ジャブロンカは、この章で、フィクションの意味を再定義することにより、文学と歴史の違いという古くからの問題にあらたな提案をする。作品が現実をどう参照しているかという現実世界と作品世界の関係性の問題としてのフィクションではなく、ここで展開されるのは「方法としてのフィクション」である。言い換えれば、文学であっても、歴史であっても、そこで言述される世界の現実世界への参照の問題ではなく、言述そのものに内在するフィクションの機能の問題である。その機能は、ある特別な言述行為に特有のものではなく、言述行為自体が本質的に備えている機能であり、その限りにおいて、文学であろうと歴史であろうと、およそ語られるものには、そのフィクションの機能が必ず認められる。

フィクションの地位
 ジャブロンカはまず文学理論が提唱してきたフィクションの「対象」について整理する。自動詞的、他動詞的という考え方である。自動詞的とは、フィクションが参照する現実をもたず、自律した世界を構成している、したがって、真理は「フィクションの真理」であるという考え方を指す。これにはもちろん反論があり、私たちは文学を読むことで、その舞台となる現実を理解したり、主人公を通して、人間の偽善や倒錯といったスキャンダラスな世界を実際には知ることになる。

 他動詞的とは、世界を参照系にもつフィクションのことである。フィクションはどのような形であれ、世界を写し取って成立している。参照するのは現実の物理的世界とは限らない。「社会(...)心性、時代精神について何かを述べ」、現実の人物をモデルとし、現実の作家の「心理や、教養や、心情...」などを反映する。

 だが他動詞的な読解は、困難にぶつかる。それはフィクションが現実に対して取る関係による3つの区別からうかがえる。
(1) 信じがたいもの。いわゆる見たことのないもの、空想的なフィクション。
(2) 真実らしいもの。そのフィクション世界を信じられるか/られないか、という二分法であり、これは読者の基準で変動する。
(3)「上級の真理」。これはフィクションがあまりに現実的であるので、フィクションの世界がむしろ現実世界を覆ってしまうような事態である。さらにいえば文学だからこそ暴けるものもある。

啓示としてフィクション
 ジャブロンカは自動詞的な考えは「閉鎖性」が問題となるし、また他動詞的な考え方は、小説が、現実を指向対象とする以上、「鏡としての文学」になってしまうと、その不十分さに言及する。その上で、ジャブロンカは、現実とフィクションについて、「ミメーシスには属さない」関係を指摘する。それが「啓示としてフィクション」であり、それは、「現実を読み解く」鍵となる。具体的には、「叙事詩、神話、詩、アレゴリー、シンボル」である。たとえば時に詩だけが、「言葉にならない経験を伝えることができる」。アレゴリーは、例え話によってよりよく真理を伝える。シンボルは、象徴化と言った方がわかりやすいかもしれないが、「実在はしないものの、完全に実証されたある社会的事実を体現する類型的人物」に何かが体現=象徴化されていることを指す。

 ここまでジャブロンカが主張しているのは、「フィクションをミメーシスから引き離し、知識のプロセスに組み込むこと」であり、フィクションを行為の再現ではなく、事実を解明するための論理、「世界についての知を組み立てる道具」として考えるということである。

離反
 この「事実を解明するための論理」が、「方法としてのフィクション」である。これは小説がフィクションであるというフィクションとは次の三つの点で異なる。
(1) それはフィクションとして示されている、つまり自分自身を告発している。
(2) それが現実から遠ざかるのは、より強力になってそこに戻るためである。
(3) それは遊戯的でも恣意的でもなく、論理によって操作される。
 このジャブロンカの主張は、フィクションであると明示しながら、論理構成をすることによって、現実に対する認識がより明晰になっていくということを示しているだろう。

 その「方法としてのフィクション」の機能として4つのグループが挙げられている。一つ目が「離反」である。これは、現実に対して距離を取ることであり、たとえば引用されているようにロシアフォルマリストたちの「異化」と同様のプロセスであると思われる。ジャブロンカは、加えて離反を生じさせるものとして、「拒絶」と「驚嘆」を挙げている。拒絶は、理解という前提そのものを問題視する。驚嘆は、この世界を新たな相貌のもとに受け止めるということだろう。これは文学だけではなく、「刷新としての歴史」ともなる。

信憑性
 信憑性は、文学においては、その世界に同意して、「不信を停止させて」その世界を受け止めるが、歴史の場合は、「あらゆる知識を考慮」に入れた、確かな可能性の意味となる。それはヘンペルの「蓋然性仮説」と同様にみなすことができる。また歴史は「起りえたことやおそらく起こった」ことも言明する、とジャブロンカは主張する。

概念と理論
 ジャブロンカはここで、「概念」も、「現実を概念化」する以上は、「現実のフィクションである」とみなす。また、社会科学の論理における、モデルや理念も、「現実とは無関係な構成物」であって、それは、現実とのずれを測るための存在であると主張する。また、メタファーや抽象概念も、方法としてのフィクションであるが、それによって、現実を明らかにするのに役立つ。

 ジャブロンカはこうした行為を論理操作として考えていると思われるが、視点を言述にうつせば、こうした機能は、言述行為そのものにそなわっている、私たちがより明確に理解するための言語の本質的な機能と言えないだろうか。
 ジャブロンカは、たとえば、1930年代の移民・難民に対して、「sans papier」を使って説明することも、ひとつの「知的制作」であると主張する。ここには概念とその概念適用という「方法としてのフィクション」が働いている。

叙述の手法
 叙述の手法とは、ナラティブ=語り手の地位、読み手を誘う焦点化、選択の結果としての言表などの問題である。例として引かれるのは、シンボルによる叙述である。マーカス・レディカーの『奴隷船の歴史』では、奴隷船と人間についての焦点化がなされている。また言述は、必然的に選択の結果である。「ヒトラーがポーランドに侵攻した」という、三人称的=無人称的な語りの中にも、「総統の決断を前面」に出すための選択の結果である。

 語り手については、たとえば「死語の対話」のように死者に語らせる手法がある。またアラン・コルバンの『知識欲の誕生』のように、「十九世紀の田舎教師の中に」入り込むこともある。

フィクションを活性化する
 以上見てきたように、ジャブロンカにとって、フィクションは「手法」であり、その手法によって、「知識の生産」が可能となり、「仮説を立てたり、概念を動員したり、知を伝達したりすることで、人間が実際に行うことを理解するのに役立つ。」そしてジャブロンカは、歴史は「古文書学的な想像力や、独創的な着想や、大胆な説明や、叙述における発明を必要とする知的冒険である」と言う。

 この考え方によって、フィクションはもはや文学と歴史を対立させる概念とはならない。この手法としてのフィクションは文学作品の中にも歴史の中にも多かれ少なかれ認められるのだ。
 では歴史と文学は区別がなくなってしまうのか。ジャブロンカは「歴史は文学の一形態」であると述べているが、それでも、これも本人の言うとおり、歴史は「調査によって周りを固められる」場合に、文学から少し離れるのではないだろうか。
 ジャブロンカは最後に次のように述べる。
 

一方には、断定的で、遊戯的で、惰性において面白いフィクションがある。他方には、仮説や、概念や、問題の表明や、論理の連鎖や、叙述の形式といった、方法としてのフィクションがある。

 作品の文学性、歴史性は、したがってこの2つのフィクションの傾向の度合いによるのだろう。

 ジャブロンカは、ペレックの『Wあるいは子供の頃の思い出』に言及する。この作品は、2つの物語が交互に語られる形式になっており、通常は、フィクションとしての物語と、子供時代の自分を語る現実の作者が登場する部分と考えられる。しかしこのフィクションとしての物語が、ペレックが子供の時に書いた「私の子供時代の物語」であるとわかるとき、この物語はもはや創作としてのフィクションの物語ではなく、子供時代の自分自身についてのアルシーヴへと変化する。反対に、「現実」の部分は、実は「フィクション」に満ちているのだ。『W』は、自分自身に関するアルシーヴについての調査として読むことができる限りにおいて「歴史書」なのである。

 また『ショアー』についても、この映画におけるアルシーヴの不在は、方法としてのフィクションの実践であり、それは「過去についての月並みな物語に反対するため」なのである。「現実についてのフィクション」によって、現実を明るみに出しているのが『ショアー』なのだ。

イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト』(真野倫平訳 名古屋大学出版会 2018)

Duperey, Anny, Le Voile noir (1992)

両親の死とその後の生
 アニー・デュプレーは、1947年生まれのフランスの女優で、舞台、テレビ、映画などで幅広く活躍し、国内ではもっとも有名な芸能人のひとりである。また一方で著作活動にも力をそそぎ、彼女の書いた小説は高い評価を受けている。その彼女が、1992年、45歳の時に出版した『黒いヴェール』は、小説ではなく、自伝形式の作品であった。単にジャンルが異なるだけではなく、社会的な名声をもつ女優が私的な過去を明らかにするという意味で、しかもそれが子どもが体験するにはあまりにも痛ましい事故であったという意味で、特別な作品となった。

 その事故とは、彼女が8歳半の時に起きた両親の死である。自宅の浴室にいた父親と母親が同時に一酸化炭素中毒のため亡くなったのである。当時自分の部屋にいて、両親の死を目撃したデュプレーは2つの喪失を抱えることになる。ひとつは両親の喪失。もうひとつは8歳半までの記憶の喪失である。デュプレーはこの事故後、それまでの生前の両親についての記憶も、その両親に8歳半まで育てられてきた自分についての記憶も失ってしまうのである。『黒いヴェール』の意味のひとつは、ある大きな衝撃がこどもを襲ったときに、それに先立つ過去にヴェールを被せたかのように、記憶が消されてしまう心理機制を指している。

 デュプレーは、自分を襲った心理機制ゆえに、すなわち、この過去の忘却があったゆえに、生きることができたと信じている。
 

私は、自分がふたりの死んだ朝に生まれたというこの印象をもちつづけなければならない。わたしがその後を生きるためには、ふたりは私の記憶のなかでも死ぬ必要があった。そうである以上、この記憶喪失は慈愛に満ちたものであることを、私は信じないわけにはいかない。( p.36.)

 この衝撃的な両親の死を境に、自己の「存在の連続性」は断ち切られた。本来子どもはこの「存在の連続性」によって安定した自己を築いて、成長していくはずだ。だが両親の死という事実を正面から受け止めることは、子どもにはあまりに過酷で、生きることの困難にそのまま直結するものであっただろう。それでも生き続けるためには、自分のこれまでの生の時間を二つに切断することで、死んだ両親の記憶を抹消する必要があった。記憶の消失を代償にして、かろうじて生き延びるすべを手にいれることができたのである。記憶喪失は自分の生を救ってくれたという意味で、デュペレーにとってはまさに「慈愛に満ちた」ものに映った。

 以後、両親の死という事実は、残された子どもだけではなく、まわりの大人たちによっても隠されていく。だがそれは喪に沈む遺族たちのそうするほかない選択であった。
 

私たちのうしろにはすでに大勢の死者がいて、私たちが前進するためには、死者たちをいまいる場所においていかねばならない。生者は生者の務めに、死者たちは墓地に。私たちは決して死者の話をしなかった。(p.57.)

 生者と死者の場所を切り分け、死者との関係を断絶すること。それは「喪の作業」の一過程でもある。これ以上死者とつながり続ければ、生者自身も生きていけなくなる。これは、生者が、無意識の生の欲動に突き動かされ、現実を吟味し、愛する者はもうこの世界にいないと納得し、社会生活へ復帰する過程でもある。だが後述するように、書くということは、このような喪の作業には実は終りがないことを気づかせてくれる行為である。

書くことのはじまり
 デュプレーは、17歳で故郷を捨てるかのように、育ててもらった祖母たちの家を離れ、演劇を志すためにパリの演劇学校に入学する。ほどなくして、映画、舞台で活躍し、社会的成功を収めるわけだが、その人生の歩みのなかで、この子ども時代の過去を振り返ることはなかった。そのデュプレーが両親について書こうと決心をしたとき、二人の死からすでに30年もの年月が経っていた。

 書くことのきっかけは、写真家だった父親の写真とネガを家の古家具の中から見つけたことだった。無名の写真家のまま人生が終わってしまった父親のために、これらの写真を世間に発表したいと考えた。そしてそこに写された風景、人々を通して、自分の子ども時代を書いてみたいという気持ちも芽生えてきたのである。

 私たちは過去を思い出すとき、その過去をひとつの情景として描くことはごく自然なことであろう。記憶は私たちのなかでイメージとして想起される。過去が失われたデュペレーにとって、不在なのはこの過去のイメージである。ならば写真という紙に写されたイメージを手がかりに、イメージとして記憶を取り戻せるのではないか。父親の写真が、個人的記憶のイメージの不在を埋め合わせるのではないか。そうした期待があったに違いない。

 実際この作品は、父親の写真とその写真から喚起される思い出の破片を書き記した長短のテキストから構成されている。ただし実際に書かれ始めたのは、写真とネガを発見して数年経ってからのことである。父の写真を発表したい思いはあるとはいえ、それにあわせて説明となるキャプションではなく、個人的な記憶を書くことの意味がどこにあるのか。デュプレーはこのような躊躇を感じる。さらにデュプレーは、単に自分について書いても、そのまま表現になるわけではないと十分に意識をしている。

 自分に向かってひとり心情を吐露することからは、ほとんど何も生まれない。(p.17.)

 単に感情に動かされ、ことばを発しても、それは自己の内で響くだけである。それは痛みに苦しむ自分とそれを憐れむ自分との自己満足的な馴れ合いでしかない。では書くことに本当の意味を与えるためには何が必要なのか。それは宛先である。
 
 そのためにデュプレーは、この作品をまず妹へ宛てて書くことを決心する(p.6.)。両親が亡くなったとき、妹は1歳の赤ん坊に過ぎず、記憶の忘却どころか、忘却する記憶さえないのだから。さらに身内だけではなく、一般読者に読まれ、「名のない他者の感受性と分かち合う」(p.18.)ことを考える。デュプレーが求めたのは書いたものを読んでくれるかもしれない他者の存在、そしてこの他者とのゆるやかな存在の連関である。

 他者へと表現が開かれるときに必要とされるのは「明晰さ」(p.18.)であるとデュプレーは言う。自分について書きながらも、他者との間で共鳴が生まれるとするならば、むしろ感情を抑制した冷静な筆致が必要とされる。この他者に対する誠実な態度を自らに課すとき、ようやく書くことが始まる。

書く行為を書く
 しかし、書く行為を決心したとはいえ、それによって書く内容が自然に湧き出してくるわけではない。デュプレーは写真を手掛かりにして、過去、すなわち両親、親族、生まれ育った場所の風景、そして自分の子ども時代を何とか想起し、微かな記憶の破片を書きしるそうとする。

 だが、両親を喪うという、自分の存在を根こそぎにするような体験を明晰で冷静な表現に結びつけることは、いかに優れた書き手であっても困難がつきまとう。

 たとえこうした悲惨な事故でなかったとしても、一般的に子どもの頃に親を亡くした人間にとって、親を書くことは、親の真の姿を正確に描き出そうとすればするほど困難さがつきまとう。その理由のひとつは記憶の所有をめぐる問題である。たとえばその例をフランスの小説家マルグリット・ユルスナールの言葉に見出すことができよう。

 ユルスナールは、晩年『世界の迷路』と題された回想録を執筆している。自分と自分の家系を、ときに数世紀も遡りながら書いた作品であるが、最初に書かれるのは「私の誕生」である。だが、ユルスナールが生まれて程なくして、母親は産褥熱で命を落としており、その意味で私の誕生は母の死とともに始まっている。自伝とはいえ、そのはじまりで書かれるのは母の死である。

 この誕生と死を書くにあたって、ユルスナールは、「一人どころか十人もの仲介者をへて受け取った記憶の断片や、人が屑篭に投げ込むのを怠った手紙や手帳の切れ端から引き出した情報などにしがみつかなければならない」(『追悼のしおり』p.11.)と述べている。アイロニーが多分にこめられた言い方ではあるが、記憶は断片的であり、また子どもである以上、直接な記憶は不可能である。母の存在についての私の記憶は、私の記憶ではなく、他者の記憶の不確実な再構成なのである。
 デュプレーも同様に次のように言う。
 

自分の個人的な印象と、あとで語ってきかせられた事柄とをうまく区別はできない。だが本物の記憶と聞かされた記憶とが渾然一体になってしまうのは、多くの子ども時代に共通する宿命ではないだろうか。(p.24.)

 ただでさえ、子ども時代の記憶はさまざまな他者の記憶と混じり合い混成された状態となって存在する。変型されやすいのが子どもの記憶だとするならば、子ども時代の喪失の体験は、書く行為にどのような作用をもたらすだろうか。

 デュペレーは、父親が撮った祖父の写真についての章で、あくまで誠実に記憶を辿り、それを記そうとする。そして祖父の死について次のように記す。
 

私はおじいさんのことをほとんど知らない。事故のあと、ボンスクールの丘の上で暮しはじめた私は、おじいさんが喉頭癌でひどく苦しみながら死んでいくのを見守ることになった。(p.52.)

 自分の記憶の中では、両親の死後、父方の祖父母の家に引き取られ、その後まもなくして祖父の死の間際の苦しみに立ち会ったことになっている。あわせて祖父との決して多くない交流の思い出を書き進める。しかし章の終わりになって、実は祖父が亡くなったのは、両親よりも前であったことがわかるのだ。
 

記憶違い。念のため、親戚のひとりに問い合わせてみてわかったのだが、私は死者の順番を取り違えていた。だが祖父の死は、両親の死と切っても切れない関係にある。祖父はふたりの後ではなく、ふたりのほんの一、二週間前に死んだ。(p.58.)

 ここで章の最初の記述は記憶の錯誤による間違った内容であることがわかる。しかしデュペレーは書き直したりせずにそのまま残し、その上で実際の死の順序をあらためて誠実に書いているのである。記憶違いの内容を、そして記憶違いであったこと自体も書いているのは、この文章が、自分の過去の事実を明らかにし、真正の記憶を獲得するためではないことをはっきりと示している。記憶違いをそのまま書き残すのは、それが自分自身に忠実な記憶だからだ。その記憶は事実に照らし合わせれば間違いではあるが、その記憶を自分がもっていたこと、それ自体は疑い得ないひとつの事実なのだ。ではなぜこの記憶を彼女は保持していたのか。
 

私が死を本能的にとり違えたのは、私にとってずっと激しくまた身近だった両親の死の衝動が、死の苦しみのなかの祖父のイメージのあとから色をつけ、それに決定的な共鳴をあたえたからだ。(p.60.)

 子どもであったデュペレーにとって、両親の死は、死という事実を理解することは難しかったとしても、強い衝動をもったはじめての喪失の体験であった。実際にはその前に祖父の死を経験していたとはいえ、その祖父の死は、強い印象を喚起することなく、意識に刻まれることはなかった。つまりデュペレーは両親の死によって、初めて、そして圧倒的な衝撃のもとに死に立ち会い、それによってはじめて遡及的に祖父の死が意識されたのである。

 このように『黒いヴェール』における書く行為は、過去の事実をつきとめてそれを復元することではない。ここで重要なのは、書いている過程そのものを書くことである。自分の記憶をそのまま書き記し、それを読み直し、念のために親戚に尋ね、記憶違いだとわかる。こうした両親の思い出を書くにあたっての錯綜する過程そのものを書いているのである。それは何より、何を書くかではなく、書くことそのものを通して、もういちど死者と私の関係を問い直そうとしている書く人間の誠実な姿勢そのものであろう。

書くという過程
 書いている過程を書くことは、作品全体にわたる特徴でもある。デュペレーは随所で「祖母についてのこの文章を書き終えたあと、一晩が過ぎた」(p.80.)、「すでに百五十頁を超えた」(p.152)などと記している。それは書くこと、そして書かれたことを、一度立ち止まりあらためて捉え返してみる、その行為の記録と言ってもよいであろう。そしてその行為は、書き進めることの戸惑いや、理解を得ることへの自信のなさ、そして表現へと至らない不安の表現でもある。ここで、理解とはそもそも何か、そして表現とは何か、について考えたい。

 過去のある出来事を理解するには、ときとして長い時間がかかることがある。たとえばデュプレーは祖母との間に起きた一件を詳しく語っている。両親を亡くした後、彼女はみなの前で悲しい顔も見せずに振舞っていた。そんな孫娘に対して、あるとき祖母はベッドの上にわざと両親の写真を置く。それを見つけたとたん、デュプレーは激しく泣きだすのだ(p.90)。それは、今まで感情を表すそぶりさえ見せなかった孫に対する祖母の不器用すぎる振る舞いであった。しかし当時から彼女はこのような仕打ちを受けても、それを恨みに思うことはなかった。ただなぜ自分が祖母を恨んでいなかったのかわからないままに、である。彼女がその理由を初めて理解したのは、この過去の出来事を綴った30年後のこと、つまり書く行為をしながらであった。

 彼女は二つのことに思い至る。一つは自分が涙ひとつ見せない冷たい人間なのではないかと感じつつ暮してきたが、それは悲しみに押しつぶされずに生きるための本能的な防御反応によるものであったこと。そしてもう一つは、実際には自分も両親の死に果てしなく悲しみ、終わりの見えない苦しみを抱いた存在なのだと、この祖母の振る舞いを通して知ったということである。書くことによって初めてこの理解へと至ったのである。

 書く行為は、事後的な理解を可能にしてくれる。書くという行為は、この理解のための反省の契機そのものになる。そして、それは単に過去の謎が解けたということだけではない。それ以上に過去の行為に意味が与えられることによって、その過去が今現在へと包摂される。書く行為は、過去の私と現在の私の間の「存在の連続性」を修復してくれるのである。

 次に書く行為における表現の問題を考えたい。といってもどのような表現をもちいるかということではなく、表現へと至ることの困難さが、書く過程の一要素として含まれているということである。デュペレーは書けないでいることもそのまま書く。
 

うまく言えないこと、感じはするが、形をー「まだ」あるいは「永遠に」なさないことが、感情がふくれあがり、すべてをブロックし、肉体的に苦痛となるほどに満ちる。(訳210ページ)

 白紙を前にして、何時間も、何日も過ごす苦しみがそのまま書かれている。喪失の語りは、喪失の内容を書くこととは限らない。喪失体験が私たちにとって大きな苦しみであるならば、まさにこの語れない姿こそが語りの対象になる。うまく言えないと書くこと、形をなさないと書くこと、そのような形式を取らざるを得ないのが喪失の語りの形式ではないだろうか。

 書くことが、必ずしも答えを見出すためではないとするならば、私たちはいったい何のために書くのか。それは、むしろ充実した内容へと至らない、うまい表現へと至らない、その途上に佇むだけの人間の存在にも価値があることを知る、そのためである。それが喪失をかかえながら生きることの真実なのである。

 心の中にことばにならないものを抑圧し、封印し、あたかもその言えぬことの存在などないかのように生きるのではなく、それが何かはわからないが、抑圧し封印してきたものがあると素直に認め、その存在があると言うために書くのだ。小さな切れ端でもよいから、ことばにすることができたならば、そのことばはまた別のことばへと接木され、やがては大きな意味へと統合されるかもしれない。書くことはそうした跳躍さえも含んだ未然の過程なのである。

書くことと自己の変容
 デュプレーは、書くとは、自らの過去の苦しみ、現在に続く苦しみに決定的な解決を与えることではなく、決定的な解決などないからこそ、言い澱み、時に事後的に過去を理解しながら、果てしなく進めていく過程だと理解をしている。書くことは、最終的に何かを完成させることではない。デュプレーは、記憶を「白い原稿用紙の上の記号に変えることで、(...)頁の中に閉じこめる」(p.260)ことはしないと言う。記号に変えるとは一般的・普遍的な意味へと唯一の体験を還元してしまうことだろう。記号を使うとき、書かれたものは、自分からは切り離され、勝手に流通する意味となってしまうのだ。そこでは固有性をもった表現は失われてしまう。 

 両親の死の映像は今でもフラッシュバックのように突然、そして新鮮なまま現れてきてしまう。ただそれを書くことで、その映像とともにこれからも生き続ける自分の存在のありようを納得して受け入れる。

 死者を否定することでもなく、死者に対してもはや惜別の情を抱かぬことでもなく、違った形で思い出すこと、自分の中に鎮められた苦しみを持つことだとははっきりとわかっている。(p.308.)

 書く行為は、苦しみとともに思い出すことである。『黒いヴェール』はこの心と記憶の錯綜の過程を特別に整理することなく書かれている。この自伝が始まった章では、両親の死の当日のことは「知らない」(p.46)と書かれる。記憶の不在をそのまま記している。しかし執筆を数年続けているうちに、父親の写真が触媒となって、ついに「あの朝」という章が書かれる。当日の両親の姿と、自分の行動と気持ちがここでようやく詳述されるのである。この本を書きはじめた理由は、「それ以前」と「それ以後」をつなごうという心境に至るためであったと事後的に明らかになるのである(p.258.)

 「つなぐため」、それは人生に連続性を与えるために書くことを意味する。書くのは事件を終わらせるためではない。書くことは、その連続性の延長に、これからも人生が続いていくことを、確信するための行為であったのだ。だから作品として書かれたものが綴じられたとしても、書くこと自体は完結することがない。それが書くことを通してたどりついた心境である。
 小説であれば、結末を構造として備えている。だが、小説と違って、整序されていないレシである物語は、書く私たちの行為そのものに終わりはないことを示している。物語行為が、自分の人生をみつめ、過去と現在の関係を常に問い直す行為だとするならば、自分の人生が終わらない以上、物語にも終わりはない。

 人生の過程でこれからも問いは続けられる。それは時に罪責感を呼び寄せることにもなることをデュペレーは十分意識している。もし自分が浴室のドアを開けていれば、もし誰か助けを呼びいっていれば、その問いは繰り返され、やむことはない。

 ただ、人生の物語は、時の経過とともにそのたびごとに新たに編み直され、意味を変容させながら続いていく。両親がどんな人であったのか、どのような気持ちを自分に注いでくれていたのか、その理解は自分自身も年を重ねることで、すこしずつ変わっていく。だから、死者への思いは変容することさえあれ、死者を忘れることはありえない。人生はその死者との思い出と理解の、終わりのない物語の創造である。私自身の人生の最後まで。

 デュペレーは、最後のページに次のように記している。「あなたたちの死のおかげで、私はあなたたちを永遠に孕むことになった」。両親はたえず生まれ直され続ける。子どもによって。

(翻訳『黒いヴェール』(北代美和子訳 1996)

 喪失について語るさまざまな作品を読んでいると、作品の終わりが必ずしも喪の終わりではないことに気づく。

 『悲しみにある者』は老年に入った作家が、同じく作家であった夫の突然の死を体験し、その亡くなった日から一年と一日後までを綴った記録である。記録という言葉を使ったのは、この作品には、執筆の時期、出来事の多くの日時が記されているからである。夫が亡くなったのは2003年12月30日。本の執筆が始まったのは2004年10月4日の午後。そして最後の日付は2004年12月31日である。

 2004年12月31日はどんな日なのか。それは、1年前の同じ日にもはやジョンがいなかった、最初の日である。そして明日からも1年前の同じ日にもはや夫はいない。その不在の日々がずっと続いていくのだ。その意味で、作品の終わりは喪の終わりではない。

 終わりのなさは、たとえば作品のほぼ最後にある次のような作者の言葉からも伝わってくる。

 私は解決を求めるが何も見出せない。(p. 237.)
 
私にはまた、もし私たちが自分自身生きてゆこうとするならば、死者に固執するのをやめ、彼らを手放し、亡くなったままにさせねばならないときが訪れるのも、わかっている。(p. 248.)

 しかしわかっているからといって、それができる、あるいはできるようになったわけではない。1年が経った今も、一緒だった頃の思い出が浮かんでくる。この作品において思い出の想起は能動的とも受動的とも言い切れない。思い出そうと意図したからなのか、あるいは勝手に向こうからやってくるのかがあいまいである。そのあいまいさゆえに、作者と思い出は離れることなく、一体化しているかのようである。思い出の中に作者は生き、作者の中に思い出は生きている。その生の相互関係が喪の時間なのだ。

 この作品は前述したように、作者が時間を記しているので、いつから書き始め、いつ書き終えたのかはわかる。そのため、作者の書き進める時間の経過によって、作品も進んでいくという印象をいだく。作品の中には夫の死とその後の日々だけではなく、娘の病気と入院、そして転院と回復のプロセスも描かれるのだが、このプロセス自体も時間の経過に沿って書かれている。

 この直線的流れが存在する一方で、過去の思い出の想起は、時間通りではない。アルバムに並べて貼ってあったたくさんの写真が、ふとした拍子にすべて剥がれて、散り散りになってしまったかのように、脈絡なく語られる。それぞれは断片として置かれているだけで、断片と断片の間には意味の直接的な連関はない。

 だがその脈絡のなさはそのまま作者の意識上への記憶の表れを表している。作者はそれを懸命に叙述しているのだ。そしてその想起には、現在からのさまざまな感情が重ね合わせられる。それは悲しみ、悔悟、怒り、自己への憐み、条件法過去の問いかけ(もし...していたら)、無限の解釈(彼があのときにあの言葉を使ったのは死の予兆を感じたからなのか...)でもある。

 書く行為は、こうした感情によって揺れ動く自分を観察することを促す。先ほどの引用でもそうだが、作者は作品中で「〜ということはわかっている」という表現をよく使う。それは、自己観察の結果の自覚である。

 だが観察をして、自分自身の状況を理解したところで、それは喪からの回復にはつながらない。喪の状態にある自己を認識できたからといって、その喪の状態から抜け出せるわけではないのだ。そこにこの作品の深い悲しみがある。作者はときにおそろしいほど無防備である。問いかけても彼は答えてくれない。もし答えがあるとしても、それは「私の編集したかたち」(p.206)でしか聞こえてこないのだ。ただかつて夫が作家にかけた言葉が何度も反復される。また「こうすれば死を避けられたのではないか」という果てのない問いが再開される。

 この作品では断片的エピソードが幾重にも組み合わされるが、それは決して堅固な建築物としての物語にはならない。説明は理解できても何も解決しない。言葉はときに言い淀み、どうどう巡りをするばかりだ。しかし断片的な言葉でなくては伝えられないものがある。それは、愛する者の死の後でも、それでも生きている自分の存在である。その存在とは、「断片をもって」支えられた「廃墟」(p.201)に過ぎないのかもしれない。それでも「悲しみにある者」の存在とはどんな形を結ぶのか、それを断片としての言葉で作者は私たちに教えてくれる。