木崎喜代治

 宗教対立の原因は単純なことである。それは自らが真理(正しさ)の所有者であり、それに対する内発的な反省をもたないとき、すなわち懐疑をもたないとき、他者は異端となる。しかしながら、こうした宗教対立の原因が宗教の内部にのみとどまる場合はいったいどれほどあるだろうか。
『信仰の運命ーフランス・プロテスタントの歴史』は、フランスにおけるプロテスタント迫害の歴史を辿っているが、教義ではなく歴史的観点から宗教をみるとき、そこに政治的な理由が絡んでいることは自明である。TodorovはLa peur des barbaresでハンチントンの文明の衝突を批判し、国と国の対立は宗教対立ではなく、政治的な利益をねらった対立であるとし、宗教対立は国内の内戦でしかありえないと述べている。しかしながら、フランス国内においてはカトリックが国王の宗教である以上、プロテスタントとの対立、プロテスタントへの迫害は政治的な理由を強く帯びる。
 歴史的観点から事件を考察するとは、年表のような出来事史ではなく、その事件を時間の継起のなかの一点としてとらえるということである。フランスにおけるプロテスタントの事件としては、ナントの勅令とナントの勅令の廃止が出来事として浮かぶ。出来事史で考えれば、ナント勅令を起点、ナントの勅令の廃止を終点とし、「プロテスタント信者に与えられた権利が、ルイ十四世によって廃止された」という物語文が生まれる。しかしこれを歴史として考えるとは、勅令以前、勅令が有効であった期間も含めて、ひとつの時間軸において考えることを意味する。そのときに、物語文によって形成された神話は疑義に付される。
 この著作の軸となっているのは、宗教とは公的礼拝と私的信仰の両面をもち、近代化の歴史とは、公的礼拝というものが政治権力が国家を独立して治める過程において弱体化し、私的信仰という個人の内面に自由をあたえる過程であるという認識である。また著者にとって、信仰の原理とは、「生命を賭して守るべき信念」(p.195)である。そのためにたとえば殉教は宗教的にきわめて純粋な行為としてみなされるのだ。著者は言う。ガレー船の上で鉄鎖につながれて苦役に従事しても信仰を堅固し続けたプロテスタントの姿こそ「地の塩」であり、「キリスト者の本源的姿である」(p.148)と。また別のところでも外国に亡命した信徒とフランス国内に残った信徒の対立にふれ、「殉教こそがキリスト教における至高の行為である」(p.192)と述べている。
 本書の詳細に入ろう。まず前述したように第一章では、1598年のナントの勅令の前後について歴史的経緯を振り返りながら、「勅令」の意味を検討する。ここで注目すべきなのは、「プロテスタントの政治集会」に「フランス国内にもう一つの国家を樹立しよう」とする意図があったことである(p.34)。実際勅令にはプロテスタントのための安全地帯が保証されている。これは政治集会が許され、独自の軍隊が維持され、裁判権さえ与えられていたということである。ただし、これは一種の囲い込みであり、これ以外の地域での活動は禁じられていることを意味する。このような両義性のもとにナントの勅令を読みこまなくてはならないというのが著者の見解である。
 先ほどの物語文によればプロテスタントの信仰が認められたように受け取られるが事実はそうではない。ナントの勅令はむしろカトリックとプロテスタントのつかの間の休戦協定に過ぎず、17世紀を通して、プロテスタントを封じ込める様々な政策が展開される。それが第二章から第四章である。職の制限(官職へ就くことの禁止、同業組合の親方になることの禁止)、例礼拝場所の制限、ドラゴナード(竜騎兵の襲撃)による暴力行為などである。
 筆者はこうした迫害のイデオロギーの宗教的側面として「寛容」の問題を取り上げる(文献としては野沢協のピエール・ベール著作集に付された「『寛容論集』訳者解説が挙げられている)。まず本来キリスト教は宗教的寛容と相容れないという前提がある。真理は神によって啓示されているのであり、人間とはこの真理を受容するのみである。したがってこの真理が見えない異端者には強いて見せる必要があるのだ。もちろん著者はこうした信仰の絶対性がすでに揺らぎ始めていると指摘する。しかし部分的懐疑が少しでもあれば信仰全体の解体をまねく。したがってプロテスタントを「強いて入らしめる」のは絶対の命令となるのだ(p.73.)。
 第五章はこうした長い歴史的な迫害の帰結としての「ナントの勅令の廃止にかかる勅令」通称「フォンテーヌブロー勅令」の内容が検討される。この特徴として挙げられるのは、信仰の一切の外的表現の禁止である(p.130)。たとえ外的表現が禁止されたとしても内的信仰は保全されるかもしれない(これまでも禁止しようとしたのが踏み絵であると言及される)。だが、南フランスの農民階層の信徒たちにとっては、「信仰とは、相集まって祈り、説教を聞き、聖歌とともに合唱することであった」(p.131.)。そこから著者は、政府も外的表現を禁止すれば、内的な信仰を窒息させるには十分であったと指摘する。
 第六章は十八世紀におけるプロテスタントの再起について述べられる。「荒野の教会」の存在、カミザール戦争、そしてアントワーヌ・クールによる再建運動、カラス事件、ラボー・サン=テチエンヌ(国民議会議員に選ばれ信仰自由演説を行なう)が紹介される。ここで注目に値するのは、信徒たちの社会の上層と下層に位置する人々の内部対立である。上層プロテスタントは、信仰心を内面化したというよりも、むしろ啓蒙思想の人間主義を受け入れることによって、信仰心そのものが脆弱化したとされる。それに対して下層の農民たちは上に述べたように外的表出こそが信仰の在りかだったのである。
 第七章では1787年の「寛容令」が扱われる。この寛容令の最大の意義はプロテスタントにも戸籍を認めたことであろう。つまりそれによって結婚が合法化され、所有権や相続権が保障される。上層プロテスタントにしか関与しないこの法令はまさに、信仰生活ではなく、市民生活の側面だけをとりあげているのであり、それは宗教と市民の分離、戸籍と秘蹟の分離である。結婚の問題は大きく、これによって結婚は世俗化、すなわち市民化され、戸籍は教会から国家へ属することになるのである。さらに著者はここに「絶対主義国家における国王の絶対性の否認の内包と個人の絶対性の確立の含意」を認めている。
 こうして近代においては、個人の良心の自由の領域を拡大していき、宗教と国家の切り離しが始まる。第八章は国民議会の論議を取り上げ、「人権宣言」第十条の意味が検討される。未だに信仰の自由は明言されていない。しかしここでは宗教問題がすでに思想の自由に関する個人の問題であって、国家の問題ではない、すなわち国家と宗教の分離の原則が表明されているのだ。実際には決議文にはおおきな曖昧さが横たわっている。しかし、信仰の問題はすでに近代へと大きく踏み出している。国家とカトリック教会の分離の第一歩が印されているのだ。