Benveniste, Emile

 言語の分析する手法として何が有効だろうか。バンヴェニストが提案するのは、niveau「レヴェル」である。分析とは、言語要素を、それらを結びつける関係を通して、確定することである。これらの要素を分析するための実際上の作業としては、次の2つが挙げられる。ひとつは分割化(ségmentation)、もうひとつは代置(substitution)である。

 分析には、対象をこれ以上はできないところまで細かくしていく作業がまず必要となる。そのあとに分割化した要素に代置の作業を施すことによって、その要素の性質が理解できる。

 たとえば、raisonを音素に分析する。[r-e-z-o-n]。そして[r]を[s]に代置するとsaisonになる。こうした代置によって、他の記号になるということは、まさに記号は、他の記号との差異関係によって成立していることを示している。またこれらの音素はどれもが等しく配置されるという意味で、それぞれが等価値であると言える。この等しさはsyntagmatique(連辞的)にも(r, e, z...)paragmatique(範列的)にも(rezon / sezonのrとs)2重に言うことができる。

 ここで分割化と代置化の違いを音素と弁別特徴を取り上げることによって指摘することができる。代置化は分割化不可能な要素に対しても行うことができる。例えば[d]の弁別特徴である、「閉鎖」、「上前歯裏」「有声」、「帯気」と言った要素は分割化不能であるが、それぞれの要素を代置化することはできる(たとえば有声に代えて無声とすれば[t]になる)。そして分割化不能な要素はsyntagmatiqueなクラスを構成することはできない。

 したがって、分析に2つのレベルを認めることができる。分割化と代置化の両方が可能な音素レベルと、代置化だけが可能な弁別特徴レベルである。バンヴェニストはそれぞれのレベルとphonématique、mérismatiqueと呼ぶ。

 ではphonématiqueの上位レベルを見いだすことはできるだろうか。音の単位を成立させるのが意味であるのが明らかな以上(私たちは音素の連続を見て、それを単位として認めるのは、その結合したものに意味を認めるからである)、上位レベルに設けることができるのは意味である。そして意味こそ、「あらゆるレベルのあらゆる単位を満たす根本的な条件」である。そもそも音素は、それを含む上位のレベルの個別の単位に依拠しないでは存立しないのである。その単位とはmorphème(語彙素)であり、記号のレベルである。言語のレベルはかならず上位のレベルに包摂されないと存在しえない。

 記号(=語)は、下位レベルのphonématiqueに分解できるし、他の意味単位とともに上位レベルの単位に入ることもできる。その上位レベルとは文である。重要なことは「文は語によって実現されるが、語は単に文の分割要素ではない」(La phrase se réalise en mots, mais les mots n'en sont pas simplement les segments)ということである。

 簡単に言えば、語の意味の総和が文の意味とは限らない、ということだろう。独立した単位として持っている意味(=辞書的な意味)が、必ずしも文において現前化するとは限らないのだ。独立した単位で語を考えるならばそれはlexique、paradigmatique(他の単位との比較検討)となり、文として考えるならば、当然だがsyntagmatiqueとなる。

 ここで言語要素と言語レベルの関係について検討する。同じレベルでの言語要素の関係は配置関係(les relations distributionnelles)、違うレベルでの言語要素の関係は統合関係(les relations intégratives)と呼ばれる。

 そしてある単位は、上位レベルの単位の「統合的な部分」として同定されて初めて、そのレベルで 弁別的なものとして認識される。たとえば、[s]が音素としての地位を持つのは、salleにおいて[al]と、seauにおいて[o]とそれぞれ統合要素として機能するからである。また[salle]が記号となるのは、à manger, de bainとそれぞれ統合されるからである。

 そうすると上位レベルの文は、構成要素は含むが、それ以上の統合される単位というのは持たない。下位レベルのmérismeは、逆にいかなる構成要素も含まない。記号のレベルだけが、独立しており、構成要素も統合要素も含み込んでいるのである。

 ここでバンヴェニストは、形式と意味の問題に言及する。単位を構成要素としてみなすとき、その単位は「形式要素」とみなせる。たとえば文を諸単位に分割しても、現れるのは形式的構造だけである。一方それとは逆に統合化は、単位を意味的単位とする。つまり形式は、下位レベルの構成要素として分解できるものとして定義され、意味は、上位レベルの一単位に統合されるものとして定義される。

 したがってある単位が意味を持っているということは、それを「命題関数」(fonction propositionnelle)とみなすことができる。すなわち、その単位を上位レベルにはめ込むことによって=統合することによって「意味する」とみなせるのである。

 さらにバンヴェニストは意味の意味を問う。すなわち私たちが「意味」と呼んでいるものは一体何だろうか。ここでバンヴェニストは指示の有無によって意味を二層にわける。

 最初は、言語の要素がその本質(propriété)として意味を有する場合で、そは他の単位と弁別的、対立的に画定できる単位である。そしてこの意味単位はその単位が属する言語(langue)の中に、その言語の話者によって同定される。このように言語は体系をなし、この体系は閉じていると言えよう。

 しかし同時に言語(langage)は、対象世界に対して指示機能を持っている。この働きは文として現れる。文は具体的に特定できる状況に関係づけられるとともに、文が含む下位レベルの単位は、経験、もしくは「言語慣用」(convention linguistique)の中で選択された対象へと関係づけられる。文はこのように意味と指示の両方を含む。

 ここで文という最終レベルの特殊性をまとめることができる。文は分割はできるが、統合することはできない。また文の特徴の第一は「述定」(prédicat)であることだとバンヴェニストは言う。さらに主語さえも、述定の働きによって決められると指摘する。

 このレベルはcatégorématiqueと呼ばれる。だが、phonèmeやmorphèmeに対応するcatégorèmeは、同じような単位として認めることができない。述定は文の根本的本質であるが、これは文の一単位ではない。述定にはそもそも多くの種類はない。したがってcatégorèmeは、形式としては存在するが、統合のための弁別的単位は構成していないのだ。つまり、文は複数の記号を含むが、それ自体は記号ではない。

 以上のことは次のようにまとめることができる。
 phonème, morphème, lexèmeは数えることができ、有限数である。しかし文はそうではない。phonème, morphème, lexèmeは同一レベルで配置が行われるし、上位のレベルにも使用される。文には配置も使用もない。語の使われ方の一覧表を作るとすればそれは無限になる。文にはそもそも一覧表さえない。

 では文とは何か。「文とは無限の創造、限界のない多様性、そして活動している言語(langage)の生そのものである」。文を考えることは、記号の体系である言語(langue)を離れて、ディスクールを用いた、コミュニケーションの道具として言語を考えることになる。文とはディスクールの単位である。ただしこの場合の単位は、同じレベルの他の単位に対して弁別的という意味ではない。ディスクールの単位は意味と指示の両方を持っているという意味で完結した単位である。文は意味作用を携えており、またある状況に関係づけられる。

 私たちは文にこの二重の特質を認めることで分析対象とすることができるのである。これはディスクールという意味と指示の両方を含むものを言語の分析対象とするバンヴェニストの決意表明とも言える論文である。

 本論文「思考の範疇と言語の範疇」の目的は、広く行き渡っている「思考と言語は本質的に区別される2つの活動である」(邦訳p.70)という認識を批判することにある。言いかえれば「言語形式は単に伝達可能の条件であるばかりでなく、まず、思考の具体化の条件である」(p.71.)という事実を論証することに論文の趣旨がある。

 バンヴェニストの論理はほとんど問いの連続であると言ってよい。書物のタイトルが『一般言語学の諸問題』であるように、たえず問題となる問いが立てられる。「言語においてしか具体化しない」思考と「意味する以外の機能をもたない」言語はどのように関連しあっているのか。続いて「言語において形成され、現働化されないかぎり、思考は把握できないことを認めながら、しかも思考に固有のものであり、言語表現に何ひとつ負うことのない諸性格を思考に認める手段はあるか」(p.72.)と問われる。

 この問題を考えるためにバンヴェニストが挙げたのがアリストテレスの範疇論とギリシャ語の関係である。この範疇は全部で10個ある。

1) substance
2) combien - quantité
3) quel - qualité
4) relativement à - relation
5) où - lieu
6) quand - temps
7) être en posture
8) être en état
9) faire
10) subir

 バンヴェニストは、この範疇が実は言語の範疇であると指摘する。まずは1)〜6)については

1) substantif
2) adjectif
3) adjectif
4) comparatif
5) adverbe
6) adverbe

 とし、この6つが名詞の形に関係していることを指摘する。

 続いて7)〜10)は動詞の範疇である。

7) moyen(中動態)
8) parfait
9) actif
10) passif

 バンヴェニストは「これらの観念は言語上の根拠を持ち」(p.76)、「10個の範疇リストは、言語の用語に書きかえる」ことができるとする。

[Les catégories d'Aristote] se révèlent comme la transposition des catégories de langue. C'est ce qu'on peut dire qui délimite et organise ce qu'on peut penser.
 
アリストテレスの範疇は、言語の諸範疇の置き換えという姿で現れる。人が考える事柄を画定し組織するのは、人が言うことのできる事柄である。

 こうしてバンヴェニストは、思考の範疇は、特定の一言語の分類形式を私たちに教えている、つまり「ある一定の言語状態の概念的投影」こそがアリストテレスが私たちに見せたものだとする。

 しかし、ここまでではバンヴェニストの論文の半分を説明したに過ぎない。

 このあとにもうひとつ別の問いが続く。それは明示化されてはいないが、思考の範疇と言語の範疇が区別されない活動であるならば、思考はその言語によってなされる以上、その言語特有のものなのか、という思考と言語の必然的、排他的結びつきについての問いかけだと考えられる。

 それに答えるためにギリシャ語とエウェ語が比較される。バンヴェニストはギリシャの思考の特殊性としてêtreの機能を挙げ、この動詞が、名詞的観念となって物として扱うことができたり、現在分詞になりえたり、さらにはさまざまな格の形や前置詞を介して多様な構文を作ることを示し、古代ギリシャで存在の学が展開されたのは、êtreの機能があったからだとする。事実エウェ語であれば、êtreの機能に対応させた場合、5つの動詞が必要となる。さらにこの5つの動詞には共通性もない。

 だが、バンヴェニストは「ギリシア語の言語構造が<ある>の観念を哲学的使命に向かわせる素因をなしていた」(p.81)と言ってはいるが、これは「存在をめぐる哲学的考察はギリシア語の言語構造に本質的である」という意味ではない。事実、エウェ語の場合であれば、「êtreの観念が全く別のやり方で分析されることは間違いない」と述べられているのである。この一文の力点は「全く別の」ではなく、「分析される」にある。言語構造が異なる以上、エウェ語のêtreに相当する一語が同じ概念を投影することはない。しかし、「全く別の方法で」分析されるはずなのである。

 つまり、ある言語構造がある思考に投影されるとしても、その思考はその言語構造に従属しているのではない。言語が違うならば、また違う構造で分析されるということではないだろうか。

[La pensée] devient indépendante, non de la langue, mais des structures linguistiques particulières.
 
思考は、言語からではなく、個々の言語構造から独立するようになる。

 思考は言語構造に従属していない。もし従属していれば、その思考は言語構造を離れては思考しえないものとなる。構造に従属していないからこそ、別の言語がもつその言語独自の別の構造によって分析可能となるのだ。だからバンヴェニストは次のように言っているのではないだろうか。

Il est plus fructueux de concevoir l'esprit comme virtualité que comme cadre, comme dynamisme que comme structure.
 
精神は、枠としてよりも可能態として、構造としてよりも力動性として考える方が実り多い。

 精神には言語構造が投影されている。その意味で精神が枠、構造というのは、言語が枠であり、構造であると言っても差し支えない。また同時に、思考はその枠によって運ばれると考えられ、言語は思考の道具として、つまりは構造的と考えられる。これは静態的な死蔵としての言語観であろう。これに対してバンヴェニストは、言語は可能態であり、力動性を持っている、と考えるのだ。

 最後の一段落の書き方は実に曖昧である。しかしつきつめて言えば、こうした考え方があるからこそ、思考の翻訳は可能となる。構造ではなく力動性であるという考えは、バンヴェニストの反ー構造主義者としての思想を最もよく示している。思考が言語構造に本質的に従属しないと考えることによって、この論文をバンヴェニストの思考の一貫性を示す適切な例証として読むことが可能になるのではないだろうか。

 バンヴェニストは自明とされている「言語はコミュニケーションの道具」という前提から出発する。道具とは何か。それは自己の目的に奉仕してくれるものであろう。その視点に立てば、バンヴェニストが素描するコミュニケーションの道具としてのあり方は、ここで展開しようとする主体概念と根本から対立すると考えられる。

 言語は、命令、質問、知らせといった、私が言語にゆだねるものを伝えようとし、相手にそのつど適したふるまいを起こさせる。

 バンヴェニストはこのようにコミュニケーションの道具としての言語の役割を説明し、行動主義的観点からすればそれは「刺激と反応」のプロセスであるとする。つまり発話者は刺激を与え、聞いている相手はそれに反応するということである。
 このモデルがバンヴェニストの主体性の概念にどのような意味で相反するのか。言語を道具とみなすことは、言語を発話者の意図の実現をみなすことである。そして聞いている相手という他者は、その自己の意図遂行の対象という扱い方をされる。この場合あくまでも主体にとっての他者は、言語が道具化されるのと同時に、目的遂行のための道具に過ぎなくなるのだ。
 「刺激と反応」という生理的なモデルが示すように、ここには人間性の契機はない。バンヴェニストがそのすぐ後に述べる「ディスクールは当然ながら対話者間のものである」ならば、実はバンヴェニストは「ディスクールとことばを取り違えているのでは」と書いているが、たとえ言語使用の状況のプロセスを問題にしているとはいえ、上述のモデルは言語のディスクールとしての機能とは対極的に位置するものである。
 続いてバンヴェニストは「コミュニケーションの道具」には、非言語的なものもあるし、またこの考えによって言語と、言語よりもあとにできたもの(たとえば信号の体系)との混同が起きていると指摘する。
 その上でバンヴェニストは言語道具観を否定する。道具とは人間が制作するものであるが、言語はそうではない。言語は「人間の本質(自然)の中にあって、人間が制作したものではない」。ここでバンヴェニストは言語起源論、すなわちどうやって人間は言語を話し始めたのか=言語を作ったのかという問題の設定自体を否定する。バンヴェニストは人間とは「話している人間」であり、人間と言語を切り離すことはできないとする。
 おそらく言語の起源はたとえば人間という生き物の発声器官の進歩といった生物的な観点から考えるならば、問いとして成立しうるであろう。しかしバンヴェニストにとって人間の主体という問題を導入したとき、言語に対する人間存在の先行性という考えは成り立たない。
 バンヴェニストは日常の中でやり取りされるのはparoleであるとし、その上でparoleがことばのやり取りという役割をもつにはlangageによって保証されなくてはならず、それは「paroleはlangageの現働化にすぎない」からだと言う。この発話の状況、現働化という状況に注意を払いながら、バンヴェニストは次のように言う。

 人間が主体として構成されるのはlangageのなかで、そしてlangageによってである。なぜならば、langageだけが、現実において、存在の現実でもあるlangageの現実において、「自我」の概念を打ち立てるからだ。

 人間が主体として確立するのは、言語によってであり、どちらかがどちらかに先行するものではない。私たちはlangageに「よって」この現実世界へと現れる。その世界とはlangageの「なか」の世界である。langageによって自らを主体として位置づけるーこの能力をバンヴェニストは「主体性」と定義し、その主体性の根拠を「人称」(personne)に置く。
 現働化ということばは使われていないが、jeとtuの共起も現働化と言うことができるのではないか。バンヴェニストは「自我の意識は、対比によってそれが体験されてはじめて可能となる」(みすず訳)という。対比とは相互性によって可能になるということであるが、この訳に使われている「はじめて」に着目したい。はじめて体験されるいうことは、それ以前は未然な状態であるということだ。jeとtuはそれぞれもう一方がなければその存在は考えられない(ne se conçoit pas)。私たちは<非ー存在>であると言ってもよい。
 主体性とはしたがってindividuelなものではない。私たちは共起することによって、現働化によって生の世界を現出する。その根本にあるのはjeを用いて「話す人間」であり、それはtuなしでは構想されえない。
 だから自己と他者、個人と社会という二項対立はない。バンヴェニストはそれらは相互関係にあり、この相互関係に、主体性の言語的根拠を置いている。
 次にバンヴェニストは代名詞の特殊性を述べる。たとえば「木」であるならば、あらゆる個別の木をひとつにまとめうるような木の概念(concept)が存在する。しかし「私」にはすべての「私」をひとつにまとめうる概念は存在しない。「私」は語彙的実体(entité lexicale)ではない。この「語彙的実体ではない」という言い方に着目したい。語彙的実体とは、辞書におさめられた意味のごとく、いわばどこかに死蔵された非ー存在である。「私」はそのような語彙的な実体ではない。では何か?

(...) je se réfère à l'acte de discours individuel où il est prononcé, et il en désigne le locuteur. C'est un terme qui ne peut être identifié que dans ce que nous avons appelé une instance de discours, et qui n'a de référence qu'actuelle.
 
「私」は、それが言表せられる各個人のディスクールの行為を指向し、あわせてその話し手を指し示すのである。これは我々が「ディスクールの現存」(今ここに立ち現れる)と名づけたところの、つまりは臨場的指向(話している今現在を指向する)しかもたないもののなかでしか同定されえない語詞なのだ。

 このinstance、日本語で現存と訳された単語、そしてactuelle、今現在という単語、この二語によって、jeとは現働化された場において初めて存在するとされていることがわかる。その場とは、一人の話す人間が、他者とともに現れる場であり、ことばが生まれている場である。だから「主体性の根拠は言語の行使の中にある」(le fondement de la subjectivité est dans l'exercice de la langue)。
 これに続いてバンヴェニストは、<これ>、<ここ>、<今>のようなデイクシス(deixis)がディスクールの現存との関係のおいてのみ定義されること、さらに時間性の表現が現在と関係づけられていることを指摘する。そしてこの現在とは、「話している現在」である。これは話すことによって現在も話者も現働化されるという意味である。反対に言語(langue)が現働化されない以上は、すなわち「話し手がディスクールの行使」をしない以上は、langageは「虚の形式」を提出するだけである。そこには存在も生もない。前述した死蔵されたことばしかないのだ。
 しかしこの論文は、行為遂行の動詞の説明へと移ってしまう。それはたとえばje jure「私は誓う」という言表行為は、私が遂行している行為の描写ではなく、私を拘束する行為そのものであるという言い方が示すように、バンヴェニストは言表行為そのものの現在性を訴えようとしたのであろう。Je promets「私は約束する」、je garantis「私は請け負う」などの動詞を挙げながら、バンヴェニストは「言表行為は行為そのものと一体をなしているのである」という。je jureは誓約行為であるが、il jureは描写に過ぎない。これが主体性がディスクールの現存であることから生ずる結果である。
 しかしこの行為遂行の例を出すことで、バンヴェニストの論は最初に述べられていた「刺激と反応」のプロセスに戻ってしまっている。ディスクールの現存にとらわれるあまり、論文の最後に「間主体性」intersubjectivitéがとってつけたように現れるが、主体のモデルが、主体の意図遂行へと還元されてしまっている。「間主体性」が示すように、言表行為と行為そのものといったとき、むしろその「行為そのもの」によって生起する相手、社会、言語、もっと言えば世界の出現こそを強調すべきであったのではないだろうか。
 それは、現働化ということを存在の次元まで広げて考えることはできないだろうかとう関心からである。私たちはただそのまま存在していてもそれはただ「モノ」として存在しているだけである。そこに生が生まれるためには現働化という「働きかけ」が必要とされる。それがなされるまでは私たちは無に等しい。だから言語の起源を問うことも人間による現働化がない以上、それは存在しないに等しい。
 「私」、「あなた」、そしてそこに生まれている社会、その関係において現働化されるディスクールとしての言語、これらが同時に生の様相を帯びて、はじめて存在の明るみへと姿を表す。バンヴェニストがいう「言語とは生である」とはここまで広げることができるのではないか。

 この論文が発表されたのは1939年、バンヴェニストが37歳のときである。わずか6ページ半の小論だが、ソシュール思想の根幹をなす恣意性の問題を正面切って取り上げ、以後大きな論争を巻き起こした(加賀野井秀一『ソシュール』pp.91-111.)。

 ソシュールが一般言語学として探究したことは「記号の体系」の構築であり、それはとりもなおさず、シニフィアンとシニフィエとの絆とは「音声形象」と「概念」の絆のことであって、「ことば」と「もの」との関係ではないということであった。シニフィアンとシニフィエとの絆は、あくまでもラング内部のものであり、ラング内部の事実である(加賀野井, p.106.)。この外部の事物(言語外的世界)を捨象し、記号の体系として独立した構造を提起したことで一般言語学の輪郭がはっきりとする。

 メショニックは、signe「記号」とsymbole「象徴」を比較し、前者は「事物の不在」であり、象徴は言語と事物との聖なる合一であるとして、事物と関わりに記号と象徴の対立点を求める。(Henri Meschonnic, «Le signe-absence dans le discours du mythe», in. Le signe et le poème)。メショニックはバンヴェニストを引用しながら(「外の現実が『座標軸』である」)、言語学者がこの座標軸を外の現実に求めなかったことで、学を形成してきたとする。

 バンヴェニストが取り上げるのも、本来ならば記号の体系の中から事物を放擲したはずであるにもかかわらず、ソシュールが不用意にも、事物と名づけの問題に記号の問題を還元してしまっているという点である([ブフ]というシニフィアンをもつシニフィエ「牛」は、国境を越えると[オクス]をもつ)。バンヴェニストはそこからそもそも記号の恣意性が言えるのは、記号と現実の関係のみであるとする。つまり、外的現実をどのように名づけるかという問題においてのみ恣意性が成り立ちうると問題を集約させる。バンヴェニストにとっては、「恣意性は(...)記号の構成そのものの中には入り込んでこない」(p.53.)のであり、また、ソシュールの不用意さは、プラトン以来続けられてきた「自然か人為か」という問題から抜け出せていないと映るのだろう。バンヴェニストは、言語学者は「当面」この問題に関わらないほうがよいと言う。

 バンヴェニストは記号の体系の根拠をもう一度、「シニフィアンとは音響心像、シニフィエとは概念である」と確認したあとで、その両者の関係は「必然的nécessaireである」と説く(p.51.)。シニフィアンとシニフィエは、「同じ観念の2つの面」であり、またまさにソシュールが紙の裏表で例えたように、言語記号は「ひとつにまとまって構成されていること」を強調する。

 バンヴェニストは、このソシュールが提出した原理から派生する2つの問題に言及する。1つは記号の不可変性と可変性の問題である。バンヴェニストは、これは記号の、すなわちシニフィアンとシニフィエの関係における問題ではなく(なぜなら、記号においてはシニフィアンとシニフィエは話者にとって常に同時に立ち現れてしまうから)、記号と事物の関係における問題であるとする。つまりは名づけ、意味作用の問題である。
 2つめに挙げるのは「価値」の問題である。ここでもバンヴェニストは重ねて、ある分たれた音とある概念の選択は恣意的ではないと強調する。ソシュールの「価値の観念は、外部から課された要素を含んでしまう」ということばを取り上げ、ソシュールの推論が「座標軸」として「客観的現実」を選択していると指摘する。

 バンヴェニストは、「言語に内在する偶発的な部分とは、現実の音的象徴としての名づけに関わる部分であるが、記号とは共存するシニフィエとシニフィエを内包する言語体系の根源的要素である」と結論づける。

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 この議論で問題になるのは、本質的には恣意性か必然性かどちらかを選択することではない。むしろこの対立軸を示すことで、恣意性を切り捨て、それによってバンヴェニストは、言語の問題から対象世界を完璧に放擲することを考えたのだ。何のためか。それは一般言語学の対象を画定するためである。

 ただし、それによって現れる記号の体系は、必然性の=反省のともなわない、取り決められていることによって主体が介在しない静態的なものとなるだろう。この問題への解決がsémantique、およびそこに現れる主体に言語の動態化だったのではないか。

 だが、ここで文学言語へと問題をずらすならば、当然ながら対象世界と言語の問題を扱わざるをえない。しかも文学においては、その対象世界とは、私たちが生きるという意味での生活世界と、作品が構築するフィクショナルな世界(作り事、うそという意味ではなく、作品内部に構築される世界)の相互性を考察せざるをえない。これも当然のことだが意味と対象世界の関係には真偽の関係がついてまわるが、文学世界は真偽の関係では解きえないからだ。だから、この整然とした記号の体系を越えて、言語と関わる必要がある。

 バンヴェニストはsémanitiqueによって主体と意味生成を、言語の領域にとどまりながらすくいあげることを考えた。意味を生み出すことは、おそらくすぐれた文学作品の条件のひとつであろう。ならば、現実世界に関わりつつも、意味を生み出し、しかしあくまでも言語によって構成される世界を内包する文学作品(しかもときにその世界は、現実世界を穿ち、更新させうる力を持つ)の言語的特質をどう引き出せばよいのか。問いの照準をここにあわせなくてはならない。

 文学を多義性や自立性ではない形で画定することを考えている。多義性とは文学の中に一つの心理ではなく、多様であるがゆえの意味の豊かさを見い出す考え方である。しかしそこにはややもすると文学言語の特殊性、日常の言語とは異なる言語使用の独自性という傾向が見える。さらに自立性は、日常の世界から乖離した文学独自の世界を想像させる。日常では決して体験することのないようなフィクションの愉しみを求めることは、やはり文学独自の世界が、<今・ここ>ではないところに設定される傾向が見える。

 日常言語と詩的言語。現実世界と空想世界。確かにそこに位相の違いがあるとしても、それを相反するものとして文学理論を考えることは、ややもすると日常は貧しく、文学は豊かであるとする、倒立した考えを招くのではないだろうか。私たちがこの世界に生き、この世界を眺め、この世界にいだかれ、この世界で死ぬ以上、この世界を貧しいというならば、そこから生まれてくる文学も実は貧しいものに過ぎないのではないか。文学は世界へのまなざしを曇らせるものではなく、むしろ私たちが、普段は気づくことなく通り過ぎている、世界の現実をしっかりと見据えるように迫る表現形式なのではないか。

 言語について理論的に問うことは、文学言語の特殊性、独自性を画定するためではない。そうではなくヤコブソンが問うた「何が言語表現を芸術作品とするのか?」を考えるためである。この問いの主題にあるのはあくまで「言語表現」である。私たちが日常の中でたえず行っている言語による表現活動そのものを指している。その表現活動の中から、「文学言語が立ち上ってくるとするならば、そのきっかけ、そのメカニスムは何か」、「何が文学言語と呼ばしめるのか」とヤコブソンは問うている。その意味で日常の言語活動と文学における言語活動は対立するものではない。

 そうであるからこそ、同時に文学における言語活動は、この私たちの生活世界と決して切り離されたものではない。文学における言語活動は、その独自の世界を作るためではなく、もしそこに芸術が認められるならば、この世界と深く関わりながら、この世界を「刷新する」ものとして立ち上ってくると考える。だから表象の世界を作るのではなく、この世界の表象の仕方を刷新させるのである。

 文学を考えることは、私たちを日常から遠ざけるのためではなく、むしろこの世界をありのままに受け取ることなく(そのまま世界を受け入れて惰性で生きるのではなく)、私たちに日常を批判的なまなざしで見つめられるような言語意識をもつよう鍛錬をせまるのである。批判的とは何かが目の前に出されたときに、それはいったい何であるのか、と立ち止まって問いを投げかけることである。

 このような問題意識からバンヴェニストを読むことができると考えるのは、バンヴェニストが、sémiotiqueとsémantiqueを区別し、後者に、言語と世界のつながりとして、«référent»の存在をその特徴として認めているからである。またバンヴェニストは、詩的言語には独自の法則と機能があり、日常言語とは別途に考えなくてはならないと言いながらも、「日常言語の研究は、詩的言語の理解に寄与するはずである」と、たとえ示唆にとどまるとはいえ、言明しているからである(p.217.)。

 論文(もとは講演であるが)のタイトルは「言語における形式と意味」であるが、比重は意味に置かれている。それはとりもなおさずブルームフィールド学派が意味の問題を「心理主義」として言語研究から排除しているからであり、論理学者(カルナップ、クーン)たちが、厳密さを志向するがゆえに、やはり心理主義に陥らないよう、signification(「意味生成作用」と訳しておく)に代えて、acceptabilité(許容性)を分析に用いているからである。

 しかしバンヴェニストにとっては、«le langage signifie»「言語は意味する」こそが、根本的な命題である。「意味する」からこそ、私たちは「語り、考え、行為する」。「言語は伝えるのに役立つより先に、生きるのに役立つ」のだ。では言語が意味するとはどういうことなのか。その問いへの答えとしてバンヴェニストはsémiotiqueとsémantiqueを区別する。

 まずバンヴェニストはソシュールのいう「言語(la langue)は記号(le signe)の体系である」という定義から出発し、«le signe est l'unité sémiotique»「記号は記号論の単位である」とする。単位とは限られた数からなる基礎要素であり、意味(signification)の下限であり、この単位の下では意味は生成されえない。さらにバンヴェニストはsigneを構成するsignifiantとsignifiéについて、signifiant(ここでは音声形式)は、structure formelle「形式的構造」を持っていることにより成立するとされ、signifiéについては記号が意味しうるかどうかによって成立するとされる。つまり音声形式の上であっても、意味の上であっても、記号は、外界の事物の世界とは関係なく成立するのである。また記号は普遍的、概念的に成立しているのであって、個人的、特殊的なものは排除される(p.223)。

 こうしてsigneとsémiotiqueの関係を整理したあと、バンヴェニストは文(phrase)の問題に移る。phraseとsémantiqueを結びつけ、言語についての二つの領域を区別し、一方をmodalité de signifier、他方をmodalité de communiquerとした。communiquerは「伝達する」という意味ではなく、「人間と人間、人間と世界、精神と事物を仲介する機能」と定義される。すなわち現実世界で何かと何かの間に関係を生じさせるという意味である。後者は前者を実際に「用い」、それによって「行為」する(p.224.つまりsigneは辞書的な、書物の中に眠っている、だれの目にも触れない、整然と並んでいる単位であり、phraseは、それを用いて、何らかの行動を起こす。だがそのとき辞書的意味を足しても、phraseで伝える内容とは一致しない。正しい外国語を話していても、相手に何らかの違和感を与えるのと似ているかもしれない)。

 だからsémantiqueにおいてはディスクール、すなわち思考の現実化としての言語が問題となる。ここでバンヴェニストの言っていることは、発話状況における言語活動を問題にしているという意味で、「ここー今」(p.226.)が問題となり、語用論的な立場を想起させる。現実化とは、潜在的な意味にとどまっている言語を、発話者が具体的な状況のなかで、現実化して用いると解せるだろう。だからバンヴェニストは「文に意味はその文を構成する複数の語の意味とは別である」(p.226.)と言う。語は文の統辞構造上で用いられて現実化する意味だが、文はイデー「概念」を表す。ただし、バンヴェニストを語用論で語ることはできないだろう。ひとつの根拠は、バンヴェニストの主眼が、言語の性質を考えるとき言語の内部/外部の画定に置かれている点である。「記号とは言語の内在的現実であり」、記号の意味はその記号に内在している。それに対して「文は言語外の事物に結びつけられ」、「ディスクールの状況」、「発話者の態度に依拠している」とバンヴェニストは説く。

 そこでバンヴェニストは«référent»を用語として導入する。«référent»は、意味からは独立し、「具体的な状況、用法において、語との対応が生まれる個別対象である」と定義される。こうしてバンヴェニストは記号の世界と、référent(言語によって参照されうる現実世界の事物)の世界を切り離す。逆にいえば、sémantiqueの世界は常にこの世界ー発話者が住み、発話者が働きかける世界とつながりを持っているということだ。これをバンヴェニストは「ディスクールの状況」と呼ぶ。それは「一回限りの出来事」である。

 このsémiotiqueとsémantiqueという言語の2つの性質があることで、私たちは同じイデーを表すのに様々な表現を使う自由を持つ一方で、語の結合の法則に拘束されることになる(p.227.)。ディスクールにおいて、概念的、一般的「記号」が、個別的、状況的「語」に転化される。またこの働きがあることで、言語間の翻訳が成り立つとされる。つまり記号体系はあるlangueに独自なものであり、それをそのまま他のlangueにうつしかえることはできない。しかしイデーを現実化させるsémantiqueにおいては、「だいたい同じ」ことが言えるのだ。

 私たちが有限の語(記号)から、無限の文を生み出すことができる理由がこの2つの性質に求められるのである。

 Benvenisteの論文«Sémiologie de la langue»(Problèmes de linguistique générale, tome 2, pp.43-46)は、記号論の領域において、言語が、他の様々な記号体系に比して、それらとは区別されうる特質を持っていることを考察したもので、記号と言語の問題を考える上での古典的な規範となる論文である。

 論文は、「icones, index, symboles」という記号の分類を提案したパースが、言語の記号の特殊性については特段の言及をしていないのに対して、ソシュールが問題にしたのは言語(学)の対象についての考察であったという差異から出発する。そしてバンヴェニストはソシュールの新しさを「言語学が、未だ存在していないが、人間的事象にまつわる他のあらゆる体系にも関与しうる学問の一部を構成している」(p.47.)と指摘した点にもとめる。その学問とはsémiologieである。ソシュールはそれを「社会生活において記号に基づく生活を研究する学問」と定義し、1)言語学はその一部をなすということ、2)sémilogieの正確な位置づけは心理学者の仕事であり、言語学者がすべきことはこのsémiologieにおいて、言語を特別ならしめるものとは何であるのか画定することである、と述べる。

 言語は記号体系である。しかし何が言語を他の記号体系と分別するのか? バンヴェニストは、ソシュールにおいて言語学とsémiologieの関係はあいまいなままに終わったとする。ただ、この2つの学をつなぐものとして提出されている概念がある。それが「記号の恣意性」(p.49.)であり、これが記号体系としての言語がもっともsémiologieの特質を表す理由であるとする。

 バンヴェニストの本論文での目的は、この「記号の恣意性」にとどまった言語のsémiologieとしての特殊性を画定し直すことにある。

 バンヴェニストはまず私たちの社会生活が記号の体系から成り立っていることを確認する。

「私たちの生活全体が様々な記号の網の中に埋め込まれている。そしてその記号の網は、どれかひとつでも欠けるならば、社会と個人の均衡が崩れるほどに、私たちの生活を条件づけているのである」

 つまりバンヴェニストがここでいう記号とは、私たちが他者と社会生活を営む上で、その秩序を構成するものであると言ってよいであろう。

 これに続いてバンヴェニストはsémiologieの体系を特徴づける4つの要素を挙げる(p.52.)。

1. le mode opératoire : 記号が作用する様式
2. le domaine de validité : この体系が認められる領域
3. la nature et le nombre des signes : 上記の条件における記号の機能
4. le type de fonctionnement : 上記の機能の類型

 さらにバンヴェニストはsémioligieの体系における2つの原則を挙げる。

1. 体系間の非-冗長性の原則:たとえばことばと音楽のように、たとえ「聞く」という共通の特性をもっていようとも、異なる記号体系間では、それぞれの機能を交換することはできない。だから冗長性は生まれない。しかしアルファベットと点字のような同じ記号体系では交換が可能である。

2. 二つの記号体系は同じ記号を持つことできる。しかしその記号はそれぞれの体系で異なった機能を帯びる。たとえば信号機の赤と三色旗の赤である。したがってある記号の価値は、その記号が含まれる体系の中でのみ有効である。
 
 バンヴェニストはこのようにsémioloigieの体系間の関係の原則を述べたうえで、その体系には「解釈を行う」体系と「解釈を行われる」体系があるとする。そして前者こそが言語の記号体系であるとして、sémioligieにおける言語の特性を主張する。そしてこの体系間の比較をするための条件として、sémiotiqueな体系と呼べるものは次の3つの要素を備えていなくてはならないとする(p.56.)。

1. un répertoire fini de signes : 記号の一覧が完結していること

2. des règles d'arrangement qui en gouvernent les figures : 記号から派生するフィギュールを統制する配置の規則があること

3. indépendamment de la nature et du nombre des discours que le système permet de produire : 記号、およびフィギュールは、その体系が生み出すディスクールの性質、数とは独立していること

 バンヴェニストはこの条件を出すことによって造形芸術のような芸術は、ある決まった記号の統一体を形成できず、sémiotiqueな体系のモデルを提出することはできず、言語体系ともほど遠いととする。つまりバンヴェニストは意味の体系の成立には、その体系が閉じていることが重要であると考えているのだ。それがunitéである。そしてそのunitéは、芸術の世界にはないものとして考えられる。言い換えれば前述した秩序の構成とは異なる次元に、芸術の世界は不定型のまま成立しているのではないだろうか(この辺りがMeschonnicが主張していることではないか)。ある一定の記号的拘束を持ちながらも、意味の生成にそのつど立ち会うのが芸術の世界と言えるのではないだろうか。

 それに対して「言語は統一体からなるla langue est faite d'unités」とバンヴェニストは述べる。一方、例えば音楽の要素である「音」は、記号ではない。なぜならば、バンヴェニストによれば「いかなる音も意味を生む要素を持っていないaucun n'est doté de signifiance」からだ。ここにバンヴェニストは言語と音楽の差異を認める。意味するものの統一体をもつ体系としての言語と意味しないものの統一体をもつ体系としての音楽の差異である(p.58.)。

 しかし、本当に音は意味を生む要素を持っていないのだろうか。ここにはバンヴェニストはソシュールと同じく言語の領域から心理を排除する傾向を認めることもできるのではないだろうか。それは音表徴の問題だけではない。この音のもたらす表徴は個人の問題だけではなく、おそらく他者とも共有されるはずのものである。つまり記号性がお互いの間で必ずしもやり取りなされていなくても、音という物質世界との間での交感が生まれるのが芸術世界ではないだろうか。これが不定型の世界=芸術の世界である。

 あくまでも言語の特殊性の確立を目指すバンヴェニストは、芸術とは芸術家がそのつどみずからのsémiotiqueを創造してゆくことで生まれると考えている。色(=記号を形成する要素)は意味をもたらすのではなく、むしろ芸術家に奉仕する存在である。すなわち、芸術家が色を選択し、それによって絵画を構成することによって「意味が生み出されてくる」のだ。だからこそ、絵画においては記号の一覧は完結しない。あるのは「表現すべきヴィジョン」(une vision à exprimer)である。

 したがって芸術作品と言語ではその体系は意味の生成(signifiance)という点で異なっている。前者は意味の生成は、その作品世界を構成する諸関係から生まれ、それはそのつど見いだされるものであるのに対して、言語における意味生成は記号そのものにすでに内在しているのだ。記号そのものに内在しているがゆえに、だからこそあらゆる交換、あらゆるコミュニケーションが成立する(p.60.)。

 そしてバンヴェニストの主眼は、「音、色、イメージ」といった非−言語的体系のsémiologieは、言語のsémiologieによって初めて成り立つということにある。すなわち、これこそが言語のsémiologieの特質なのである。他の記号体系は、それがsémologieとなるためには、「言語の介在le truchement de la langue」が必要なのだ(p.60.)。言語こそが他のすべての体系を解釈づけるーこれが本論文の目的である。

 ここでバンヴェニストは、sémiotiqueな体系の関係を次のように分類する。

1. ある体系が別の体系を生む:アルファベが点字を作り出す。同じ性質と異なる機能を持つ。

2. 類似の関係:ゴチック建築とスコラ哲学の類似性のように何らかの関連づけがなされる。

3. 解釈の関係:「言語はすべてのsémiotiqueな体系の解釈を行う」という意味での関係である。

 この意味で言語は社会をすら包み込む。そしてバンヴェニストは、言語におけるsémiotiqueな体系を次のようにまとめる。

1. 言語は、énonciationすなわち、話すこと=何かについて話すという事実によってその機能を明らかにする(話す行為には何らかの解読されるべき意味が携えられている)。

2. 言語は、区別されうる単位=記号からなる。

3. 言語は、共同体すべての成員によって参照される価値の中で生まれる。

4. 言語は、間主観的なコミュニケーションを顕在化させる。

 こうして記号の機能が明示される。ここにあるモデルはまさにコミュニケーションの了解からみればきわめて静的なモデルである。つまり言語と芸術の間には根本的な体系の差異があるとするのがバンヴェニストの立場である。

 ではこの言語の特質はどこから来るのか、バンヴェニストによれば、それは言語がsignifiance<意味生成>の二つの様式を兼ね備えているところから来る。その二つの様式とはsémiothiqueとsémantiqueである。

 sémiotiqueとは単位として構成される記号のもつsignifianceの様式である。これはmarques distinctives「差異の標章」によって成立している。この記号は閉鎖された体系によって成り立っているものであり、だからこそ、言語共同体の全員によって認識された「signifiant」なのである。したがってそれは認められるものである<再認>。

 それに対してsémantiqueとはディスクールによって生まれるものである。ディスクールのメッセージとは、記号の積算に還元されるものではない。それは全体で構成された意味なのだ。こちらは理解されるものである<新たな意味の了解>。

 言語はこの二つの領域ーsignifiance des signes et la signifiance de l'énonciation-を持っていることがその特質なのだ(たとえば礼儀作法は、sémantiqueなきsémiotiqueであり、芸術はsémiotiqueなきsémantiqueである)。

 こうしてバンヴェニストはソシュールの「言語のsémiologie」を、sémiologieを排除することなく、sémantiqueを導入することによって、閉じられた記号の体系を前提としながらも、意味の生成という主体の発話を導入することによって、あらたな意味の場を構築しようとしたのである。