Kadare, Ismail

 イスマイル・カダレは現在はフランスで活動するアルバニア出身の作家である。

 敵国で亡くなった兵士の遺骨を、20数年の後に、ある将軍と司祭が拾い集めるという任務がこの小説のモチーフである。死者の骨を拾うことは、人間にとって、おそらく太古の昔から続いてきたであろう尊い弔いの儀式のはずである。しかし戦争の犠牲者たちという特殊な状況において、二人の登場人物の任務の遂行は、追悼という純粋で厳粛な雰囲気からいつのまにかずれてゆき、奇妙なそして不可思議とさえ言える様相を帯び始める。

 すでに出発前にその兆候はあった。将軍のもとには、多くの遺族が陳情に来ていた。かならず遺骨を持って帰ってきてほしいと、死者の情報を持って将軍のところをみなが訪れていた。その列はつきることがなく、将軍はそうした情報をノートに書き留めてゆく。しかしここにあるのは一人一人の死の厳粛さではない。遺族の「身内に起こったことは余りにもよく似ていて、毎日がまるで昨日の繰り返しで、夢を見ているように将軍には思われた」(p.44.)。戦争において兵士の死は平板化、陳腐化される。

 平板化、陳腐化は死者を無名性の束と見なすことにもつながってゆく。20数年経っても、死者の割り出しができるのは、兵士たちにつけられたメダルのおかげである。戦場で亡くなっても、どの兵士の遺体かわかるように、兵士は首から小さなメダルをさげている。そこには聖母マリア像とともに番号が彫られており、すべての死者の識別が可能となる。識別を可能にすることによって一見ひとりひとりの死を無名性から救い出せるかのようで、実は全ての死者は、一単位としてあまねく管理の対象となっているにすぎない。本来ならばかけがえのない死者の遺体は、国家によって軍隊に配属されることで、かえって無名性が強調されるのだ。

 無名性による管理から抜け出すために、脱走兵はそのメダルを捨てる。メダルを捨てることは、兵士としての存在理由を消すことだ。それは戦時中においては、人間そのものの存在価値を消すことに等しい。だがそれはひとりのかけがえのない人間として帰還することでもある。しかしそのかけがえのなさを否定するのが戦争である。脱走兵は、粉ひき小屋で働きながらその身を隠す。その間につけていた日記を読んだ将軍と司祭は次のように言う。将軍「センチな弱虫が書いたシロモノさ」。司祭「普通の日記ですね」(pp.134-135.)。日記に刻まれた脱走兵の極限の非日常は、戦争においてはごく「普通」のことで、かけがえのなさでもなんでもない。

 だが、くる日もくる日も死者を墓から掘り起こしてゆくうちに、崇高であるはずの行為が、やがて将軍の精神をすり減らしてゆく。将軍は幻影におびえ、奇妙な夢にうなされ、睡眠を奪われてゆく。業務のもつ意味そのものの自明性がくずれてゆく。将軍は、自らが掘り起こした死んでいる兵士たちの将軍であるかのような幻覚のなかで、兵士たちを指揮する欲望に憑かれる。また、アルバニアの地を掘り返す将軍は自問する。「『一つの軍隊全体(死んだ兵士から編成される将軍の想念の軍隊)の、大いなる眠りを破りにやってきた』のではないか、『彼らを覆う大地を打つためにやってきた』のではないか」と。そしてまたしても悪夢が彼を襲う。これらの遺骨を再びひとつひとつ大地に戻すべきではないかという悪夢である(p.207.)。

 ようやく業務も最期に近づき、死者から解放されるかにみえたある夜、決定的な出来事が起きる。将軍がある村で夜まで続く婚礼の式に訪れたときに起きる。その祭りにいた一人の老婆は次のようにつぶやく。「母親の呪いは消え去りはしない」と。そしていったん外へ出て行った老婆は、再び袋を抱えてもどってくる。その袋の中にあるのは、かつて自分の夫を殺し、娘をなぶりものにしたがゆえに、自らが殺したある大佐の遺体である。

 将軍は決して戦争と墓地から逃れることはできない(p.274.)。カダレはアルバニアという現実の土地を舞台にしながらも、人間性の剥奪を、遺骨の収集という行為を通して寓話化する。将軍の幻覚と夢を通して、現実の世界は奇妙にゆがめられ寓話性を高めてゆく。死者を弔うために遺骨を拾う尊い行為は、生前の彼らに略奪され、占領された土地に生き残った者にとってみれば、敵の死者の墓を掘り返す行為は、墓を暴いて死者を眠りからさます冒涜の行為でもある。だからこそ呪いを抱き続けた者にとっては、気味の良い復讐に他ならない。「戦争になれば、悲劇とグロテスク、英雄的なものと悲惨なものを見分けるのは難しい」(p.136.)。カダレは、生と死の境界を消し去り、崇高と恥辱にまみれる戦後の世界を、その奇妙に歪んだ現実の世界をこの小説に描いているのだ。