102039.jpg Robyn HitchcockとAndy Partridge。自分が夢中になって聞いていたミュージシャンが、一緒に曲を作ったという知らせは、まるで自分のレコード棚を二人が覗いていたのかとあらぬ幻想を抱くくらいにうれしかった。

 とはいえ今回はEPどまり。収められたのは4曲だけ。でもどの曲からもブリティッシュな音作りのこだわりが伝わってくる。
 一曲目、Tune me on, Deadmanは実際にはTaxmanの展開。ビートルズのこの曲を下敷きに、ドライブ感のあるサイケデリックなメロディが展開される。あのリヴォルヴァーの感覚である。

 二曲目Flight Attendantsは、よりサイケデリックな展開の曲。今回のEPのメインヴォーカルはヒッチコックだが、彼の爬虫類っぽい粘り気のある声がねじれたメロディにうまく絡んでいる。

 三曲目は、うってかわって、アコースティックな小曲。物語形式の歌詞の雰囲気もあわせて、ポール・マッカートニーの『ラム』を彷彿とさせるメルヘンチックな曲調が楽しい。

 そしてラストのPlanet Englandは、クリスマス・ソングかと思わせる華やかな美しい曲。華麗なストリングスから、後半はギターのリフレインへと移っていくその流れがきらびやか。

 4曲を通してきいてみると、全面に出ているのはヒッチコックだが、曲の構成やメロディはパートリッジの味がよく効いている。それはXTCよりもむしろ彼らの変名バンドDukes Of Stratosphearを思い起こさせる。それはやはりサイケデリックなねじれ具合が感じられるためだろうか。いずれにせよ、この二人のアルバムを早く聴いてみたい気持ちに駆られる、充実したEPだった。

 フランスのドキュメンタリー映画作家ニコラ・フィリベールにはこれまで、耳が不自由な人々を撮った「音のない世界で」(原題:Le Pays des sourds, 1992年)、精神医療施設ラ・ボルドの人々を撮った「すべての些細な事柄」(La moindre des choses, 1997年)、そしてフランスで大ヒットになった「ぼくの好きな先生」(Être et avoir, 2002年)などがある。

 フィリベールの作品には一切ナレーションがない。映画中に解説が流れれば、その解説者の意図やねらいが多かれ少なかれ伝わってくるものだが、ここにはそれがない。私たちはただそこに映されている人、ものをあるがままに見ようと目を凝らす。

 そのためだろうか。あたかも偶然置き忘れたカメラに映ってしまったものを見ているような気分になる。また「音のない世界で」では聴覚障がい者を、「すべての些細な事柄」では精神障がい者を映していたが、私たちに見えるのは、彼らの一人ひとりの具体的で日常性に満ちた生そのものであり、それによって自分たちがあいまいに持っていた「障がい」についての固定観念がいつのまにか消えていく気がする(それは固定観念が消えていくだけで、「『障がい』などないのだ」と障がいそのものの存在を消すことではない)。

 新作「人生、ただいま修行中」(De chaque instant, 2018年)では、パリ郊外の看護学校で学ぶ生徒たちを主題にしている。そして生徒たちの姿を追うと同時に、生徒と学校の先生、患者、先輩看護師、医師など、直接画面には映らない人々もいるが、そうした人々との間に生まれる人間関係、そしてその関係を結びあわせる言葉、身体も映画の主眼になっている。

 映画は2時間に満たない。さらに学校での授業、学校・病院での実習、先生との実習の振り返りの面談の三部構成になっているので、それぞれのパートの時間は短い。その意味で、この映画は、看護教育のごくごく一部、生徒たちの24時間のごくごく一部が切り取られているにすぎない。

 それでもしかし、映されていない現実世界へと私たちが思いをはせることができるのは、この映画の中には、人物たちが話している「ことば」が絶えずあるからだ。

 第一部の授業の風景の「ことば」。先生たちは教科書やパワー・ポイントを使いながら授業を進めていく。実習に近い授業でも的確な説明で技術を伝えていく。どの先生のことばにもよどみがないことに圧倒される。それはこの先生たちが、書かれているものをただ読んでいるのではなく、知識を単に伝えているのではなく、専門家として、そのことばを確信して用いているからだろう。そして人の命にかかわる仕事である以上、技術だけではなく倫理の面においても、決して曖昧さは許されないからだろう。私たちは先生たちのことばを通して、先生たちの職業意識の高さ、そしてそれを吸収しようとする生徒たちの志に触れるのだ。

 第二部の実習での「ことば」は悩みやためらいであり、そしてことばと意味のずれである。うまくいかないという思いが、力のないことばにあわられる。どんな声を患者にかければいいのかと、ためらう。そして患者のことばは、文字どおりその意味を伝えたくて使っているとは限らない。「そっとしておいて」は、本当は「寄り添ってほしい」という気持ちの反対の表れなのかもしれない。そんな日々の葛藤が生徒たちのことば、体験を通して伝わってくる。

 そして第三部での実習とその実習の振り返りをした生徒と教師との一対一の面談こそ、この映画がことばの映画であることをより一層強く示している。何人もの生徒と教師のやりとりの場面が映しだされるのだが、そのひとつひとつの場面に、やりとりのひとつひとつのことばに私たちは胸を打たれる。

 もちろんそれは内容のせいでもある。先輩看護師の仕事振りをみて自信を失ったり、患者の死に直面して心が強く乱れたり、自分にそもそも適正があるかどうか疑ったり、ひとりひとりが自らの生き方そのものに向かい合っている。こうして吐露される若者たちの心の苦しみは、彼らだけがかかえる特殊な問題ではなく、状況が異なれば、私たちひとりひとりが体験することだろう。その意味でこの映画は普遍性をたたえた作品となっている。

 ここであえて着目したいのは、その生徒と先生との間のことばの存在である。生徒の振り返りのことばに対して、教師がかけることばは単なる返事や、知識を多く持つ者がおこなう客観的な評価ではない。教師のことばは、生徒のことばを丁寧に受け止め、そのことばに新たな意味を添えて、ふたたび生徒に送り返す。生徒は自らのことばが、教師が与えることばと重なることによって、より豊かで、確かな意味づけを持って戻ってくることを実感する。このことばの相互性の中で、生徒は成長するのだ。

 生徒だけのことばではない。教師が一方的に与えることばでもない。生徒ひとりひとりが固有の体験をし、それをことばで語る。そのことばを教師は受け止め、教師なりのことばで表現をし直し、生徒のかけがえなのない体験に先生ならではの意味を与える。そして生徒は自らの体験の意味をより深く受け止め、本当の職業人へと一歩を踏み出す。

 映画を見ながらいろんなことを思い出したり、想像をしたりした。病床で亡くなった父親の姿。入院中にケアしてくれた看護師さんたち。その看護師さんたちに心から感謝をしていた父親の表情。自分もやがて年老いて、病院のベッドの上で看護師さんたちのケアを受けるときがおそらくやってくる。そのときぼくは、少なくとも感謝を込めて、初めて注射を打つ看護師さんに、細くなっているであろう腕を差し出したいと思う。