この書は、ソンタグの思索の書というよりも、判断と行動の書と言ったほうがふさわしい。ここに収められているのはワールドトレードセンター爆破、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争などの状況に呼応して書かれ、あるいは語られた記録である。さらにこれらの一連の出来事に対して、ソンタグは武力行使に容認の姿勢を示していることで大きな話題にもなった。
作家はメディアの中でも果たしうる役割がある。ソンタグ、村上春樹がエルサレム賞を受賞し、スピーチの中でイスラエルを批判することは、その内容がメディアによって運ばれ、世の中に波及するという意味で一定の価値がある。村上春樹と同じく、ソンタグのスピーチでもイスラエル批判は辛辣である。
一般市民への均衡を欠いた火力兵器攻撃、彼らの家の解体、彼らの果樹園や農地の破壊、彼らの生活手段と雇用、就学、医療、近隣市街・居住区との自由な往来の剥奪(...)。(p.211)
ソンタグは、作家がこうした批判的な自己の判断をメディアを用いて伝えることを否定しない。ただしそこには条件がある。それは自らが現地に実際に行き、その現実に自らの身をさらしている限りにおいてである。メディアによって伝えられることだけが現実ではない。だからこそソンタグは、グリュックスマンの「戦争は今やメディア・イヴェントだ」ということばを否定する(p.96.)。確かにメディアによって現実が伝えられることが、出来事の成り行きを左右することもあるだろう。しかしそれによって現実が矮小化される場合もあるのだ。
ただ、確かに作家が政治的な立場を持ち、自らの意志によって行動することは一個人として自由である。しかし同時に作家は「言葉に心を砕く」存在である。作家は「オピニオン・マシーン」(p.208)ではなく、「単純化された声に対抗する、ニュアンスと矛盾の住処」としての文学を創造する者である。20世紀は自らが正義と判断して意見を表明してきた作家たちが実は多くの誤りを犯してきた時代である。単純化とは妄信と同意である。その意味で作家は真実を追い求める存在である。
ニュアンスと矛盾のある言葉を創造しながら、真実を追い求めるとはどういうことか。それはソンタグ自身が、ニューマン枢機卿の言葉を引いて次のように答えている。
「高いところの世界ではそうではないが、この下界では、生きることは変化することであり、ここで言う完璧とは、相次ぐ変化の経緯である」。
真実とは、永遠不動のものではない。その都度刷新されるものであり、変化という運動こそが人間が生きている証拠であり、作家は「人間の生命・生活のありうる姿を見据えること」(p.202.)が使命となる。不断の刷新、ソンタグが引く、ヘンリー・ジェイムスの言葉「何に関しても、最終的な言葉など、私にはない」。
およそ芸術を創造する人間とは、この人間の生命を見据える人間であり、世界を更新していく人間である。芸術家とは「自己固定化」の作用を持たない人間であり、それゆえにソンタグにとっては、芸術は他者へと向かう契機となる。
作家がすべきことは、人を自由に放つこと、揺さぶることだ。共感と新しい関心事へと向かって道を開くことだ。(p.215.)
ここでソンタグの行動と思索が一致する。芸術が不断の刷新であるならば、そしてそれが生の表現であるならば、今その同じ生を虐げられ、苦痛に歪む人々のところへ、なぜ赴かないのかという厳しい問いつめが、私たちに投げかけられる。
本書に収められている「サラエヴォでゴドーを待ちながら」はまさにこの優れた実践の記録である。1993年7月半ば、ソンタグはサラエヴォに行き、現地の俳優たちを使って『ゴドーを待ちながら』の上演を行う。砲撃にさらされている最中のサラエヴォである。物資もほとんど行き渡らないなか、ソンタグたちは上演を試みる。
それは深刻な現実においても、芸術がひとときの喜びやあるいは勇気をもたらすからだろうか。そうではない。『ゴドーを待ちながら』の状況と、サラエヴォの置かれている「待つ」という状況が呼応するからだ。『ゴドー』を芸術と呼べるならば、この作品の上演が、現実の意味を増幅させ、今サラエヴォが置かれている状況を明るみにさらけ出すからだ。芸術とはまさに現実との接触のうちに、状況のなかで生まれてくる。この刷新の力をもつ芸術を用いて、ソンタグは、現地から世界に、サラエヴォの現実を知らしめようとしたのである。
ソンタグは言う。ここにあるのは「宗教問題ではない。現実問題だ」。
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