newyork.jpg アル・クーパーは、ディランのアルバム録音に参加したり、バンド活動を繰り広げるなかで注目を集め、ソロ・アルバムも何枚も発表した。しかし根本的にはセッションバンドのキーボード奏者であると思う。よく言われることだが、彼のヴォーカルは、声量があるわけではないし、細やかなニュアンスに欠ける。

 それでも彼のアルバムの魅力が衰えることがないのは、次々とあふれてくるアイデアを、アルバムであますことなく表現しえたからであろう。ハードロック調の曲もあれば、都会的なバラードもある。脈絡なぞあまり考えずに、頭の中に浮かんだものをとにかく音にしてみるという、考えてみれば贅沢な、しかしそれだけ高い制作意欲につらぬかれたアルバムである。

 代表作として、そして日本で人気があったのは『赤心の歌』であり、自分も一番最初に購入したアルバムである。しかしNew York City (You're a woman)は、アル・クーパーの強い思い入れを感じる好盤である。プレイヤーとしての自信にあふれ、さらにプロデュース、アレンジも手がけ、一枚の作品へとアーティストの発想が結実している。

 特に表題作の1曲目。ピアノと語りかけのヴォーカルから始まるイントロが素晴らしい。アル・クーパーのニューヨークによせる郷愁を歌ってはいるが、中盤からの力強さこそこの曲の魅力だ。この曲があるだけでこのアルバムは名盤と言える。そして切れ目なく2曲目へと。こうした着想や、ソウルロックのテイストがTodd Rundgrenを確かに思い起こさせる。

 作曲能力の高さ、オリジナリティという意味ではインパクトに欠けるかもしれない。Elton Johnのカバーもあるが、これも楽曲がもともと良いから聞けるという点は否めない。それでも一人のミュージシャンが創意工夫をこらしてひとつの作品を創造できたということ、その音楽を創造する高い志に深い敬意を抱く。

 バンヴェニストは自明とされている「言語はコミュニケーションの道具」という前提から出発する。道具とは何か。それは自己の目的に奉仕してくれるものであろう。その視点に立てば、バンヴェニストが素描するコミュニケーションの道具としてのあり方は、ここで展開しようとする主体概念と根本から対立すると考えられる。

 言語は、命令、質問、知らせといった、私が言語にゆだねるものを伝えようとし、相手にそのつど適したふるまいを起こさせる。

 バンヴェニストはこのようにコミュニケーションの道具としての言語の役割を説明し、行動主義的観点からすればそれは「刺激と反応」のプロセスであるとする。つまり発話者は刺激を与え、聞いている相手はそれに反応するということである。
 このモデルがバンヴェニストの主体性の概念にどのような意味で相反するのか。言語を道具とみなすことは、言語を発話者の意図の実現をみなすことである。そして聞いている相手という他者は、その自己の意図遂行の対象という扱い方をされる。この場合あくまでも主体にとっての他者は、言語が道具化されるのと同時に、目的遂行のための道具に過ぎなくなるのだ。
 「刺激と反応」という生理的なモデルが示すように、ここには人間性の契機はない。バンヴェニストがそのすぐ後に述べる「ディスクールは当然ながら対話者間のものである」ならば、実はバンヴェニストは「ディスクールとことばを取り違えているのでは」と書いているが、たとえ言語使用の状況のプロセスを問題にしているとはいえ、上述のモデルは言語のディスクールとしての機能とは対極的に位置するものである。
 続いてバンヴェニストは「コミュニケーションの道具」には、非言語的なものもあるし、またこの考えによって言語と、言語よりもあとにできたもの(たとえば信号の体系)との混同が起きていると指摘する。
 その上でバンヴェニストは言語道具観を否定する。道具とは人間が制作するものであるが、言語はそうではない。言語は「人間の本質(自然)の中にあって、人間が制作したものではない」。ここでバンヴェニストは言語起源論、すなわちどうやって人間は言語を話し始めたのか=言語を作ったのかという問題の設定自体を否定する。バンヴェニストは人間とは「話している人間」であり、人間と言語を切り離すことはできないとする。
 おそらく言語の起源はたとえば人間という生き物の発声器官の進歩といった生物的な観点から考えるならば、問いとして成立しうるであろう。しかしバンヴェニストにとって人間の主体という問題を導入したとき、言語に対する人間存在の先行性という考えは成り立たない。
 バンヴェニストは日常の中でやり取りされるのはparoleであるとし、その上でparoleがことばのやり取りという役割をもつにはlangageによって保証されなくてはならず、それは「paroleはlangageの現働化にすぎない」からだと言う。この発話の状況、現働化という状況に注意を払いながら、バンヴェニストは次のように言う。

 人間が主体として構成されるのはlangageのなかで、そしてlangageによってである。なぜならば、langageだけが、現実において、存在の現実でもあるlangageの現実において、「自我」の概念を打ち立てるからだ。

 人間が主体として確立するのは、言語によってであり、どちらかがどちらかに先行するものではない。私たちはlangageに「よって」この現実世界へと現れる。その世界とはlangageの「なか」の世界である。langageによって自らを主体として位置づけるーこの能力をバンヴェニストは「主体性」と定義し、その主体性の根拠を「人称」(personne)に置く。
 現働化ということばは使われていないが、jeとtuの共起も現働化と言うことができるのではないか。バンヴェニストは「自我の意識は、対比によってそれが体験されてはじめて可能となる」(みすず訳)という。対比とは相互性によって可能になるということであるが、この訳に使われている「はじめて」に着目したい。はじめて体験されるいうことは、それ以前は未然な状態であるということだ。jeとtuはそれぞれもう一方がなければその存在は考えられない(ne se conçoit pas)。私たちは<非ー存在>であると言ってもよい。
 主体性とはしたがってindividuelなものではない。私たちは共起することによって、現働化によって生の世界を現出する。その根本にあるのはjeを用いて「話す人間」であり、それはtuなしでは構想されえない。
 だから自己と他者、個人と社会という二項対立はない。バンヴェニストはそれらは相互関係にあり、この相互関係に、主体性の言語的根拠を置いている。
 次にバンヴェニストは代名詞の特殊性を述べる。たとえば「木」であるならば、あらゆる個別の木をひとつにまとめうるような木の概念(concept)が存在する。しかし「私」にはすべての「私」をひとつにまとめうる概念は存在しない。「私」は語彙的実体(entité lexicale)ではない。この「語彙的実体ではない」という言い方に着目したい。語彙的実体とは、辞書におさめられた意味のごとく、いわばどこかに死蔵された非ー存在である。「私」はそのような語彙的な実体ではない。では何か?

(...) je se réfère à l'acte de discours individuel où il est prononcé, et il en désigne le locuteur. C'est un terme qui ne peut être identifié que dans ce que nous avons appelé une instance de discours, et qui n'a de référence qu'actuelle.
 
「私」は、それが言表せられる各個人のディスクールの行為を指向し、あわせてその話し手を指し示すのである。これは我々が「ディスクールの現存」(今ここに立ち現れる)と名づけたところの、つまりは臨場的指向(話している今現在を指向する)しかもたないもののなかでしか同定されえない語詞なのだ。

 このinstance、日本語で現存と訳された単語、そしてactuelle、今現在という単語、この二語によって、jeとは現働化された場において初めて存在するとされていることがわかる。その場とは、一人の話す人間が、他者とともに現れる場であり、ことばが生まれている場である。だから「主体性の根拠は言語の行使の中にある」(le fondement de la subjectivité est dans l'exercice de la langue)。
 これに続いてバンヴェニストは、<これ>、<ここ>、<今>のようなデイクシス(deixis)がディスクールの現存との関係のおいてのみ定義されること、さらに時間性の表現が現在と関係づけられていることを指摘する。そしてこの現在とは、「話している現在」である。これは話すことによって現在も話者も現働化されるという意味である。反対に言語(langue)が現働化されない以上は、すなわち「話し手がディスクールの行使」をしない以上は、langageは「虚の形式」を提出するだけである。そこには存在も生もない。前述した死蔵されたことばしかないのだ。
 しかしこの論文は、行為遂行の動詞の説明へと移ってしまう。それはたとえばje jure「私は誓う」という言表行為は、私が遂行している行為の描写ではなく、私を拘束する行為そのものであるという言い方が示すように、バンヴェニストは言表行為そのものの現在性を訴えようとしたのであろう。Je promets「私は約束する」、je garantis「私は請け負う」などの動詞を挙げながら、バンヴェニストは「言表行為は行為そのものと一体をなしているのである」という。je jureは誓約行為であるが、il jureは描写に過ぎない。これが主体性がディスクールの現存であることから生ずる結果である。
 しかしこの行為遂行の例を出すことで、バンヴェニストの論は最初に述べられていた「刺激と反応」のプロセスに戻ってしまっている。ディスクールの現存にとらわれるあまり、論文の最後に「間主体性」intersubjectivitéがとってつけたように現れるが、主体のモデルが、主体の意図遂行へと還元されてしまっている。「間主体性」が示すように、言表行為と行為そのものといったとき、むしろその「行為そのもの」によって生起する相手、社会、言語、もっと言えば世界の出現こそを強調すべきであったのではないだろうか。
 それは、現働化ということを存在の次元まで広げて考えることはできないだろうかとう関心からである。私たちはただそのまま存在していてもそれはただ「モノ」として存在しているだけである。そこに生が生まれるためには現働化という「働きかけ」が必要とされる。それがなされるまでは私たちは無に等しい。だから言語の起源を問うことも人間による現働化がない以上、それは存在しないに等しい。
 「私」、「あなた」、そしてそこに生まれている社会、その関係において現働化されるディスクールとしての言語、これらが同時に生の様相を帯びて、はじめて存在の明るみへと姿を表す。バンヴェニストがいう「言語とは生である」とはここまで広げることができるのではないか。