Smith, Elliott

Elliott Smith, XO (1998)

xo.jpg Elliott Smithが好きかどうかは、その相手とロックの話ができるかどうかのもっとも大きな分岐点である。Elliott Smithのロックは、人格の陶冶や、癒し、共感、励ましとは最も遠いところにある。背中を押してくれる音楽とは最も遠いところにある。ふと気づいたらささやいてしまっていたひとつのフレーズ。しょうがなく生み出してしまったメロディのかけら。それが羞恥の感情にも似て、生の最も純粋な部分を表しているのがElliott Smithの音楽だ。

 Elliott Smithが「音楽流通」の形態を意識して「アルバム」として仕上がったのがこのXOである。したがって、それ以前のアルバムとは桁違いにアレンジがカラフルだ。ドラマチックですらある。1曲目はこれまでであれば、最初のギターのリフだけで完成とされていた曲だろう。指のかするギターの弦の音、それだけで成立しうるのがElliott Smithの曲だ。しかしXOにおいては、この1曲目はピアノ、ドラムのバックが入って奥行き広く展開してゆく。2曲目は、今までの世界に近い音作りをしている。ギターの弦が、か細い金属の線でできていることを実感させてくれる弾き語りの曲だ。4曲目はビートルズのリフそのままのブリティッシュな雰囲気の濃い曲である。これまでと比べればずいぶんポップな曲だが、Elliottの作曲クオリティの高さを実感させてくれる佳曲。それは7曲目も同様だ。キャッチーなサビの部分が印象的なポップな曲だ。また9曲目では、J.Macsisなみのハードなギターを聞かせてくれる。グランジとはまったく違う方向性をもつElliottだが、この曲あたりは少し似ていなくてもない。

 しかし基本はビートルズだろう。10曲目、そして最後のI Didn't Understandなどはまさにビコーズの世界だ。Elliott Smithの音楽は決して死や終末を歌うものではない。むしろ日常の中にたえず訪れるいくつもの小さな死、小さな別離、喪失。そこからのわずかな再生のきざし。それが内省的な音楽の色調を決めているのではないだろうか。

 XOとFigure 8は、スタジオワークとしてもかなり充実していて、まさに職人としてのアルバム作りを確信させる作品だった。しかしそれが彼の音楽性と相反してしまったと思わざるを得ないのは、この2枚が彼の人生の最後の仕事となった歴然とした事実からだ。もうこれ以上どんな可能性も残されていない。ぎりぎりのところまでとぎすまされた音楽へのストイックな傾倒。それがこの2枚なのだ。

Elliott Smith, New Moon (2007)

new_moon.jpg 本人は、どんなジャケットで、どの曲が、CDになって発売されたか知る由もない。しかし、この作品をみたら、きっと本人は満足するに違いない。ミュージシャンの死後、周りの人間がその仕事をきちんと外にだしてくれる。そうした作品に触れるたびに、そのミュージシャンがいかに愛されていたのかがわかる。そして私たちファンもそんな愛をともにする。

 From a Basement of the Hillは、制作途上のアルバムであり、そのせいか、アレンジのバランスが悪かったり、曲の展開が散漫だったり、やはり途中の仕事という事実は否めなかった。それに対して、アウトテイクを集めたNew Moonは、アウトテイクとはいえ、完成された曲ばかりだ。95年から97年ごろの曲が中心に集められており、Another Either/Orという雰囲気の曲が多い。これ自体が、アルバムとして発表されてまったくおかしくない。10年のブランクを経て私たちに贈られたアルバムと言ってもよいだろう。

 なかでもうれしいのはDisk1の13曲目、Thirteen。Big Starのファースト、No.1 Recordの4曲目に収められた曲のカバーだ。クリス・ベルとアレックス・チルトンの2人によるBig Starのラフさや、叙情的なメロディ、枯れた雰囲気は、エリオット・スミスに大きな影響を与えたに違いない(Big Starについては、そのアルバムもそうだが、クリス・ベルのソロ作品I Am the Cosmosもおさえておきたい)。そう、エリオット・スミスを語る際にニック・ドレイクの名前が出されることに今一歩しっくりこなかった理由は、ここにある。クリス・ベルやアレックス・チルトンの名前をむしろ出すべきだろう。彼らの音楽の質感のほうがずっとエリオット・スミスの曲の質感に近いからだ。ニック・ドレイクの叙情性は、けっこう華美だし、ウエット感がある。しかしエリオット・スミスの叙情性は、ずっと乾いた感じがする。言ってみれば大げさではないのだ。この乾いた感じがエリオット・スミスをBig Starにひきつける。

 このアウトテイク集を聞いて、様々なバリエーションの中から、アルバムテイクが生まれていったことがわかる。しかし、あらためてくりかえすが、ここに収められているのは、制作の途中のスケッチではない。セッションでギターをかなでる姿は、きっと幸福感にあふれていたのではないか。そうした自分の曲への愛情という点では、アウトテイクもアルバムテイクも何も変わりはしない。

either_or.jpg エリオット・スミスの曲がとても生々しく聞こえるのは、それは「音楽が生まれる瞬間」に立ち会っている印象をとても強く受けるからではないだろうか?最小限の楽器。あらかじめ決まめられたリズムや、コード進行もないかのように、最小限のささやきと、ギターを刻む音で、音楽が始まる。エリオット・スミスが最初に浮かべたメロディそのまま、音はおさめられ、聞く者にとどけられる。だからエリオット・スミスの音楽を聞くと、本人の存在をとても身近に感じられる。エリオット・スミスの曲は、加工という作業からもっとも遠い。だから皮膚がすり切れるような痛々しいつぶやきまで僕たちは感じてしまう。

 およそ他人に聞かせることなど念頭になかったのだろう。おそらくはBasement Tapesにおさめられたまま、誰にも聞かれずに忘れ去られていくはずだったろう。しかし本人の意図とは別に、「グッド・ウィル・ハンティング」のサントラ曲として、突然、広く知られることになった。その時の違和感は確かに、彼の素直な反応だったのではないだろうか。自分の独り言にも似たメロディが、人にも聞かれてしまい、気に入られてしまうという戸惑い。そんな戸惑いによってその後の生き方そのものを縛られてしまうミュージシャンは多い。ピンクフロイドのシド・バレットはロック(産業)の歴史の中で、その最初のミュージシャンだろう。そして同時代のカート・コバーンを思わずにはいられない。ただしエリオット・スミスとカート・コバーンはとても対照的なミュージシャンでもある。あくまでも内に沈潜していくエリオットに対して、カートはやはり攻撃的だ。たとえその攻撃が結局は自分に向かってしまうとしても。

 タイトルもない、断片だけの曲。エリオット・スミスにとってはそれだけで十分だったに違いない。しかしエリオット・スミスは、自閉的な、自己満足の音楽ではない。彼の歌の中には、時に他人との深い関わりを感じさせる歌がある。そのときの彼のメロディは本当に優しい。

I'm in love with the world through the eyes of a girl who's still around the morning after. (Say Yes)

 恋する彼女の目を通して、世界を見る。そんな風に他人と重なるような一瞬がある。たとえ淡く崩れてしまう一瞬でも、それを静止画のように切り取ることのできるエリオット・スミスは素晴らしい詩人だ。こうしたまなざしをもったエリオット・スミスは、これからもロックを聞く者たちに一番に愛され続けていくだろう。ロックの優しさをここまで純粋に感じされてくれるミュージシャンは希有なのだから。