Todorov, Tzvetan

 ミハイル・バフチンとロマン・ヤコブソンはほぼ同じ時期にロシアの地に生まれた(バフチンは1895年、ヤコブソンはその翌年)。亡くなった時期もそれほど大きな違いはない(バフチンは1975年、ヤコブソンはその7年後)。しかし2人の人生、思想には大きな隔たりがある。特にロシア革命からソビエト連邦の成立、そして戦後の共産主義体制へと至る20世紀のロシアの歴史は、知識人がその流れの中でどうふるまうのかという大きな試練を与えることになる。

 ブルガリアの共産主義体制の中で、政治性を排除し、ニュートラルに文学を研究すること以外に選択肢のなかったトドロフは、1962年にフランスに留学する。そして、主に言語学理論に基づく新たな文学理論を提出し、現代フランス思想に大きく寄与することになる。その中で特に特筆されるのが、バフチンとヤコブソンの思想の紹介である。

 その意味でバフチンとヤコブソンはトドロフにとっては文学理論を作り上げる上できわめて重要な人物だったわけだが、トドロフ自身の研究の対象が変化するにつれ、この2人の位置づけも彼の中で大きく変わることになる。80年代のトドロフは、共産主義体制による人間の圧政、この体制を生んだ人間と社会のあり方そのものを問うことになる。そしてその中で知識人がどのようにふるまうのか、それが課題となる。「作品」と「生」の関係である。

 トドロフは、自らも共産主義体制に生きてきた人間であるが、その個の体験を書くわけではない。しかしトドロフが80年代以降、文学理論の研究者から、政治思想、全体主義批判へと舵を切ったこと、その遍歴そのものがトドロフの「作品と生」への姿勢を如実に語っていると言えるだろう。

 このエッセーで、トドロフはあらためてバフチンとヤコブソンの「作品と生」を描く。まず2人の初期の論文に焦点をあて、「世界の表象」を巡って2人の相違を指摘する。
 ヤコブソンの「未来主義」では、トドロフは3つの特徴を取り上げる。第1に現代芸術においては「世界を表象」するのではなく、「知覚対象」から、「知覚」そのもののへと注意が向けられる点(たとえば抽象絵画は知覚対象である世界を描くのではなく、線と面を描く)。第2に、芸術と科学の接近。絵画における3次元や動きの表象の試みがたとえば挙げられる。第3に、一致の概念が挙げられる。それは、モデルニテが芸術、科学、政治、哲学など分野を越えて現れ、古い概念を壊そうとしている現実に現れている。

 一方バフチンの「芸術と責任」において、一致の概念は芸術と生の一致として示される。この一致を成り立たせるのは責任(と罪悪感)であるとバフチンは言う。
 この2人の論考の対立点をトドロフは次のようにまとめる。

ヤコブソンは創造された世界、思考によって生まれる世界を非人称的な対象として描く。バフチンは人称的次元が還元されえぬものとして現れる視野を選択する。

 こうしてヤコブソンは科学へ、バフチンはモラルへと進んでゆく。

 次にトドロフが2人を対照させるのは、モノローグとディアローグの観点からである。モノローグの文芸様式は詩である。ヤコブソンは一歳年上の詩人フレーブニコフに大きな影響を受ける(この交友関係、フレーブニコフの詩論については山中桂一『ヤコブソンの言語哲学1 詩とことば』に触れられている)。詩は、世界を表象するものではなく、自立的な価値を持つとする。そのとき詩は当然ながら意味を派生する言語ではなく、音的価値としての言語によって構成されるものとなる。

 ヤコブソンに影響を与えたもうひとつの思想が現象学である。心理と事物を切り離すという現象学の考え方から、ヤコブソンは主体の心理の反映としての言語ではなく、言語そのものを構造としてとらえる考え方を学んでゆく。そして普遍文法、そして言語機能へと関心をむけてゆく。

 このような言語自体を対象とするヤコブソンの考え方は、彼が自然科学的発想に一貫した関心を抱いていたからだとトドロフは指摘する。

 ではこのような影響のもと、ヤコブソンはどのように詩を定義しているだろうか。トドロフは次のことばを引用する。

詩は言語芸術のなかで唯一普遍的なジャンルである。なぜか? なぜならば、芸術的散文は、弱められたポエジー、日常の言語へと歩を進めるポエジーだからである。

 これについてトドロフは詩の特性を、形式上の制約に従わなくてはならないこと、語の取り替えが簡単ではないこと、そして詩における言語は話者の相互性を欠いていること、すなわち詩のモノローグ性にあるとまとめている。

 モノローグ性、それは言語を発話状況から切り離すことである。それによって、トドロフは、ヤコブソンが未来派たちと同じく、無限の未来を志向したとする。

 一方バフチンもフレーブニコフへの敬意を表明している。しかし、それはフレーブニコフが現実の世界を打ち捨てようとしたのではなく、その世界と新たな関係を切り結ぼうとしたからである。マレーヴィチについても同様のことがいえ、トドロフはそれを「身近な、慣用的な人間の世界を離れて、普遍的なパースペクティを求める」試みであるとまとめている。

 バフチンが影響を受けた人物としてマルティン・ブーバーが挙げられる。バフチンがドイツ哲学から受け取ったのは「相互主観性」の考え方である。人間は、個として時間の中に生き、世界には決して回収されえない単独性をもつ。そしてバフチンはこの単独性においてモラルを引き受けなくてはならないと言う。理性を働かせること自体、知識を得ること自体には、その対象に善も悪もない。だからこそ、我々は理性と知を司る科学性に人間をゆだねるべきではない。人間は自然の事物へと解消されないものだからだ。

 バフチンにとって、言語もしたがって「行為」であるとトドロフは言う。言語を行為としてみればそれは、バンヴェニストのように「一回性の出来事」であると言える。そしてその出来事には共話者(言語を用いて交渉を行う複数の話者)がいる。トドロフはこの点において、ヤコブソンの言う「接触」(contact)と、それに対応する交話機能(phatique)こそ、バフチンの思想と対立するものはないという。バフチンにとって「接触」とは、機能ではなく、言語をコード以外へと変換させるものであるからだ(前掲、山中、pp.150-151参照のこと)。バフチンは次のように言う。

記号論は既成のコードによって、既成のメッセージを伝達するということを好んで来た。しかしながら、生きていることばでは、メッセージは、厳密に言えば、伝達の過程において初めて創造されるのであり、根本的にはコードは存在しないのだ。

 バフチンにとってフォルマリストたちの考えが不十分だったのは、この個人同士の相互行為という面を無視していたからである。対話こそが言語を言語たらしめる条件であり、ここからバフチンの小説に対する思考も生まれるのだ。

 バフチンにおける対話とはどういう意味なのか。トドロフは個と他者の間における言語を通じた交渉は、「お互いに対する信頼、参与する自律、もろさをはらむ合意」を困難であっても求める行為であると言う。そしてここにあるのは未来への信仰ではなく、現在への情熱であると付け加える。「本当の芸術とは現在を生きることを可能にするものだ」ともトドロフは言う。

 対話は、バフチンのもうひとつの重要な概念カーニヴァルと一見対立するかのようにみえる。対話は私とあなたという人称を浮かび上がらせる。しかしカーニヴァルにおいては人称は集団の中にとけ込んでゆく。対話は選択と自由だが、カーニヴァルは集団への従属である。それ以外にも対立点を挙げながらも、トドロフはバフチンの「私」は決してひとりの「あなた」との関係で閉じるのではなく、さまざまな「あなた」と、そして私も所属する「私たち」とも関係を結ぶのだ。しかし、バフチンはその「私たち」のあり方を示していないとトドロフは指摘する。ソヴィエと連邦にあって、共産主義体制以外の「私たち」のあり方の可能性を提出することは、すぐさま危険を意味するからだ。

 科学的精神と詩を求めたヤコブソン、対話と小説を求めたバフチン。ではその2人のソヴィエトに対する関係とはどのようなものだったのか。

 ロシア革命当時のヤコブソンは、他の詩人、芸術家とともに、革命は政治だけれはなくあらゆる分野におよぶと考えていた。20年代ヤコブソンはプラハのソヴィエト大使館で働く。その後第二次世界大戦をむかえ、コペンハーゲン、オスロ、そしてアメリカへと渡っていく。しかしこのような変動の時代、ユダヤを出自とするその家庭環境、そしてソヴィエトの政治体制についてヤコブソンが発言することはほとんどなかった。

 一方バフチンも当時の政治状況にほとんど興味をいだいていなかった。革命が起きるとサンクト・ペテルブルクを離れ、小村を渡り歩き、やがてレニングラードと名前を変えた町に戻ってくるが、非常につつましい生活であった。理論上は対話を標榜していたバフチンは、実生活においては、結婚をし、友人に恵まれてはいたものの、社会的にはずっと孤独な生活をしていたようである。サランスクというごく小さな町に暮らし始めても、教職につき、めだった活動もなかったし、政治的な発言をすることもなかったのだ。トドロフはそれでもバフチンの思想は、教条主義でも相対主義でもなく、困難な「一致」(あるいはsoglasie, sym-phonie)を求めて、様々な話者が、そして様々な意見が存在する世界を目指していたことを強調している。

 2人の作品と生を辿ってみると、実は両者とも、作品と生が一致していないことが明らかになってくる。バフチンはきわめて孤独な生活を送っていたし、その思想を形成する過程で、他の思想家と議論をしたり、さらには自分自身の思想を広めたりという交渉にも興味を抱かなかった。その実人生は対話的ではなかったのである。ましてはカーニヴァル的な生活とは対照的な人生であった。

 それに対してヤコブソンは、さまざまサークルで活動をしたし、他人との対話を好んだ。レヴィ・ストロースとの共作もあるように、他者と研究活動を繰り広げていった。そもそもヤコブソンはほとんど知られていなかったバフチンの著作を評価し、学生たちに読むことを進めた数少ない人物の一人だったのである。

 対話に富む人生を送ったヤコブソン、孤独な生活を送ったバフチン。両者の生はそれぞれの思想/作品ときわめて対照的である。しかしその対照が、20世紀のソヴィエト連邦の成立という歴史的出来事の中で、知的に生きる、その生の具体的なあり方はどのようなものであったのか、私たちにはっきりと教えてくれるのである。

 トドロフの思想とは、一言でいうと「中庸」の思想である。そして中庸の見定めは、あくまでも討議することによって、行なわれる。その意味で対話者の関係の中で、暫定的な真理が生まれてくると言えよう。しかしそれはあくまでも暫定的であって、決して絶対的=不変不動の真理ではない。むしろ絶対を標榜し、議論を排する態度こそ、トドロフにとってはもっとも排すべき考えである。また対話によって真理を見定めてゆくということは、相対主義、すなわち、干渉しない複数の真理が並び立つということを戒めるという意味でもある。そして対話の原理は、彼のバフチン論にその起源を求めることも可能であろう。
 Mémoire du mal, tentation du bienの第4章Les usages de la mémoireでも、「記憶」利用の2つの極端なあり方、sacralisationとbanalisationを排し、歴史における記憶の位置づけについて検討を重ねている。
 トドロフは「記憶それ自体は、良いものでも、悪いものでもない」という。しかし、それが極端な二つの方向、sacralisation「思い出を根本的に分離すること」か、banalisation「現在と過去を過度に同質化すること」のどちらかに傾く危険があることを指摘する。
 ではsacralisationの問題とは何か。まず、sacralisationは出来事の唯一性とは異なる。出来事の唯一性が問題なのではなく、その出来事が、別格のものとして、他の出来事との関係づけ、比較、検討も許されない、「触れられない絶対的な出来事」として祭り上げられることが問題なのである。それは理解の不可能性、表象の不可能性ということばで語られるが、これは実際には理解や表象を「禁止」しているのである。それによって、人類は、その唯一の出来事から教訓を引き出すことがもはや不可能となる。
 出来事のsacralisationはどのような事態をもたらすのか。トドロフが指摘するのは、現在と過去の遮断である。「ホロコーストを忘れるな」と叫ぶそのそばで、ルワンダの虐殺に対しては無関心である現実をトドロフは批判する。
 一方banalisationとは何であろうか。その危険性は、現在の固有の出来事が、過去と同一化されることによって、その固有性を失う点である。たとえば、ある人物を、「現代のヒットラーだ」と安易に形容することによって、現在の特殊性を等閑視してしまうという態度である。
 過去がそれ自身では善でも悪でもないということは、過去と現在との関係において、過去における<悪>が、現在において<善>を生むどころか、新たな<悪>を生む下地となる、という逆説的な事実からも言える(言わざるをえない)ことである。非抑圧者は、それによって善を備えた人物となるわけではない。トドロフはいくつかの例を出しながら、この事実を指摘する。簡単に言ってしまえば、「他者の過ちから何も学ばない」ということである。それが「復讐の連鎖」という事態を生む。その最たる例が、イスラエルの場合であり、過去の経験というものが、現在の政治の正当化に利用され、結果サイードのいう「犠牲者の犠牲者」が生まれている。その意味で、トドロフにとっては、20世紀末におけるアルジェリアの暴力は、それまでの120年に渡る植民地化での暴力のトラウマの結果であり、悪が容易に消えるのではなく、むしろ悪の波及という現実があることのひとつのヴァリエーションである。
 こうしてトドロフは、歴史の教訓とは、過去からそのまま引き出されてくるものではなく、現在における政治的・倫理的確信から生まれてくるものであると言う。
 ここでトドロフはひとつの問いを立てる。「記憶よりも忘却の方が望ましいのではないか」と。そして、記憶の問題として、トドロフは「復讐」の問題を取り上げる。つまり、過去を記憶によって喚起することが、復讐のきっかけになっており、新たな悲劇の到来は、この「許さないこと、忘れないこと」から起こることも確かである。しかも、「復讐」とは、我々にとって、決して無縁のものではない。それは、死刑という制度に根強く残っている。死刑をめぐって、トドロフは、復讐を法の正義と対置する。復讐とは、許しと同じく個人的なものであり、それに対して、法とは非人称なものである。しかし、たとえ抽象的かつ非人称的であるとはいえ、法こそが暴力を減じる唯一の方策であるとトドロフは言う。
 記憶が復讐の原因になることがあるとはいえ、忘却がよしとされるわけではない。ここで取り上げられるのが精神分析で言われるところの抑圧である。それは過去を回復(recouvrement)することをめざす。喪の作業と同じく、過去を忘れるのではなく、その位置、イメージを変えることによって、その過去から解放されることが目的となる。では公のレベルではどうだろうか。トドロフがここで主張するのは、やはり「変化」ということである。この場合の変化は、ある個別の出来事から一般的な行動基準への変化である。具体的には、そこから公的正義の基準、政治的理想、倫理的基準を引き出すことである。この抽象化は、個別のケースから離れるということであり、上述の非人称の抽象化を経ることで、法は到来するのである。
 従って過去を思い出すこと、再生産することが記憶の利用の目的ではない。その目的は、我々の価値の選択によるのであって、思い出に忠実であることではない。そのときに重要となることは、個人のアイデンティティを正当化し、近隣者の死を悲しむことは十分真っ当なことである。しかし、他者の不幸へと自らを転じるとき、そこにはさらにおおきな尊厳と価値があるとトドロフは言う。ユダヤ民族の大虐殺から、黒人奴隷の問題へと転じたシュワルツ=バール、アルジェリアでの拷問を前にして職を辞した、収容者Paul Teigenなどの例が出される。
「記憶の義務」と言う時、それはえてして、過去を回復し、その過去の事実を解釈していく営みではなく、むしろある事実を選び取ることの正当性を訴え、善悪を固定化することに通じてしまう。したがって、必要とされるのは、ポール・リクールが言うように、「記憶の作業」である。この作業とは、それだけでは何の価値や意味もない歴史的過去を問い直し、判断していくことを意味する。トドロフは最後に、「理性の鍛錬」、「討議の試練」に過去をさらし、自らの利益ではなく、他者にとっての倫理とすること、ここに記憶の利用がかかっているとする。

 本書の意図は、啓蒙の時代の様々な思潮を、現代に生きる我々が批判的に受け継ぐために、検証することにある。今「批判」ということばを用いたが、このことばこそ、啓蒙の時代をそれ以前・それ以後からわけ隔てる根本的な人間の思想的態度であり、またトドロフの考え方の根本でもあると言える。批判をするとは、もちろん、自分とは異なる立場・意見を否定することではない。そうではなくて、絶対的な存在、絶対的真理、そして絶対であるゆえに人間から超越した存在というものを前提としないということである。そしてそれゆえに自律する人間が、おのおの価値を吟味するとともに、他者の価値をも吟味することによって、そのつどそのつどの暫定的な「真理」を作り出していくこと、つねに批判・吟味にさらされる合意を形成していくことである。啓蒙主義がその最終目的として、完全なる幸福の世界をユートピア的に描いたとすれば、トドロフが描くのは、相対主義に陥らない、多様性の尊重であろう。みなが賛成するような世界は一種の全体主義である。その具体的な現れが植民地主義における"bombes humanitaires"(p.106)であろう。また他方お互いの伝統文化を絶対的に他者が理解できない領域として批判を棚上げしてしまうのは、相対主義の悪しき形態である。たとえば死刑や、拷問への批判は人間の権利という、共通のノルムに則って、否定される。全体主義と相対主義を両極としながら、トドロフは、批判という動的な人間の思考の動きによって、決してその両極へと陥らない思想的態度をとる。

 トドロフが本書で特に依拠しているのは、モンテスキュー、コンドルセ、ルソーである。特にコンドルセのAutonomieを持った人間を形成するための教育の意義には深く納得されられるものがある。

Le but de l'instruction n'est pas de faire admirer aux hommes une législation toute faite, mais de les rendre capables de l'apprécier et de la corriger(p.44)

このように評価をしながらも、それを絶え間なく改善していこうという姿勢、これこそがよりよき社会を形成するのだというコンドルセの考え方は、権力の維持のために教育によって、絶対的価値を国民うえつけようとする教育(これは教育ではなく、訓練であろう)と真っ向から対立するものであり、公教育を考えようとした当時の人々の最良の部分を明かしだてるものであろう。それ以外にもなぜヨーロッパで啓蒙主義が最も明白な形で現れたのか(この地域に様々な国が並立していること、それによって、国が違えば、常識が違うというような現実に接触していたこと)、など、示唆に富む見解が得られる書物である。

コンドルセに関しては
富永茂樹『理性の使用』(みすず書房)

フランスの公教育に関しては
コンドルセ他『フランス革命期の公教育論』(岩波書店)