Nicole Lapierre, Sauve qui peut la vie (2015)

 Sauve qui peut la vieは、社会人類学者Nicole Lapierreが自分の家族の来歴を語ったessaiである。母方の祖父母はユダヤ系で1905年ポーランドからフランスへと移民として渡ってきた。父も同じくユダヤ系で1926年に同じくポーランドから医学の勉強のためにフランスに留学し、そのままフランスの国籍を取得した。ユダヤ系移民を出自とする家族と自らを見つめながらも、家族と自分を時代と呼応させ、そして<今>を考察している。

 私を主語にして書いたとしても、私の物語とは限らない。私を主語とすることは、私の声を聞かせることではあるが、本書では私の声は、むしろ家族の声を伝えるための声でもある。
 
 1. Un kilo de plumes, un kilo de plomb
 第1章では、家族の女性たちの死の経緯が語られている。Lapierreの母方の祖母は1934年に事故で亡くなっている。姉のFrancineは1982年に自死、また母のGilberteもそれから8年後に同じく命を絶っている。

 Francineの死の後、両親はその理由、説明を求めて自問する。父親にとっては、戦争中の出来事がその根拠となる。ドイツのフランス占領が拡大し、両親はFrancineの命の安全を考えて、ある家族に預けることにする。泣き止まない彼女を置いて立ち去ったが、心配でその昼に戻ってみると、依然彼女は泣いており、結局その家族に預けることをやめた。父は、Francineが命を絶ったとき、このわずかの時間とはいえ捨てられた記憶が、後年夫が彼女に関心を向けなくなった時に、蘇ったことが理由だと考えていた。母は、Francineの夫が愛さなかったことに理由を求めた。いずれにせよ、こうした理由、説明を求めることが、彼らには必要であり、たえずその死のことを考えていたとLapierreは書いている(p. 24.)。

その一方で、両親は、嘆きや悲しみの感情を表に出すことはほぼなかった。そうしたことへの軽蔑の気持ちがあったし、そもそも両親の世代は自分の心の中のことは話さなかった。両親からの声は聞こえてはこなかったのである(p. 26.)。

 ただそれでも母が、ひょっとしたら亡くしていたかもしれないFrancineを大事に思い、2人目を望んでいなかったこと、父の方は、息子が欲しく2人目を望んでいて、結果として女の子であった自分を愛してくれていたことはLapierreに伝わっていた。また戦後生まれのLapierreの世代は、戦争後の希望と約束としての子供たちだった(p. 28.)。

 Lapierreは、父のこと、イギリスへ渡った叔母のこと、そして自分自身の家族のこと、一族の家具が集まった現在の家のことを語りながら、家族の系譜を素描する。そして最後にplomb「鉛」とplume「羽」のイメージを使いながら、自分の家族の歴史は決して、重い出来事だけがあったわけではなく、羽のように軽やかな出来事もあったのだと語っている。

 2. Familles dans la tourmente
 第2章は、父方の祖父母の話から始まる。祖父母はポーランドの比較的裕福な層に属し、家庭ではイディッシュ語ではなく、ポーランド語を話し、ショパンのワルツとアダム・ミツキェヴィチの詩を愛好していた。1926年に父親がフランスに留学できたのも家庭が裕福だったためである。

 とはいえ、祖父はロシア占領時代に軍服を手がけていたたため、ロシアとドイツの間にあるポーランドのユダヤ人としてかなり神経を使っていたと言える。1918年のポーランド独立後は家業も好転していく。故郷はLodzウッチであり、繊維業が栄えていた。1924年にノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家レイモントの『約束の地』の舞台はこのウッチであり、工業化社会の資本主義の収奪のむごさを描いている。父の弟もこの地で製糸工場を建てている。メンデルというこの叔父について知りうることは少ない。彼の経営ぶりや労働者の扱いがどうだったのか、それについて父はあまり語らなかった。

 戦争中の叔父家族の経緯は、父自身の話と、赤十字を通して父に送られてきていた手紙から復元される。妻と子供はおそらく連行され、また叔父は、手紙が途絶えたことから1944年のワルシャワ蜂起で命を落としたとされている。こうした話を語る父の口ぶりからは、スターリンの政策に対する怒りもはっきりと伝わってきた。

  1970年代に両親は、ウッチの墓を訪れる。父の両親、弟の墓碑を建てるためと、家族の消息を知っているとコンタクトしてきた人物に会うためである。だが、その人物は、それを口実にお金を騙し取ろうとした詐欺師であった。当時は家族の消息を求めるユダヤ人を騙すこうした手口は決して珍しくはなかった。その時に写された墓の写真が残っている。碑銘には、ユダヤの印もヘブライ語の文字も含まれてはいない。Lapierreは、万が一の墓荒らしを避けるためか、あるいは父がヘブライ語を彫れる職人を見つけられなかったからかと推測をしているが、理由は定かではない。

 父の家族を考えるとき、さまざまな問いが残される。なぜ彼らはポーランドを離れなかったのか。事業がうまくいっていたからか、父の留学費のためにパレスチナの土地を売ったからか、あるいは両親はもうすでにかなりの歳だったからか。それははっきりとしない。

 母方の親族は多くがフランスに移住をした。祖父母は羽毛関係の仕事で財産をなし、母たちはブルジョワの生活を送ることになる。母の姉の予期せぬ妊娠や、父からその事実を隠すための工作など、家族史がここでは綴られていく。家族の記憶を聞き取ったとったとき、Lapierreが驚いたのは、親族たちが、その時代の出来事に対してほとんど言及していないことである。Lapierreはその理由を、戦争という大きな出来事のインパクトがそれに先立つあらゆる事柄を消し去ってしまったこと、自分の質問が「家族の歴史」に限定していたこと、あるいはそもそもフランスに着いたことが政治的出来事からの解放だったことに求めている。もちろんどれが決定的な答えということはない。

 その後Lapierreはドイツ占領が進んでいく情勢の中での両親の行動を書いていくが、ここで強調されるのは、戦時における母をはじめとする女性たちの力強さ、大胆さ、巧みさである。そしてまわりの人々の協力と支えである。Lapierreは、事実としてユダヤ系の人々の物語は「逃げ出し、追い詰められ、逃亡」として語られるが、生き延びた人々の「決心し、切り抜け、大胆」に行動していく生命力については忘れられがちであると指摘している(p. 73.)。 

(3. 省略)

 4. Un goût de France et de science
 この章ではポーランドで生まれた父が、1926年留学生としてフランスにやってきた出来事を軸にして、移民の人々の姿が描かれる。両大戦間に多くのユダヤ系の若者がポーランドを離れた。この世代は、移民先の国に知り合いがいる場合が多く、そうした縁者を頼って国を移ってきた。縁者からの手紙には魅力的な話題が並び、実際の困難な状況はたびたび伏せられた。またこの時代にはまだ、今後やってくる状況など想像はできなかった。

 Lapierreの1980年の著作Le Silence de la mémoireは、この時期に国を離れた人々へのインタビューをもとにしている。当時は移民とはいっても、時間と費用が許せば、まだ行き来ができる状況であった。しかし今から当時を思い出すと、その後に実際に起きた別離、死別が、それより前の時代にも反映し、最初に国を離れたこの時期も、罪悪感をもって思い出されてしまうのである。

 そして「悔悟と忘恩」(ジャンケレヴィッチ, p. 135.)から、「以前の世界」へのノスタルジーが生まれる。こうして「失われた関係」が主題となる。

 そのLapierreは父親の語りを引用する。出発時の様子、フランスを留学先に選んだ理由、フランス語は学んだことがなかったこと、そしてその後のことを考えれば、フランスで生き延び、医者になることのできた自分は家族の運をひとりですべて奪ってしまったのではないかという気持ち。 

 父は1935年に博士論文を書き上げ、博士号を取得し、それに基づく論文も発表している。ではなぜ研究者にならなかったのか。同年にフランス国籍をとったユダヤ人にとって、研究者の道は難しかったのであろう。当時大学で教えるためには国籍取得後少なくとも5年は移住歴がなくてはならなかった。医学アカデミーからの賞も受けた父は、その後ある知人からの提案を受け入れ、クレッシュという町で「田舎医者」となることを決める。

 戦争中家族には、フランスを離れることを勧める声が届く。父の恩師からの手紙が残っており、そこにはヴェネズエラの知人が受け入れ先として紹介されている。その手紙には推薦状も添えられていた。だが家族はフランスを離れることはなかった。そして戦後はパリに移って医師を続けた。電気放射線学の資格もとり、新たな知識を身につけながら父は活動していた。

 その間に苗字もLipsztejnからドイツ的なLipsteinそして、Lapierreと変えた。ただLapierre本人は13歳のときに、ユダヤ系の歴史の教師から「ユダヤ人にとって名前を変えることは恥である」と諭されたことを覚えている(p. 161.)。後年LapierreはChanger de nom『名前を変える』という本を書き、人々が名前を変える理由を探っている。戦時中Lapierreの両親はLipotinという名前で証明書を作成していた。ヴィシー政府では1942年2月にユダヤ人の氏名変更の権利を剥奪する法令を出している。Lapierreという名は父がフランスへの愛着と、元の名前の痕跡をとどめるために選んだようだ。そしてもちろん、変更は、もし万が一歴史が繰り返されたとき、子供たちをその災厄から守るためである。

 もちろん名前を変える態度と、ユダヤの人々が亡くなった親類の記憶をとどめるために、彼らの名前を記録することにこだわったことは矛盾しない。それは死者を無名性と集団の中への埋没からすくいだすためであった(p. 169.)。また親たちは、伝統にのっとって、亡くなった親族の名を子供たちにファーストネーム、セカンドネームとして与えた。

 親たちは名前を変えてもユダヤ性を失うことはなかった。子供たちにはユダヤ人と結婚することを望んでいたし、孫たちには、ユダヤと関連がわかる名前をつけること望んでいたし、父は孫の割礼も望んでいた。父はユダヤ性とフランス性の2面を持ち続けたのである。

 現在の世代には、もとのユダヤの名前へ戻ることを希望する者たちもいる。法律的には「外国名」へ戻ることは難しいが、「ヴィシー政府の排斥に対する象徴的修復」としてこの要望を考える弁護士もいる(p. 174.)。

 ただし名前にこだわる傾向についてLapierre自身は留保をつけている。「名前を変える」こと、烙印を押されること、そして移民としてやってくる者たちは、ユダヤに限定されない。その中でナショナリズムの高まりや人種差別の執着心は名前へと集約される(p. 175.)。Lapierreにとっては、人間をこうした「アイデンティティの印」から守ることこそ重要なのである。 

 5. L'héroïsme des immigrés
 この章ではLapierreは、移民という事態には、時にさまようこと、その危険と孤独、別離、いわば「悲惨主義」で語られることが多い事実を指摘する。また彼らは、助ける対象という意味で犠牲者とみなされ、ときに差別、不公平にも遭遇する。

 だが同時に、国を離れ、異国に暮らすためには、「意志、勇気、大胆さ、ときには意識しないこと、そしていくぶんかの希望」が必要であると指摘する。移民は犠牲者であるだけではなく、「社会におけるアクターであり、自らの人生の主体」でもある(p. 182.)。したがってクリシェで語るのではなく、フランスで生きることを決めた外国人たちのより正確で価値付けられたイメージを示す必要がある。そして移民の道程における勇敢さを語る必要がある。勇敢さは単に力を持ち、栄光につつまれることではないはずだ。新しい人生を切り開くため、果敢に、我慢強く戦いを続けることにも認められるはずだ(p. 183.)。

 それらを表現するためには小説形式も有効だろう。Mathias Enard, Rue des voleursの主人公は20歳のモロッコ青年であり、彼の移動を描く。Ariane MnouchkineのLe Dernier Caravansérailはオデュッセイアの副題がつけられており、人物たちは世界各所からの旅人である。

 次にLapierreが強調するのは、比較の可能性である。かつての移民は彼女の親たちのような東ヨーロッパからの移民であり、今日は中近東、北アフリカからの移民である。Lapierreにとって「差異を抹消することではなく、多様なものと類似なものが同時に存在することを前提とする」のが比較である。

 Lapierreが批判するのは、「比較可能なもの(=近接しているもの)しか比較できない」という態度、また「何も比較できるものはない」という態度である。比較不能とは差異のみを認めることであり、それは自らの居場所を固定し、その場所を保全することである。Lapierreは自分の場所を動かないことが、ヒエラルキーを保証し、偏見を助長してきたと言う(p. 189.)。そしてこれが所有の論理、「根っこをはった」者たちだけの縄張りを作りあげてしまうのだ。

 過去の移民たちと現在の移民たちが異なるのは明らかである。それぞれの固有性もある。では共通性はないだろうか?Lapierreは次の3点を挙げる。まずは知らないところに飛び込んでいく彼らの選択と経験。次に周縁化されているという事実。最後に移動にともなう苦しみと豊かさ、特に世界や社会への異なった視線の獲得である。

 Lapierreはノルベルト・エリアスとジョン・L・スコットソンの『定着者と部外者』を引用し、お互い似ているにもかかわらず、定着者は既存権益を保持し、新たにきた者を部外者として排除する。ここには「経済危機、階級、言語、文化、宗教、出自、肌の色」の差異はないのに、軽蔑と排斥は激しく存在する(p. 197.)。問題はそれぞれのグループに固有の性質にあるのではなく、そのグループ同士の関係の編制のされ方にあるのだ。

 私たちの両親の過去を思い出せば、過去と現在の類似するところから、「理解と共感と連帯が可能になるはず」とLapierreは言う(p. 200. )。

 最後にLapierreは「移動の価値と外国人の視線」を擁護する。それは明らかなもの、確実なものから離れた視点である。Lapierreは社会科学の数多くの著者における、移動の体験と社会の批判的分析の間の親和性を、その著書Pensons ailleursで明らかにしている。社会、その社会の常識、権力、制度から距離をおくことが、その社会を理解するためには必要なのである。移動した人々は、どこかに根を張ることなく、多くの世界を知ることになり、少し外に、そして同時に少し内にいるのである。

  6. Aléas de la mémoire
 この章の始まりは1970年代にあらゆる議論で聞かれた「どこから話している?」という問いについての考察である。つまり、どんなことばも自分の社会的ヒエラルキー、権力関係に規定されているということ、つまり主体や主体の持つ省察力、行動力は考慮されていないという姿勢がこの問いからは見えると、Lapierreはいう。

 ユダヤ系といってもLapierreの世代は、フランスの文化に十分に浸っており、ユダヤの伝統からの影響はごく限られたものであった。家族でユダヤの風習、たとえばPessah過越に行ったりもしたが、子どもたちの目にはエキゾティックなものに映っていた。母はこうした風習を皮肉な目でみていた一方で、子どもたちにかける愛情のことばはイディッシュであり、それはおそらく祖母から受け取ったものである。家庭でのケーキもポーランドのユダヤ料理のものであった。こうした違いは、両親があまり伝えようとしたり語ったりしなかったと同時に、子どもの世代も特に尋ねたりしなかったことから生じている。

 70年代には、地方文化の擁護が時代の風潮となったように、アイデンティティの起源を探る傾向が生まれてくる。それと同じように自らのユダヤ性を発見することにもなるが、ただそれをどうしてよいかわからない、「使い方」がわからないのだ。ジョルジュ・ぺレックもEllis Islandで「ユダヤ人であるとはどういうことか、ユダヤ人であることが自分にどういう意味があるのかはっきりとわかってはいない。ユダヤであることは明白だが、それは平凡な明白さだ」と述べている(p. 212.)。

 こうした不安は、ぺレックの世代、すなわち戦争中に子どもだった世代をとらえている。Lapierreの戦後世代は希望が回復するなかで生まれている。ナチズムの体験を両親が話すことはあまりなかった。また戦争によって失われてしまった時代のことも。その沈黙にはさまざまな理由があるだろう。重い過去から自分を切り離したい、あるいは何よりもまず自分たちの子供をこうした過去から切り離し、未来への向かわせたいという気持ち。特にLapierreの両親にとって、未来は勉学に打ち込むことで拓けるという確信があった。

 ただ文化的なレベルでの復興はあったものの、歴史学、社会学、人類学はむしろ弱まりゆく記憶継承を課題としていた。その流れにLapierreも入っていく。実際失われていく自分の家族、そのなかで消えていく記憶の問題が、「ユダヤの記憶」という研究主題を選ばせることになった。そして父の故郷の出身者たちへのインタビューとアンケートの調査から書かれたのがLe Silence de la mémoireである。これは体験を「復元した」(p. 218.)研究となった。

 「記憶とは一度で決定されるものではない(p. 219.)。私的空間、公的空間での沈黙の時代の後に、80年代には、言葉の時代がきた。ヴィシー政府の秘密が明らかになりはじめ、歴史修正主義に対抗する言説が起こる。そのなかでさまざまなアプローチが生まれるが、そのひとつがフィンケルクロートの『想像のユダヤ人』である。ここでフィンケルクロートはユダヤ人をやめるとは、「苦しみを年金として生活する者、絶対的正義の正式の受託者」であることをやめることだと述べる。

 1978年にはテレビドラマ「ホロコースト」が大成功をおさめ、ジェノサイドの表象が世界に伝播することになる。このテレビのフィクションの対極に、クロード・ランズマンの「ショア」があり、この作品が初めて上映されるのが1985年である。文学作品では1982年のHenri RaczymowのUn cri sans voixがLapierreに強い影響を与える。

 90年代はショアの記憶が多くの国で認められるようになる。フランスでは1995年に当時のシラク大統領がユダヤ人連行についての国家責任を公に認めた。

 しかしながら、こうした過去の認識が「現在の犯罪に対する本当の警戒」(p. 225.)へとは結びついていない。「記憶の義務」も「こんなことはもう二度と」も単なる題目として消費されてしまったのである。

2000年代に入り、ショアは世界的に拡散されていく。それによってイメージも出来上がり固定化されていく。こうした現象に対して、たとえばハンガリーのノーベル文学賞作家イムレ・ケルテスは「ホロコーストの消費」を批判する。またこうした物語化は、実際に偽の自伝を生むことになり、Binjamin WilkomirskiやMisha Defonsecaの偽の作品に「騙される」ということが実際に起きている。これらの作品が大きな反響を呼んでいたのは、それだけ「ショアが、犠牲者が今後主要な社会的像となる文脈において、あらゆる苦しみの典拠となった」(p. 232.)ことを示されているのだ。

 2011年に出されたLapierreのCauses communesは苦しみから派生する「犠牲者争い」を批判する意図で書かれている。この本はユダヤ人と黒人の「20世紀の間にあった、共通点、同盟、共同の戦い、相互の考察」をまとめたものである。その目的は、共感が存在し、他者の視点を理解する能力、他者の体験、思想、感情に考えをおよばせる能力が存在すること、決してそれは同情ではないことを示すためであった。

 こうした考えには、理想だけをかたる素朴なものだという批判もあった。だが似た条件がなければ連帯は生まれないだろうかとLapierreは疑問を呈する(p. 236.)。それは自分のおかれた環境に意識を支配されているということだからだ。まさに「どこから?」という所属においてからしか人間は行為できないのだろうか?

 Lapierreが最後に考察するのは被害を受けた者の感情・同情の問題である。Lapierreはpathétique(感情への訴え)は、「歴史の悲劇を理解する鍵とはならず」、「考えることよりも、沈めること、妨げることを行う」と言う。それによって「不正、不平等に対する必要な戦いは、pathétiqueが広げる淵の中に沈み込み、失われてしまう」(p. 239.)のだ。

 実際にショアの物語はパトスの物語だけではない。たとえばDanielle BaillyのTraqués, Cachés, vivants. Des enfants juifs en France (1940 - 1950)(追われた者、隠された者、生きている者、1940-1945年のフランスにおけるユダヤの子供たち)は、「活気、知性、抵抗のモデル」を私たちに示している。

 Lapierreは、両親も姉も亡くしている今だからこそ、この本を書いたのだが、それは不幸の遺伝、言い換えれば、ユダヤの困難の歴史を引き写すためではなく、それを否定するのでもなく、「この亀裂と憂鬱の上に、連帯と参加のモラルを作り上げる」ためであると述べている。また、犠牲者であっても主体的に振る舞えることを示すため、どのような困難さにあったとしても、あらゆることに立ち向かう自由はそれぞれうちに残されていると述べる。

 Robert Boberは1931年生まれ。去年出版された本書は、90歳近くになって書かれた。Boberはテレビ番組用の文芸ドキュメンタリーを多く撮影した映像監督として知られるが、そのシナリオを担当したのがPierre Dumayetであった。二人は長らく仕事のパートナーであり、同時に強い友情関係で結ばれていた。本書は、2011年に亡くなったその友人にtuで呼びかけながら書いた長い手紙である。

 Dumayetは手紙の宛先であって、亡くなったDumayetがどんな人物かが書かれているわけではない。Boberは、あくまで親しい友への私信として、二人が手がけてきた映像作品を中心に、思い出を語っていく。手元に残された、仕事の資料、写真、Dumayet自身の文章などから、思い出すがままに語られていくので、作品には、はっきりとした構成も、章立てもない。Boberは「この無秩序に手をつけることはしない。この無秩序は、思い出の秩序に結びついているからだ」(p. 275.)と言う。あるエピソードが、間を置いて、再び語り直されもする。あたかも長年の友人と思い出話をしている様子がそのまま書き写されたかのようである。

 親しい友人と話すとき、何を話すかあらかじめ決めているわけではない。興に任せて話題は移っていく。話しているうちに別の昔の出来事を、まるで昨日のことのように思い出したりもする。再び前の話題に戻ったり、「脱線」をしながら私たちは会話の時間を楽しむ。この作品はそうした、うちとけた会話の自在さがそのまま語りとして文字に移されている。

 同時に書いている現在も作品の中に現れる。Boberは書いたものを読み直したこと、それによって思い出だされた出来事を新たに書いていくこと、その過程自体も書いている。その言葉自体も、Dumayetを宛先としており、あたかも確認作業を二人でしているかのような印象を受ける。 

 はっきりとした構成はないが、それでもこの作品には、ひとつの主題が流れている。それはイディッシュ、ハシディズム、ユダヤ性である。Boberの一家はもともとはポーランドの出身のユダヤ系である。だがポグロムが頻発するなかで、祖父はアメリカへの移住を決める。そしてアメリカ大陸まであと一歩まで近づくものの、エリス島で、トラコーマと診断されて、ヨーロッパへ戻されてしまう。そしてBoberの両親は、ナチスが台頭するドイツからフランスへと移住する。Boberは一歳半だった。両親はButte-aux-Caillesで商売を始めるが、ドイツ軍の占領下、Boberは「隠された子どもenfant caché」としてかくまわれ、命を救われる。そのBoberの戦争体験から語られるユダヤの歴史と現在が本書のひとつの特徴である。

 例えば二人が手がけた番組としてジュネーヴのラビであるアレクサンドル・サフラン、『Le Dernier des Justes最後の正しき人』のアンドレ・シュヴァルツ=バルト、マルティン・ブーバーの『汝と我』に言及される。

また、はっきりとした構成がない代わりに、想起や連想によって出来事から出来事へと文章は進んでいく。たとえば、Dumayetが自分の著作で、鳥類学者のJacques Delamainの著作Pourquoi les oiseaux chantentを番組で紹介できず後悔しているくだりでは、戦場の最中に、鳥の声を観察しているDelamainの日記に言及されている。Boberは、その鳥のモチーフから、Pierre Reverdyの詩の一節、« Un oiseau s'enfonce dans l'herbe pour mourir.»へと連想を広げ、Delamainの著作は「戦争の恐怖を克服するための鳥への関心」があったのでは、とDumayerに語る。

 そしてさらに「鳥と詩」のモチーフから、Paul Celanの詩の一節、« Nous creusons dans le ciel une tombe où l'on n'est pas serré. » が引用される。そしてすでに引かれたブーバーの『ハシディズム』から、動物の鳴き声の逸話が引用される。さらにローザ・ルクセンブルクが墓碑にはただ「zvi-zvi」とだけ掘って欲しいという逸話も。シジュウカラの啼き声をあまりにうまく真似するようになったので、鳥たちが寄ってくるようになったと、手紙に書かれた逸話である(p. 52.)。

 思い出は実際の過去だけではない。想像された過去もある。Boberはフランスが解放され、アメリカ軍のパリ入場時に黒人兵にだっこしてもらい戦車に登ったことを覚えている。そして翌日、その黒人兵は贈り物をもって家に訪ねてくる。父も母も涙しながらその兵士を迎え入れる...。しかし翌日の思い出は、前日にチューインガムをポケットに入れて家に戻って来たときの想像にすぎない。だが、Bober少年が、その翌日の両親と兵士の邂逅を想像したこと、その想像によって喜びを実感したことは事実なのだ。「もしそうだったら」という条件法過去は、他にも例えば、「曽祖父は私にこう言ったのではないか」という想像から、曽祖父の言葉が書かれている。私が勝手に曽祖父の言葉を作っているのではない。当時の場所、曽祖父の生きた歴史、そうしたものを復元していくからこそ、あるときその場所から言葉が生まれてくるのである。

 「もしこうであったら」という、実現しなかった過去は、想像によって現実に等しい強度を持つ。それは「正確な真実」ではない。だが「私たちの現存によって変容した真実」(p. 61.)である。

 この作品は、Dumayetへの呼びかけの手紙であり、Dumayetについて書かれた本ではない。だが、一人が映像を、一人がシナリオを担当して番組を、映画を作り上げてきたからこそ、「関係」という語が根本的に重要な語であることがさまざまな引用を通して強調される。「決して一人では困難をくぐり抜けることはできない」というお互いの相手への思いもそうであるし、ブーバー『汝と我』もまさに関係の書である。制作された番組が多くは作家たちへのインタビューである以上、そこには会話という場面の関係が生まれる。そして会話とは、「言葉と視線と沈黙」(p. 61.) によって作られる。例えばマルグリット・デュラスのインタビューには、多くの沈黙がある。通常ながらカットされてしまう音のない場面も、それが会話の一部だからこそしっかりと残されているのである(p. 247.)。

 カメラは本質的に映すもの映されるものの関係において成立する。そこから連想はウォーカー・エヴァンスとジェームス・エイジーの『名高き人々をいざ讃えん』へと移る。Boberが映画の仕事をしているときによく言われたことは「俳優はあたかもカメラが存在していないかのように振舞わねばならない」だった。撮影者とは無関係に、俳優は自律的にその場に存在しているということだ。その点から見れば、被写体を映す写真の手前にカメラマンの影が映ってしまっているエヴァンスの写真は、不注意でも、不器用ということになる。だがBoberはそこに被写体の女性とエヴァンスの間に生まれた関係を認めるのだ。女性はカメラマンに微笑んでいる。影はカメラマンの「その場所に私もいる」という存在証明であり、イメージの中に「共にいる」ことの証明なのだ。そしてまた女性の笑顔は、カメラマンを、自分の日常へと招待する自然な態度なのだ。カメラマンは、作品を撮ること以上に、その笑顔に強く感動する一人の人間としてその場にいることを歓ぶ。ここに関係の本質がある。

 同じことが、150ページほど離れた箇所でも言われる。それはロベール・ドアノーの写真についてである。BoberとDumayetはClochardesのルポルタージュを撮影する。その冒頭で使われているのがドアノーの写真であり、そこで用いられたDymayetのテキストが書き写される。「自分の趣向にあった写真を撮るためには、相手の協力が必要であるかのように、ドアノーはその相手に話しかける」、「やがて彼らは写真に撮られてうれしいと感じ始めるのだ」。

 さらに思い出すままに、エピソードがつながっていく。BoberはこのClochardesのの一人が「勝手に撮ればいいよ、そしたら私が捨てた娘も、テレビで私のことを見るだろうよ」と言ったとき、彼は撮影をやめる。それはドアノーも同様で、アルプスの山の中で羊飼いと一緒にいた時に、トラックによって羊の群れが轢かれるということがあった。ドアノーはその現場の写真を撮らず、羊を失った羊飼いを慰めたというジャック・プレヴェールの話をBoberは載せている。そこには撮らないことの倫理がある。

 関係は過去と現在をつなぐ。Boberはアネット・ヴィヴィオルカの著作Ils étaient juifs, résistants, communistesを引用し、レジスタンスについて語る。そしてその話はシャルリ・エブドとつながる。Edwy Plenelがシャルリ・エブドを「赤いポスター」、ナチスがレジスタンスの活動家を印刷して貼ったポスター)を揶揄したことを批判し、銃殺された彼らの名前と、シャルリ・エブドでなくなった人々の名前をともに列挙してる(pp. 140-141.)。

 同じモチーフが本書の中で、何度もヴァリエーションを変えて反復される。たとえば「沈黙」は、先ほど述べたデュラスのインタビューにおいて重要なモチーフだったが、たとえば「沈黙は私の中に入った死者の言葉である」とGérard Wajcmanの言葉が別の場所で引用される(p. 148.)。

 他にも本書にはさまざまな交流が書かれている。マックス・オフュルス、ジャン・タルデュー、エルリ・デ・ルカ、ジョゼフ・ロート、アペンフィールド、マルク・シャガール、エドモン・ジャベス、エリック・ヴュイヤール、ゼーバルト、フィリップ・ロス、フランソワーズ・マルロー、そしてジョルジュ・ペレック。

 ドキュメンタリーは時に予期せぬことを映す。予定からはみ出るという意味で断片的なエピソードではあるのだが、その断片がときに作品に大きな意味を与える。そのような場面が二つ引かれている。一つは自分の作品Réfugié provenant d'Allemagneから、Radomという父親の生まれ故郷を撮影したときのこと。まだここに暮らしていたユダヤ人の夫人を車に乗せて記念碑まで案内してもらった場面で、その夫人は道案内とかつてのユダヤの街の説明を交互にしていく。そのような場面は、決してシナリオでは準備できなかったとBoberはDumayetに語る(p. 279.)。

 もうひとつはRuth ZylbermanのLes Enfants du 209, rue Saint-Maur, Parisというドキュメンタリー映画の場面である。子ども時代にこの場所で過ごし、戦後アメリカに渡った今は老人となった人物が過去の記憶を拒否しつつも、この場所に再びやってきて、両親の痕跡を今も残る建物に探る。こうした予期せぬ場面を映す可能性があるのがドキュメンタリーである。

 Boberは、自らが撮影したEn remontant la rue Vilinについて次のように述べている。このドキュメンタリーは、道に並ぶ建物の番号を撮った写真を並べ、それを写しているのだが、写真という「断片」は「それぞれすでにひとつの完結したイマージュである」(p.216)。その意味で、それぞれの写真は他の写真から独立しているようにみえる。しかし映画としてそれぞれの生活空間を組み合わせると、そこに「道筋、物語(récit)が導入される」と言う。Boberの本書も、まさに回想という断片を、連想に任せてつないでいく。それぞれの思い出は独立して想起される。しかし読み進むにつれて、その断片がゆるやかに結びつき、一つの物語が生まれてくるのである。Boberはエドモン・ジャベスの「作品よりも、その中の一文や一節が生き延びるとしたら、それは作者ではなく、読者が(...)その特別な機会を与えるのだ」という言葉を引いている。本書もこうした一文、一節のさまざまな引用がちりばめなれ、それぞれが呼応しながら物語を生んでいる。

 冒頭で述べたように本書は、亡き友人にあてて書かれた手紙である。本人ももう90歳となる。当然ながら死を間近に意識する。終わりの方で、Boberはジャンケレヴィッチの「存在をしたものは、存在しなかったということには、もはや今後なりうることはない」という言葉を引いている。一度存在したものは、たとえなくなっても、存在しなかったことにはならない。その真実の重みをこの本から受け取った。

Pachet, Pierre, Adieu (2011)

 フランスでは、20世紀後半から、「私」を主語にしつつも、「自己の不確かさ」「他者の不確かさ」を問うテキストが現れてきた。本論では、特に、近親者の死をめぐって書かれる「喪のテキスト」の中で、このような自他の存在の問い直しが顕著になされる傾向があることに着目し、「喪の語り」の特性について考察した。具体的にはフランスの作家ピエール・パシェ(Pierre Pachet 1937 - 2006)が、亡くなった妻について、そしてその喪失体験について書き綴った作品『アデュー』(2001年)を取り上げた。

 発表では、まず第一に語りの形式特性を明らかにするため、ナラトロジー研究、記憶研究、物語論などを援用し、物語(histoire)と語り(récit)を対照し、後者に、筋立ての弱い断片的構成、発話の現在性を記述することによる、いいよどみなどの不完全の言述といった特徴があるとした。

 続いて、死者は自分について書かれた文章に目を通し、修正や批判を加えることができない以上、生者の言葉、視点によって死者を支配しないことを、パシェが書くことの倫理としていることを指摘した。

 その上で、出来事を悲愴化しないこと、解釈を決定せず、ことばの意味を考察し続けること、書く行為はたえざる「試み」であると認識していることにパシェの言述の特質があるとした。このような書き方を選択するのは、人を知るとは、ある一瞬、ある一時期、偶然聞くことのできた小さな語り、すなわちその人についての数限りない断片を通してのみ行われる行為であるとパシェが考えているからである。

 だが、この態度は不可知論や相対主義には陥らない。確かに、私たちには、他者の本質は見えず、それを具体的に名指すことは難しい。しかしそうであっても、私たちは、そのときどきの断片を通して、その本質を分有しているのだ。このような他者の本質の感受が可能なのは、パシェが、死者を書くことに高い倫理観をもち、書く形式にきわめて自覚的であることによって、「私」の言葉を通して、その言葉の向こうに、その人の存在が見え、その人の声が聞こえてくるような、語りを模索したからであると結論づけた。

第二回声の主体による文化・社会構築研究会 - 声のつながり研究会の発表「『喪失の声』と物語(histoire) / 語り(récit) - 喪失を書く現代フランス作家のいくつかの事例から (1) ピエール・パシェ『アデュー』を通して」の報告書より転載。