美しく、そして誠実な表現で語られている。ことばに携わるさまざまな人の表現をひきながら、そこに深い考察を加えている。表現も内容も優れた講義録である。

 著者の林みどりはラテンアメリカ思想文化史の研究者。問いの中心は「震災とことばがどう切り結んでいるか」。

 震災があったとき、まず訪れるのはことばの無力化である。林は大地震に遭ったメキシコの小説家パチェコのことばをひき、それまで繰り返し使ってきた「塵、灰、惨禍、死」といったことばが、大惨事を前にしてその機能を失ってしまったという体験を紹介する。続いて、辺見庸、佐々木幹郎のことばから、二人がことばを失う体験をしたことに触れる。

 その一方で、ことばの喪失とは逆に、「饒舌なまでにことばを発信する」、詩人和合亮一の作品を引用する。その作品で多用される「!」の意味を、林は「ことばがことばになろうとする瞬間に、その閾の領域で凍りついてしまった呼吸そのものだ」と形容する。

 続いて林は、喪の作業をめぐるジュディス・バトラーの考察へと移る。バトラーによれば、喪失の経験とは「相手の不在を経験するだけでなく、自分自身のなかの何かが決定的に変わってしまう事態を経験する」ことだと言う。バトラーはそれを波の比喩を用い、「ひとは波に襲われるhit by waves」と表現する。私たちは、波に襲われることによって、過去から未来へと延長線をひきながら、日常を生きることがもはやできなくなってしまう。

 この経験を、林は心理学用語の「ベーシック・トラスト」(基本的信頼)が根源的に破壊されてしまった事態だと説明する。このベーシック・トラストの毀損から、私たちがこれからどうやってあらたな思考やことばを獲得できるか、それが私たちの責務であると、林は声高ではなく、一貫性を持って主張する。

 トラウマのことば。それはどのようなものであるか。トラウマは「声なき声」(宮地尚子)であり、その意味では「トラウマはことばにならない」。しかし林は、この原則が侵されることがままあると言う。

なぜなら、ひとは、ことばにならない経験を他者に伝えたいと願うからです。苦しみを、恐怖を、悲しみを、憤りを他者に手渡すことによって、他者とつながりたいと絶望的に願うからです。

 こうして「うめき声の断片が結晶」(宮地)になり、詩が生まれる。パウル・ツェラン、そしてアルゼンチンの詩人フアン・ヘルマンの詩が紹介される。ヘルマンは、アルゼンチンの軍事独裁政権化で息子夫婦の強制失踪に遭い、その喪失を詩にした。その詩は、今ここにいないー非在の者へに向けられたことばであり、その意味で詩は対話的である。対話をする以上、その行為は追悼や鎮魂ではない。あくまでも相手は対話者なのだ。喪の作業にはならない、林の言う「宙づりの感覚」、「幽きものたちの強度」に満ちているのがトラウマのことばである。
 
 最後に林はチリ地震の証言者のことばをひきながら、その語りの外にある事実と、語りの内容のギャップではなく、大切なのは証言者が生きた「リアリティの重み」であると言う。このリアリティは悪夢であり、恐怖であり、それから引き起こされる、「叫びや行動」である。これらは整然としたことばにはなりえない。だがこの「詩学の証言」こそが、私たちを共感へとつなごうとする。

自分と同じ経験を生きのびたひとたちと恐怖や怯えの思いを共有すること。恐怖の経験を語りあい、ことばにならない部分をふくめて抱きとめあうこと。苦しんでいるのは自分だけではない。だれもこの辛さをわかってくれないわけではない。たがいに悲惨な出来事の生き残りであることを認めあい、たがいの証言の証人になることを受け入れること。

 これらのことばは、叫びや断片にしか過ぎない。物語のような体系ももたない。しかしその欠片に耳をすまして聞き入り、他者と経験を共有すること。その時、この声を聞く者は必ずしも体験者である必要はない。証言を前にして、その声をきちんと受けとめ、別の他者へとそのことばを伝えることが大切なのだ。ことばが完全である必要はない。むしろ、その不完全さ、壊れやすさに自らの感受性を発揮することが求められるのではないか。
 
 この文章は、南アフリカ出身の作家クッツェーの『フォー』の引用で終わる。登場人物の元奴隷フライデイは舌が切られたためことばを発することができない。沈黙といういわばことばの不在の極限である。しかしこの小説の最後、フライデイの口が開く。さて、そこでことばは聞かれるだろうか。おそらく私たちは、ことばがなくても、その存在の傍らにいることで、対話を始めることだろう。通常の伝えるための、意味に満ちたことばではない。しかし、私たちは共感を持って他者(失踪者や死者もふくめて)によりそうとき、そこにはやはりことばが流れるに違いない。そのことばこそが、詩である。

 芸術作品がそこに在るとき、その作品を作り出した芸術家と呼ばれる人間がいる。芸術=アートが自然ではない以上、芸術が人間の創造によることは自明である。ただなぜ芸術家は創造へ向かうのか。あるいは何が芸術家を創造へと向かわせるのだろうか。そこには個人的な表現欲求があることは確かだとしても、果してその欲求は、どこまで純粋に個人的なものだろうか。

 世の中に歴史として捉えられるような大きな出来事が起きるとき、それを機に実に多くの作品が生み出され始める。東日本大震災の後、多くの小説や詩が書かれ、写真や絵画作品が作られている。この展覧会の主題である戦争という事象も、また実に多くの作品を生み出した。歴史的出来事をきっかけとする作品は、創作者たちが生きる同時代において地震や戦争といった惨事がなければ、おそらく生み出されえなかったであろう。その意味で、これらの作品は、その生きている時代に呼応して生み出された作品だと言えるだろう。

 もちろん、時代と作家の関係は、それほど単純ではない。特に戦争の時代は、単なる呼応だけではなく、国民総動員体制のもとで、全国民が戦争へと引きずられていった中で、芸術家たちも制作によって奉仕することになる。戦争下における、画家の主体性の問題は、一筋縄ではゆかない問題である。国家の体制に反抗する画家たちがいる。従軍してルポルタージュのように戦地から絵画を送る画家たちがいる。そして戦後、戦争の惨事を告発しつづける画家たちがいる。どのような立場をとっていようとも、そこに芸術作品が生み出されたことことは確かだ。平時ではないからこそ、戦争という時代の切迫感のもとだったからこそ、画家たちは何かに取り憑かれたかのように、実におびただしい作品を生み出していった。

 <戦争/美術1940-1950 モダニズムの連鎖と変容>展(神奈川県立近代美術館 葉山)は、1940年から1950年を中心としながら、前後それぞれ5年間をあわせ、35年から55年までの20年間に制作された絵画を紹介している。展示された絵画は実に多様である。日本画や水墨画の系譜をひく作品もあれば、西洋絵画、特にシュルレアリスムに影響を受けた作品もある。南方へ従軍し、エキゾチックなモチーフを描いた作品もあれば、戦中・戦後の日本の風景をスケッチした作品もある。

 この展覧会では、戦火を直接描いたり、兵士の姿を具象的にとらえた作品は少ない。戦地を描いたものも具体的な戦いを主題とはしていない。たとえば、山崎隆『続戦地の印象(其五)』(42年)で描かれるのは、荒涼とした土地だけである。そこには死者はいない。しかし掘り起こされたかのような黒ずんだ泥が、墨を飛び散らかしたかのような跳ねたタッチで描かれる。風景のはるか奥には、黴のようにくすんだ緑青色がそれほど荒らされることのなかった大地を覆っている。この陰鬱な土地とは対照的に、画面の上3分の1を占める白い雲が立ち上る空は眩しいほどに美しい。荒々しい筆遣いが描くのは、やはりそれとは対照的な沈黙の世界である。

 山口蓬春『南嶋薄暮』(40年)が描くのは、赤い屋根、南洋植物、木につながれたずんぐりした牛、そして頭にかごを乗せて食べ物を運ぶ薄褐色の肌をした女たちである。日本軍が出兵したはずの南方地方であるが、ここに描かれるのは、きわめて日常的な風景であり、空の青、壁の白、そして屋根の赤の透明さは、この世界の健康さを映し出しているかのようだ。

 もちろん敵国を貶める国威発揚のための絵画もある。その代表が藤田嗣治『ソロモン海域に於ける米兵の末路』(43年)である。藤田は「戦後は画家の戦争協力に対する批判の矢面に立ち、49年に日本を去」っている(図録、p.69)。ここでは何匹ものサメが姿をのぞかせる荒海に浮かぶ小舟と、その小舟で最期を迎えようとする米兵たちが描かれている。しかし、この絵をどのように観ようとも、おおよそ米兵に対する蔑みは感じられない。まず構図はジェリコの『メデューズ号の筏』のように力動感にあふれている。狂った海は崇高さをたたえている。そしてある者は疲弊しきり、ある者は瀕死の有様であるにもかかわらず、一人の兵士だけは小舟の上に立って、前方を厳しい表情でしっかりと見据えている。その肉体はたくましく、肌は薄光りしている。そのたくましさゆえ、海やサメへの恐怖はみじんも感じられない。この米兵の肉体と立ち姿から伝わるのは、ただただ宿命に対峙する強靭な意思である。

 展覧会の戦後の章を代表するのは、丸木位里・俊の『原爆の図』である。この作品群はもちろん強く原爆を告発するメッセージ性の強い作品であるが、だがメッセージに奉仕するというには、あまりにもこの絵画作品自体の存在感は圧倒的だ。この作品が原爆の悲惨さを描いていると頭で理解する前に、まず私たちを打つのは作品全体にあふれる生命感である。ただしその生命は人間のものではない。その人間を焼き尽くそうとする火の生命感である。業火の赤と白は鮮烈で美しい生き物で、ヘビのように人間に絡みつく。そして、焼かれる人間は薄黒く煤けた炭である。その人間たちは意外なほど、身体の姿をとどめている。まだそこには顔があり、腕があり、尻がある。いくら火に焼かれようとも、体が炭のようになろうとも、その人間性からどこまでも逃れられないというかのように。

 今回の展覧会のなかでとても心を揺すぶられたのは松本竣介という画家の『立てる像』という絵である。図録によれば(p.63.) 、松本竣介は1912年生まれ。子ども時代に聴覚を失い、戦争中は兵役の免除を受ける。41年に「生きていゐる画家」と題する文章を発表し、戦争協力に反対した。『立てる像』はその翌年に描かれた画家の自画像である。画面の中央に立つ青年。その顔はおだやかだ。しかし動じるところはない。静かな自分の信念が、その落ち着いた表情に宿っている。今までにこれほどまで、これ見よがしではなく、しかし自分を恃む意思をたたえた表情に出会ったことはない。空には雲がどんよりと漂っている。道にはゴミが落ちている。しかしその中央に、画家は「立っている」。立っているとは、生きている、生き続けるという強い決意である。この自画像には画家の溢れ出す生命の充実がそのまま清らかに描かれているのである。戦争という危急にありながらも、自分に忠実であり続けた画家の姿がここにはある。

戦争/美術 1940‑1950 モダニズムの連鎖と変容 - 神奈川県立近代美術館 葉山