Cohen, Marcel

Marcel Cohen, Sur la vie intérieure (2013)

 フランスのラジオ番組をpodcastで聞いていて、この本を知り、Amazonで注文したはずだが、どの番組だったのかは思い出せない。マルセル・コーエンという名前もその番組で初めて知った。

 マルセル・コーエンは、1937年生まれ。この本が書かれたのが2013年で、76歳の時の作品となる。表紙には卵立ての写真。これはコーエンの母マリが、1939年に友人に贈ったもので、コーエン自身の手に渡ったのは、2009年のことである。この作品はコーエンの両親、父方の祖父母、叔父たち8人を回想した、8つの文章で構成されている。その最初の章が母親マリであり、この卵立てから章が始まる。

 卵立ては普段誰も気にとめることのない小さな日常品、毎日の生活に入り込んで、私たちの意識にほとんどひっかかることもないような品である。だが、そんな小さな品にも、意味が宿る。コーエンは、このとりとめもない品が70年間も残されたことに、持ち主の母親へのやさしさを感じるのだ。そして、それは同時に、母親の友人へのやさしさの証でもあるだろう。

 マルセル・コーエンの家族は父方、母方ともにトルコのユダヤ人の家系であった。マルセルの父方の叔父ジョゼフが商売で成功したことで、一族をパリに呼び寄せる。父親ジャックがマリと結婚したのが、1936年、翌年マルセルが誕生する。だがその6年後、マルセルを除く家族、親戚全員がユダヤ人狩りにあう。この作品は、その自分の家族、一族についての回想の書である。

 とはいえ、書くことは困難をともなう。家族を亡くしたとき、マルセルは6歳である。その記憶はおぼろげで、あいまいで、断片的でしかない。また当時のフランスで何が起きていたのか、そして家族がどのような最後を遂げたのか知るよしもない。76歳になった著者が持っているのは、大きな歴史の前で、やがて消散してしまうか細い記憶でしかない。

 冒頭で触れた小さな品は、この小さな記憶の象徴である。父親が作ってくれた犬のおもちゃ、父親が使っていたヘアネット、日用袋、そうしたささやかな品々が、それらが手元におかれていた頃の日常を、少しだけ復元する。手作りの犬のおもちゃは父親の器用さを物語り、ヘアネットは父親のくせっ毛と、それを直すことへの父親のちょっとした執着心を想起させる。

 だが、マルセル本人は、父親が夜ヘアネットをしていたことは何も覚えていない。品は、その存在によって情景を復元するものもあれば、その品に付随していたであろう物語がもはや復元できないこと、物語の不在を示すだけのものもある。

 もうひとつ記憶のたよりになるのが、souvenirs olfactifs (p.101.)-嗅覚にまつわる思い出である。母親の香水のにおい、父親や父親の兄弟たちがつけていた、レモンの香りのするオーデコロンのにおい。マルセル・プルーストの無意識的記憶を想起させる挿話だが、しかしこのにおいが、過去の全体的な復元に至るとは限らない。マルセル(・コーエン)は、似たようなにおいがあることによって、かえって記憶が混濁し、鏡の無限の反復のように似たような記憶だけが、その正体を明かすことなく増幅してゆくと書き留めている。

 この作品は、普通の字体の他に、イタリックの字体と2種類の字体で書かれている。イタリック体は、幼いときの記憶をたどった部分、普通の字体は、成人になってから、生き残った親戚などの証言をもとに、本人が調べて書いた部分である(ただしその証言を拒む親戚もいたことも書かれている。もはや思い出したくない、家族だけにとどめておきたいという親戚の者もいた)。

 すでに触れたように、この作品は、両親、親戚の8人を回想したものだが、その順番は母親マリ、父親ジャック、生後3ヶ月で母親とともに移送された妹モニック、父方の祖母、祖父、叔父、大叔母、そして母方の叔父である。

 この順番は時間的な時間系列ではない。マルセル本人の回想の多寡である。母親の記憶が一番多く、イタリック体で綴られる部分も一番多い。もちろんそれは断片に留まる個人的記憶である。しかし、手で触れた記憶、匂いの記憶によって、その人たちが確かに存在したと伝えてくる。だが、その個人的記憶は、人物が、祖父母や叔父になるにつれ、少なくなり、その分普通の字体で書かれる部分が多くなっていく。そしてその部分によって、ようやく時代的な枠組み、家族の歴史もはっきりしてくる。

 例えば、祖父の回想の部分で、ようやくなぜマルセルだけが助かったのかが明らかになる。祖父はパリに来て、女中をやとったが、それが15歳くらいのブルターニュからの少女だったことに怒りをあらわにする。教育熱心であった祖父は、この女中アネットも学校へと通わせたのだ。強く恩を感じたアネットは、結婚後も、夫のいるブルターニュには祭りや長い休暇のときしか帰らず、あとはずっとコーエン家で働いていたのである。rafle「一斉検挙」の日も、幼いマルセルの手を引いてモンソー公園で遊ばせていたのはアネットである。アパルトマンに帰ってきたところを、管理人の女性に制止され、マルセルを保護し、何とかブルターニュへと逃げたのである。

 ただしこの「事実」は、実は「なぜマルセルが助かったのか」その説明として大切なのではない。大切なのは、この奇跡とも言える事実を生んだのは、祖父の人となりなのである。ここで復元されるのは、当時としてはまれであった、祖父の態度なのである。こうして祖父という存在が、少しだけ浮き彫りにされる。

 私たちは、150ページに満たない作品を読みながら、ゆっくりと幼いこどもの私的な回想の断片から、当時のいきさつへと運ばれる。しかし、この回想も、大人になってからの聞き取りによる復元も、最後の大叔母、母方の叔父のところではともに不可能になる。最後の叔父ダヴィッドについては2ページあまりしか言及がない。つまり語るべきことは失われてしまっているのだ。

 こうして断片から始まった作品は、空白を残して閉じられる。家族の物語は一つの映画のように幕を降ろすことはない。それは物語未満だ。前後関係もおぼつかず、写真がちりばめられた写真のようである。そして最後のページに貼られる写真は残ってない。