先日ボーヴォワールの最初の小説『招かれた女』を読むために、河出書房版の『世界文学全集』を手に取った。そこに挟まれていた「月報」に白井浩司による紹介文が載っていたのだが、これが文学全集の案内にあるような入門的な解説文からはほど遠い、辛辣な批判的文章であったのに少々驚いた。白井は『招かれた女』こそボーヴォワールの小説のなかで第一等の作品だと見なしているが、それはこの作品以外には、たとえばゴンクール賞をとった『レ・マンダラン』もふくめて、きわめて底の浅い作品しかないと言っているに等しい。その『招かれた女』でさえ、白井は様々な欠陥を指摘し、評価しているのは登場人物グザヴィエールの人物造型だけである。だがそれさえも結局は女性しか描けない女性作家の限界であるとして、ボーヴォワールの小説家的な価値をほとんど認めていない。
 白井が評価するのは『第二の性』であり、確かにこの紹介文が書かれてから半世紀が過ぎた現在であっても、ボーヴォワールの著作として読まれ続けているのはほぼこの作品に限られるかもしれない。
 しかし、ここで読み返したいのはボーヴォワールの自伝的な作品である。もちろん文字通りの自伝と言える『娘時代』(Mémoires d'une fille rangée)、『女ざかり』(La Force de l'âge)もあるが、「私」が主人公でなくとも、語り手として近親者について、とくに近親者の死について綴った著作がある。母の死について書かれた『おだやかな死』、そしてサルトルの死について書かれた『別れの儀式』である。この二作を特徴づけるのは、ボーヴォワールの書くというよりは記録をしようとする観察眼である。前者ではたとえば「母はもはや生命の抜けがらであり、しばしの猶予をあたえられた死骸でしかない」と、母ではなくあたかも物と化した肉体を冷徹に描写する眼である。そして後者では、ボーヴォワールは自らを証人と位置づける。すなわち、この書はサルトルについて情報を求める人のための証言として書かれたのであり、そのためにサルトルを見つめる眼は、出来事の外側に置かれている。
 この書物はボーヴォワールが十年にわたってつけていた日記をもとにしている。日記とはまずは備忘録であり、日々の記録を集積したとしても、それがひとつの建物のように統一された構築物になるわけではない。むしろここにあるのは観察記録として残されたサルトルの日々の動静である。その動静は社会的な活動と老いと病に侵され意識さえ朦朧とする姿の対比である。そのサルトルの姿が日付とともに克明に記されている。
 この観察眼が象徴するように、サルトルとボーヴォワールのカップルの間には距離がある。実際二人はお互いをvousで呼んでもいる。もちろんボーヴォワールはサルトルの死への接近に絶望をする。またサルトルの「ぼくのカストールに辛い思いはさせたくないな、ほんのわずかでも」(Je ne veux faire à mon Castor nulle peine même légère)という言葉を書き留めてもいる。死の間際には、サルトルとの最後のキスが次のように描かれる。

四月十四日、私が着いた時、彼は眠っていた。彼は目をさまして、目を開かないまま私に何か言った。それから唇で私を求めた。私は彼の唇と、頬に接吻した。彼は再び眠った。

 それでもこのカップルは、共に生の時間を過ごし、また強く結びついてたとしても、決して「ひとつになる」ことはなかった。この主体のあり方をあいまいにするような恋人同士の融合という考えを、ボーヴォワールは決してとらなかった。それは『女ざかり』でも述べられていた。
 二人の間に厳然と存在する距離ーそれは、ボーヴォワールの死生観の反映でもある。ボーヴォワールにとっての死とは、人間の最終到達点ではなく、事故である。人間の存在には決定的な意味づけや価値づけはない。意味や価値の不在こそが人間の生きる確証であるとするならば、死はこうした人間の不断の意味づけを決定的に奪ってしまう暴力に他ならない。だから、わざわざボーヴォワールは最後に「彼の死は私たちを引離す。私の死は私たちを再び結びつけはしないだろう」(Sa mort nous sépare. Ma mort ne nous réunira pas)と書くのだ。死後を甘く彩ることなどボーヴォワールにはありえなかったろう。それほど死の事実は歴然としている。
 だが、このあとにボーヴォワールは最後のことばを書き記す。「こんなにも長い間共鳴し合えたこと、それだけですでにすばらしいことなのだ」(il est déjà beau que nos vies aient pu si longtemps s'accorder)。この日本語訳の「共鳴」に注目したい。共鳴とは決して一緒になることではない。そもそも共鳴とは二つのものが離れていなくては起きない現象なのだ。融合したものは決して響き合わない。主体の存在を前提としたnousであるからこそ、accordするのだ。「共鳴」こそ、このカップルの本質であったことを教えてくれる締めくくりである。

John Mayer, Inside Wants Out (1999)

inside_wants_out.jpg 35分のEPということだが、最初の1曲を除けば、残りの8曲はすべてアコースティックであり、十分統一感がとれた1枚のアルバムだと言ってよいだろう(日本盤は1曲ボーナスつき)。

 曲の最初の一小節を聞いただけで、まわりの風景が変わってしまう。ギター1本で、色彩豊かな世界が目の前に広がってゆく。No Such Thingは朝の起き抜けに聞きたい、さわやかで瑞々しい曲だ。つぎのMy stupid mouthは、少し落ち着いた、ギターのリフレインが心にじっくり刻まれる名曲。最初のわずか5秒のメロディだけれど、その刹那のメロディが、ずっと心に刻まれる。ふと気づくと自然に口ずさんでしまう、忘れられない曲だ。そしてサビのJohn Mayerの高音のヴォーカル・・・こういう曲を聴いてしまうと、なぜ自分がクラプトンに感動できないのか納得してしまう。John Mayerの曲の美しさは、こちらが立ち止まって、曲に向き合うことを余儀なくさせられる、そして、曲が終わっても、そのメロディがいつまでも響き続けている、強い「出会い」に満ちているのだ。ぼくにとってクラプトンの大方の曲はBGMでしかない。心地よくても、消費され、時間の流れにそのまま運びさられていってしまう音楽だ。

 John Mayerの曲には、繊細さと強さが同居している。たとえば去年のライブアルバムでも1曲目にはいっていたNeonでのギターワークなど、繊細な弦からきわめて力強い音が流れ出してくる。もちろんcomfortableのような、ストリングスの入った泣きの曲もよいけれど。そして最後のQuietは三拍子の静謐な曲だ。リンゴ・スターのGood nightとあわせて聞きたい「おやすみソング」だ。

 もし自分が17歳で、アメリカに暮らしている高校生で、ふとラジオから流れてくるJohn Mayerの曲を耳にしたら、おそらくはずっとJohn Mayerに寄り添って彼の音楽を聞き続けていくことになるだろう。30歳になっても40歳になっても彼の曲を聞いている間は17歳のままだろう。John Mayerもいくらキャリアを重ねても決して大御所にはならないだろう。プロでありながらも、デビュー当時の繊細さをずっと持ち続けてくれるだろう。