小林秀雄

小林秀雄「信ずることと知ること」(1974)

 若松英輔『魂にふれる』で言及されていた小林秀雄「信ずることと知ること」は、小林の晩年、昭和49年72歳のときに行われた講演記録である(この講演を読んだ翌日に、神保町でこの講演のLPレコードが売られているのを偶然発見したときには驚いた)。

 『魂にふれる』を貫いているのは「体験」であろう。そう言ってしまうともともこもないかもしれないが、しかし、体験こそが「哲学」と「思想」を分ち、無意味な知識の集積に終わる知性と、個性や感情と共振する人間精神を分つ。

 「信ずることと知ること」で俎上に乗せられるのが、超自然現象に対する知識人の冷笑的な態度である。知識人そして学者も、こうした問題を「正しいか正しくないか」の判断の基準だけで扱い、個別、具体的体験を、抽象化、合理化してしまうと、小林は言う。
 小林は近代科学の発展を、「日常尋常な経験」を「合理的経験」(p.181.)へと転化させた、経験の変質にあるとした。

 合理的経験とは、経験を観察や実験によって、計量可能とみなす考え方である。しかし人間の精神の働きは、計量には決してゆだねることができない。小林は、ベルグソンの記憶研究を引きながら、「精神というものは、いつでも僕等の意識を越えている」(p.183.)と説く。

 人間の意識は脳に、脳の運動に還元されがちである。しかしベルグソンは、失語症の研究から「人間は、記憶が傷つけられるのではなくて、記憶を思い出そうとするメカニスム」が傷つけられたと結論づける。人間が現実的な生活をおくれるよう、脳髄が場面に応じて、必要とされる記憶を引っ張りだしてきてくれる。例えば死の間際に、生活への注意力を失うとき、子どもの頃からの記憶が一気に溢れ出してくるのは、このような脳髄の働きの喪失による。

 ここから小林は「脳髄が解体したって、僕の精神はそのままでいるかもしれない。人間が死ねば魂もなくなると考える、そのたった一つの根拠は、肉体が滅びるという事実にしかない」と言い、物質を優位とする近代科学の狭隘さを批判する。

 魂をどう考えるか。小林は柳田国男の「故郷七十年」、「山の人生」そして「遠野物語」をひきながら、柳田の生活人の具体的な経験への尊重の態度、そしてそこから自然に導かれる魂への態度を語る。

 柳田の話とはいわゆる神秘体験だが、小林は素直に感動したと言う。柳田のたぐいまれな感受性、体験を体験として自然に受け止める柳田の態度に感動したのである。体験と学問を切り離さないことが、柳田国男の他に引き継ぐ人のいなかった最も重要な態度であるとする。

 柳田は、山に暮らす人々の話を書きとめるわけだが、彼らが実話として語る物語に柳田は具体的にどう接したのか。実はそれはとても単純なことである。心から感動する、すなわち感受すること、そして、山人たちの心の奥底に、古人の心との永続性を見いだし、「己れの意識を越えた心の、限度の知れぬ拡がりを、そのまま素直に受け入れる」(p.193)ことをしたのである。

 小林は、「遠野物語」から、白い鹿に逢った猟人の話をひき、この猟人のなかに「想像力と結んだ彼の自然感情」があると言う。そして語りへと誘われた、猟人の心の赴きを次のように説明する。

言葉にならぬ自然という実在に面しているのだが、その直接な経験が、言葉に成らぬというその事が、彼に表現を求めて止まないのです。(p.197)

 この一文は、猟人の心だけではなく、柳田の学問の根本姿勢を表し、そしてさらにはこの講演をひいた若松英輔『魂のふるえ」の基底にも等しく流れている思想ではないだろうか。井筒俊彦の思想においても同じことが言えるからだ。

 神秘とは、この世界とは異なる世界に出会うことではない。むしろ、この世界への合理的、すなわち制限された意識から離れ、世界と直接出会い、言葉を喪失する体験である。しかしこの言葉が抜け落ちた体験から、さらに回帰してくるとき、それまでの言葉とはまるきり異なる「コトバ」で、この体験世界の様相を語ることになる。いってみれば、それが詩だ。言葉の脱落体験こそが、私たちに、刷新された「コトバ」で、その体験を語ることを迫る。それを表現しえたとき、体験に裏打ちされた思想が生まれてくるのだろう。

 小林は、柳田のお化けの話を最後に引いて、こうした話を切って捨ててしまう歴史家たちを批判する。彼らがこうした話を切り捨てるとき、同時に捨てられてしまうのが、「昔の通常人の人生観」である。歴史家だけではなく、現代人一般が、この具体的経験を切り捨ててしまっているのである。しかしこの具体的経験から出発しない以上、人間の人生、人間の精神の何がわかると言うのか。人間の魂の生を考えることが、思想として語られるためには、この体験の強度を尊重する態度から始めなくてはならないのである。それを小林秀雄が学生たちに伝えたのだ。