内田樹『街場の文体論』(2012)

 『街場の文体論』は誤解を生むタイトルである。文体論と言えば一つ目に文章技術を指す。「言いたいこと」をより効果的に伝達するために、比喩などの技巧を駆使して文を彩る。美麗文と言ってもよい。見栄えのする飾りを散りばめて、人に心地よさを、その快楽が美なのだと思わせる文章効果を狙う。

 二つ目は「クセ」と言ってよい。たとえば村上春樹の新作を、その名前を伏せて読み始めたとしても、4、5ページすると、その文章が村上春樹のものだと気づく。村上春樹の文体の「クセ」にすぐに気づく。これが作家の独自の文体であり、私たちはときに物語以上に、この文体のクセに惹かれる。

 三つ目は内田が引用しているロラン・バルトの言うstyleである。日本語にすれば文体であり、上述の「クセ」に多少似ているが、内田の指摘によればもっと身体化されている言語表現である。「個人的な好悪」、ある音やある文字に対する「パーソナルな好み」であって、これは「自分でもどうにもならない」(p.120.)。血液の流れや心臓の鼓動といった身体活動を、いくら自分の体だと言っても何の制御もできない。それと同じ意味で「自由意思」でどうにもできないものが「文体」である。

 内田によるバルトの言語理論の概説はきわめて明快に切れ渡っている。バルトによれば言語は3層にわかれる。スティル(style)、ラング(langue)、エクリチュール(écriture)である。ラングも気づいたときには話しているという意味で、私たちの自由意思では選択不可能なものである。「ラングは外的な規制、スティルは内的な規制」と整理した上で、内田は「エクリチュールはこの二つの規制の中間に位置する」とする(p.121.)。

 大事なことは、エクリチュールは「局所的に形成された方言」のようなもので、これには選択の自由があるということだ。しかし、それでも一度選択すると、私たちはエクリチュールの檻に閉じ込められ、社会的なふるまいを規定されてしまう。どんなイデオロギー、どんな主観性をも排除したエクリチュールが「零度」の地点だが、そのようなエクリチュールが現実に達成されることはまずありえない。

 私たちはことばは、選択してはいるが、その選択が、社会身分や、嗜好や、他者への態度など、あらゆることを私たちの意図いかんによらず反映してしまう。そしてその網から抜け出して、新しいエクリチュールを獲得することは、きわめて困難である。

 実は『街場の文体論』で問われているのは、こうした文体、および文体によって規定される言語使用とは対極的な言葉のあり方である。問いはひとつ。「生成的な言葉とは何か」。

 確かに「思いついたことをだらだら話して」はいるが、最初から最後まで生成的な言葉をめぐって考えが述べられているという点では一貫している。例えばエクリチュールの零度は、社会的な規制から逃れること、自由になること。その意味で生成的な言葉が生まれる可能性への問いであり、同時にそうした言葉でさえ再びエクリチュールに回収されることのあきらめでもある。内田は次のバルトの言葉を引用する。

作家が仮に自由な話法を創造したとしても、それは既製品という形で彼のところに差し戻されてくる(p.148.)。

 たとえ自由な話法がみずみずしい生命をもたらしたとしても、それはすぐに枯れてしまう。新たなメタファーを創造したときから、すでにそのメタファーが紋切り型となり、流通してしまうことと等しい。生命とは私たち個の存在の根拠にも関わらず、言葉はすぐにこの個の固有性を抹消してしまう。

 生成とは何か。生成とは単に私たちが生きているという事実ではない。単に生きていることは、既成のコードに従って言葉を発し、世界を惰性で眺め、そして他者を「こんなものだろう」となめてかかることに過ぎない。

 生成的な言葉が生まれるときは、私たちが他者に懇願するときだ。

「届く言葉」には発信者の「届かせたい」という切迫がある(p.285.)。

 この他者への敬意が生成的な言葉の根本にあるという主張は、この講義の最初から一貫している。これこそが「言語における創造性の実質」(p.16.)であると内田は言う。

 この切迫は、もはや言葉の内容を問わないことがある。それは異語や、レヴィナスのテキストによって示される。何を言っているのかわからない。しかし彼方から、あるいはそでを引っ張られるように私たちは懇願を受ける。「どうか聞いてほしい」と呼びかけられて話される言葉は、私たちに<今・ここで>投げかけられているという意味で生成的なのだ。

 生成的な言葉はまた私たちの生の根源に深く根ざしている。そもそも生成とは、私たちの存在を活動へと促す力だ。ただあるだけではない。私たちは言葉にならないものを感じ、その困難さとたえず体を接している。何かが言葉として生まれようとしているという予感。私たちも認識することのできない、魂の力動。言葉の生成には、言葉として浮かんでくる表層面のさらに奥底に広大な世界が広がっていることを予期させる。その例証として内田が引くのがソシュールのアナグラム研究である。

 この言葉の生成について考えることこそ、内田は「生き延びるリテラシー」だという。サヴァイブするということ。それはまさに「単に生きる」のではない。荒海で舵を必死に切りながら、その都度、その都度、困難を乗り越えることだ。「生き延びる」時間は、生に楔を打ち込まれ、生の流れを押しとどめられそうになりながらも、さらに生きるとき、初めて「生き延びる」と言えるようになる。