スーザン・ソンタグ「隠喩としての病い」(1977)

 「病気とは隠喩などではなく、(...)隠喩がらみの病気観を一掃すること」(p.5.)が、このエッセイの主題である。主に西洋の文学をもとに歴史を振り返り、結核、梅毒、ペストなどの病気についてまわる隠喩的表象を検証しながら、最終的には現代の癌に付着している隠喩の言語構造を批判する。

1.
 病気が隠喩に頼るには、「未知な何かがそこに潜んでいる」「恐怖心をかきたてる」からである。病気を病気として捉えるためには、病気を非神話化する必要がある(p.9.)。

 高度産業社会での死は、「死を受け止めることが耐え難い」(p.10)という意味を持つ。私たちは普段は死を考えたりしない。あるいは死を間近で体験することがさほど少ないことから、この現象が生まれるのだろう。では、ソンタグの言うようにたとえ死にたいして普段は意識が気迫であっても、それでも人は死を前にして、何らかの意味づけはするのではないだろうか。そのとき人はどのような意味に頼るのだろうか。考察すべき点である。

 ソンタグによれば、癌だけが、ことさら嘘による隠蔽の対象になるのは、「何かおぞましいものー不吉なもの、感覚的におぞましく、吐き気のするようなおのが感じられるから」(p.11.) だという。つまり癌だけが、強い意味作用をもって、感覚に働きかけるのである。

2.
 つづいてソンタグは、癌の隠喩的使用の歴史を、その歴史と重なる(ただし、19世紀のロマン主義の結核にまつわる隠喩的使用は、20世紀には癌にまつわるそれへと移る-p.21.)結核の隠喩的使用と対照させながら追っていく。そしてその表象の歴史は「捏造した神話」(p. 19.)にすぎないと断言する。

 たとえば、結核による死は安楽死であり、癌による死は苦しみによる無残な死という表象は、現実のさまざまな死に方を捨象し、イメージだけで意味を支配してしまう。結核であれ、癌であれ、こうした「空想が繁殖」(p.20.)するのは、どちらも「病気をはるかに越える何か」と考えられているからだ。それは死のことである。しかし、ソンタグにとって、「はるかに越える何か」とは、余剰の部分であろう。ソンタグは結核、癌にはりつく、死と同一視される余剰の部分を批判しているのだ。たとえば結核の場合は、それは死の美化であろう。

3.
 次にソンタグは「結核の神話」と「癌の神話」の類似点として、「情熱に縁がある」ことを挙げる。それは情熱の過剰であっても、抑圧、衰弱であっても、「生のエネルギー」に関係あるものとして表象される。

4.
 ここでソンタグはあらためて、17世紀から19世紀の文学作品から結核が「ロマンティクな連想を獲得していた」例を挙げていく。「結核こそ上品で、繊細で、感受性の細やかなことの指標」となり、「自我をイメージとして売り込む(...)最初の大がかりな例」となり、そして「ロマン的苦悩」となる。

 また結核は、悲しむという感受性の繊細さとも結びつく。芸術家とは繊細な魂の持ち主であり、憂鬱な精神の持ち主であり、こうした芸術家こそが結核にかかるのであると。それをソンタグは「結核と創造力を結びつける紋切り型の表現がすっかり根をおろしていた」と指摘する。またそれ以上に結核は、「ボヘミアンの生活の重要な範型を提供」した。そしてこの神話が終息するのは、戦後の治療法の確立によってであった。以後この結核にまつわる神話性は、狂気と癌に引き継がれた。

 この「紋切り型」という表現に注意したい。つまりこれは一般に流通するイメージに過ぎず、そこに認識の更新はないし、当然ながら現実の事象からは遊離する。紋切り型を使う人は、自らの認識を眠らせ、紋切り型の言語行為による意味を現実にかぶせ、その現実自体を見ようとはしていないのである。
 
5.
ここではソンタグは、結核とそれ以外の感染症の違いを述べる。ソンタグによれば、「過去の大きな流行病においては、各人はその災禍に見舞われた社会の一員として病気にやられた」が、結核は「個人を社会から切り離す病気」であり、「つねに個人をねらう神秘的な病気」のように見えていた。それと同様に癌も、「個人を懲罰として襲う」病気だとみなされる。だから、「癌にかかった人々の多くは、『なぜ、自分が?』」と問うのだとソンタグは言う。
 
 そしてソンタグは、近代以前と近代以後では病気と病人の性格・行動の関係が変わったと指摘する。近代以前では、病気の後で、人間の性格が破壊されていくことがトゥキディデスでも『デカメロン』でも描かれる。対して近代以後は、病気によって、人間の徳性がむしろ試されるようになる。イヴァン・イリッチも、黒澤明の「生きる」の主人公も同様である。

6.
 ここでは、病気をめぐる表象が、外的要因、内的要因の観点から考察される、『イーリアス』『オデュッセイア』の古代ギリシャでは、超自然の罰であったり、「個人の過誤、集団の違反行為、祖先の犯罪などに対する当然の報い」であったりした。19世紀にはショーペンハウアーは、「病気は意志の産物」、すなわち内面の表現として病気をとらえた。またロマン派においては、「隠された情熱こそ」が病気の原因とみなされた。

 しかし、病気が内的要因とされてしまうと、「病気の責任はすべて患者にある」ことになってしまう。病気が悪化するのも快癒するのも、個人の内面の力に還元されてしまうのである。ここから当然ながら、患者に対する侮蔑の情も生まれ、また「人生の敗者」という診断や、その逆の敗北に対しての賛美も、病者に対して向けられたりするのである。

7.
 では癌と内的要因はどのような関係にあるだろうか。「癌の情緒原因説」は多く報告され、癌と、癌患者が言う「気が滅入る」や「人生の不満」や喪失の悲しみなどの苦痛な感情の間には関係があると言われる。しかしソンタグは、こうした苦痛の感情は、癌患者だけがもつものではなく、「人生の条件」(p.55.)だとして関係を退ける。そして苦痛の感情を表す表現は、「出来合いの言葉」、多くのアメリカ人たちが使うことばだと批判するのだ。

 癌という病気に対して、患者の内面に原因があるとする思想、そしてその内面を表現することばが、紋切り型になっていること、この二点をソンタグは問題視している。

 同様の言説が結核をめぐっても流布し、治療法が見つかるまではずっと続いていた。癌についても情緒を病気の原因とする理論が最近でもはやっているが、ソンタグはそれを「筋の通らない話」と断罪する。

 17世紀のイギリスでは、「幸福な人間はペストにかからない」と言われていた。そして現代にいたっても、「病気の心理的な説明を特に偏愛し」、「病気という、ひたすらに物質的であるしかない現実さえも心理学的に説明がつく」とされてしまう。ソンタグは、現実の中に精神性を持ち込むことが現代において拡大していることを指摘する。そしてその理由として次の二点を挙げる。ひとつは「社会的逸脱は病気」と考える仮説。もうひとつは「すべての病気は心理学的に考察できる」という仮説である。この考え方は、病気の状態をひとつの悪とみなす方向へ進んでしまう。つまり病気は「自業自得」(p.61.)というわけである。

8.
 ここでは病名に生じる暗喩としての意味づけについて述べられている。癩病の事例を通してわかるのは、物理的な病因がわからず、治療法がないとき、病気は「意味また意味の波にもまれやすいものとなる」(p.62.)。まずは「恐れの対象」となり、そして病名自体が隠喩となる。この二世紀は、梅毒、結核、癌という個人の病気とされるものが、「悪の隠喩」として広まった。たとえば『わが闘争』では、「病的恐怖と政治的恐怖」がこの病気に投影されている。結核は「繊細さ・感受性・哀しみ・弱々しさの隠喩的等価物」(p.65.)であった。癌は「非情で、容赦なく、略奪を事とするように見えるもの」に例えられた。

 癌を記述する中心的な隠喩は、「戦争用語から借用」(p.68)されている。「侵す」「防衛力」「走査」「腫瘍の侵略」などの言い方である。治療法も「化学療法は毒物を使う化学戦争」、治療の目的は癌細胞を「殺す」こと、そして癌との「戦争」などと言われる。これらの言い方は、悲観的にも楽観的にも事態を捉えることになり、どちらにしてもその修辞法によって、癌治療そのものの認識が阻害されるのだ。

9.
 十九世紀を通して、病気の隠喩はますます激しいものとなっていく。「本来等しく自然の一部であると考えられる健康と病気なのに、病気のほうは『不自然な』ものいっさいの同義語」と化してしまったのだ」。そして病気は生に対立するものと見なされる。

 そして、社会的幸福が健康であるならば、それとは対照的に、病気は社会の混乱の隠喩となり、混乱は治療の対象となる。その中でラディカルなのは、やはり革命である。ソンタグは、ヴィクトル・ユゴーの『九十三年』で、革命が「嵐」であり、「ペストの魔手」に例えられている一節を引用する。またトロツキーにおいてもヒトラーにおいても、病気の隠喩は頻出する。それは、中国の四人組、パレスチナ紛争へと続いていく。

 二十世紀になり、我々は「絶対の悪」を「適切な隠喩」で表現しようとする。しかしそれを病気に例えるのは、「複雑なものを単純化する傾向を助長する」とソンタグは言う。すなわち、ソンタグは、隠喩に頼ることは、その言葉がもたらす安定化によって、私たちがもはや複雑さについて考えを巡らせ続けようとはしない、と言っているのだろう。

 隠喩は安易に使えるからこそ、プロパガンダに、戦争の、革命のプロパガンダに用いられやすい。だからこそ私たちは、政治において隠喩が使われるときこそ、不信の目を向けなくてはならない。

 今後、癌の治療法が確立すれば、やがて癌も「非神話化」(p.91.)されるだろう。ただしこの隠喩が関心を引くのは、現代の社会そのものが大きな欠陥をもっているからに違いない。現代社会の諸問題の解決と癌の隠喩の消滅とどちらが先にくるだろうか。ソンタグはそれは後者の方であると予言して、このエッセイを終わっている。