄観から見放された人物として描かれる。特に、「軍人には勝利と敗北があり、屈辱と栄誉と死があったが」(p.259)、母方の祖父は「名誉も奪われて死も与えられなかった」のである。

 この昏さとは、黄泉の昏さでもあり、誕生以前の昏さでもある。昏さは沈黙とも結びつき、永遠の闇の世界でもある。この世界においてはことばは不要だ。母と子が愛を確かめようと肌をよせ合い、抱きしめるとき、その愛の交流にことばは不要であろう。自分が生まれた薄明の土地に抱かれるとき、言葉は不要であろう。そのとき個は、大地に包摂される。

このときのことは少しも私の記憶にのこっていない。おそらく私は、こうして乳を吸いながら父に写真をとられていたとき、幼児がそういう場合にいつも感じるような安息と満足感にひたっていたにちがいない。つまりそこにはひとつの沈黙があり、言葉を必要としない理解というものがあったにちがいない。(p.15.)
 
それならそのようなかたちを、私の内部の暗黒のなかに切りとっている曾祖父嘉蔵は、私の「言葉」の源泉なのだろうか。それが私の「故郷」であり、私に忠誠を要求し、私という個体を否定し、「個人」という観念が虚構にすぎないことを思い出させる重苦しくうっとうしい沈黙なのだろうか。おそらくそうである。そして私のなかに嘉蔵が存在し、現在の日本の現実のなかにいまだに無数の嘉蔵が存在しているかぎり、私は決して「個人」になることはなく、したがって単なる「私」ではあり得ない。「私は...」、あるいは「私が...」と書くとき、われわれの感じる一種のうしろめたさは、実は「私」がわれわれにとって、仮構以上のものではあり得ないところから来る直感的な反射作用にほかならない。「私」が「言葉」なら、この反射作用の背後にある沈黙は「言葉」の源泉、すくなくともその重要な部分である。(p.153.)

 沈黙は時に陶酔であり甘美であり、私たちのあらゆる知的営為を無効にする世界の眠りの感覚であろう。それはまた「地の底にくるみこむような、なまあたたかく濃密な感覚」である(p.347.)。ここには私は発生しない。私は一族のなかに溶け込み、私の背後には、無数の死者が寄り添って私に口寄せをする。このときのことばは、私のことばではない。

 だが近代において私たちは、このような始源の世界が喪失してしまったことを知っている。その世界と私の間には埋められない溝がある。しかし同時にこの溝こそが契機となって、私は「個」として立ち、世界との関係づけのために「言葉」を発しようとする。亡霊の側にいる私はもはや死者と同等とするならば、この言葉を持ち得た人間は生の側、すなわち行動の側にいる。この言葉の発生、喪失の瞬間に言葉が生成されること、この誕生に最大限の意識を集中することが、同時に批評言語の誕生ともなる。

 沈黙の世界に埋没して個を消し去るのでもなく、かといって、概念だけの世界に生きるのでもない。そのどちらにも属さないぎりぎりのところで言葉を刻む鋭敏な意識を持ったとき、江藤淳という批評家が誕生したのだ。江藤はこの危うい均衡にきわめて意識的であった。

つまり血縁の感覚というものは、個体が仮構にすぎず実体はあくまでも血の持続、あの暗い淵の連続にあるという確信から成立する。だが、それにしても私たちは、あの存在の闇をみとめるかぎり血縁の実在を否定するわけにはいかないが、かといって意識の作用を認めるかぎり個体として生きないわけにもいかない。「近代」が個体の自覚を助長しようとすればするほど、私たちのなかに近親憎悪の衝動が澱むのはそのためである。それが「言葉」に転位されればいい。しかしそれはしばしば「言葉」になるひまもなく奔出しようとするのである。(p.61.)

 衝動ではなく「言葉」への「転位」すること。ここに厳しい批評家の責務がある。言葉を求めることは、個を屹立する意味で、故郷の言語と切り結ぶものであり、空虚な概念とならないよう社会の言語とも切り結ぶものである。この厳しい孤独のなかで、初めて生命感にあふれた言葉が生まれくる。そして私たちはその言葉を受け取る。この清々しさを江藤淳の作品は持っていた。

 しかし江藤淳という人はたえず母なるもの=言葉のいらない陶酔の世界に幻惑される心の闇を抱いていた。作品の最後、母方の祖父の出身地に出向いた江藤は、その土地に葛の葉稲荷という社が記されているのを見て慄然とする。葛の葉、それは子の前から消え去った、母に化けていた狐の名である。ここにきて、江藤は再び、母、死者、土地へと回帰してしまうのだ。

いったい私はなにをもとめてこんなことをしているのだろう?自分の言葉の源泉をもとめて、と考えたこともあった。そうでないことはない。だがおそらく、もっと単純ないいかたをするなら、私は還りたいのだ。どこへというなら、もっと健全で簡素な場所ーそこで生と死の循環がうごかしがたいかたちで繰り返されているような場所へ。私は還って触れたい。なににというなら、そういう場所の土に。そしてその土に、自分の不毛さを身を打ち付けて詫びたい。(p.311.)

 だが、もはや還る場所などありはしない。戻るべき土地などはなく、生きるならば言葉によって新たに世界を作りだし、その世界で行動をするしかない。江藤はことばによって成立する世界と、ことばの要らない沈黙の世界との危うい均衡の場所にたえず自己の身を置いた。それがときにきわめて鋭敏で生命感にあふれた批評を生み出し、そしてときには、イデオロギーに塗れた扇情的な文を書くことになった。

 本当に歴史を理解するためには、一度はその歴史に身をおいた個人の体験にまで私たちは降りる必要がある。一族再会で書かれる歴史には、歴史を刻印され、時代を生きなくてはならなかった、祖先一人一人の人生の体験が書かれている。そこには祖先に溶解してしまうのではなく、自らを禁欲的にその世界から切り離し、言葉だけで関係を作ろうとした江藤の精神がある。この精神のみずみずしさこそがこの作品をイデオロギーに塗れることから救っているのだ。