Simon, Paul

there_goes_rhymin_simon.jpg Paul Simonのソロ作品は、ワールド・ミュージックの剽窃だなどとよく言われたせいか、自分の中でも、安易なミュージシャンというイメージがずっと残っていた。それはピーター・ガブリエルが、同じくワールド・ミュージックの文脈に依拠しながらも、それをスタジオ・ワークによって高度に再構築してみせたアルバムを出していただけに、Paul Simonのアルバムは、ろくに聞いたこともないのに、素人くさいものと思ってしまっていた。

 今回この実質ソロ2作目を初めて聞いてみて、Paul Simonの仕事の根幹には、良い意味でも悪い意味でも、「アメリカ」をどう歌い込むかという問いがあると感じた。そして、それらを飾るアレンジはまさに飾りでしかないと。

 1993年12月号の『レコード・コレクターズ』で高橋健太郎は次のように書いている。

「ただし音楽的にそのような要素を取り入れても(レゲエやゴスペルコーラスなど)、サイモンのアプローチにどこか醒めた距離感があり、ニューヨークのインテリが作り上げた文学的、あるいは映画的な作品であることを逸脱しない」
 つまりどのような他者の音楽に触れようと、結局出来上がった作品は、アメリカのポップ・エッセンスをセンスよく取り込んだものになっている。ゴスペルやカリプソがあったてもそれは、ゴスペル「風」、カリプソ「風」であって、趣味の範疇をでるものではない。そしてこのアルバムには、永遠に歌い継がれるだろうポップソングが、上質なアレンジでもっておさめられている。それは4曲目のSomething So Right、そして6曲目のAmerican tuneだ。この2曲に代表される質の高いポップスこそ、このアルバムの通底音ではないだろうか。「明日に架ける橋」ほど大げさではない。 American Tuneで歌われるアメリカは、mistaken, confusedといった言葉に象徴されるような疲弊したアメリカである。しかしそれでもTomorrow's going to be another working dayと歌われるように明日がやってくる。このささやかさがこのアルバムをつくったときのPaul Simonの気持ちではないだろうか。

 だからこのアルバムは奔放な音楽探究の旅とは到底言い難く、たとえば自分の子供のためにつくった子守唄、St Judy's Cometが、Paul Simonのプライベートな心情をつづっているように、パーソナルな小品をまさにアルバムジャケットの様々なオブジェのように集めたイメージが強い。 Something〜も、パートナーにあてた感謝の気持ちをこめたラブソングだ。このように自分の生活に向き合っている姿を素直に眺めれば、様々な音の意匠はまさに飾りで、そこには音楽を丹念に生み続けるひとりの才能あるアメリカの音楽家の姿が浮かび上がってくるのではないか。イギリスにPaul McCartneyがいるように、アメリカにはこのPaul Simonがいる。そして何よりもこの2人のポールの曲は思わず口ずさみたくなるほど、親しみがあり、それでいてきらめくほど美しい。

 ところで、06年の紙ジャケにはボーナストラックがはいっているが、これが最高によい。あらゆる意匠をとりさった、原曲だけが歌われている。