上間かな恵

 私の祖母はとても信心深い人であった。その祖母がたびたび聞きに通ったのが祖父江省念師の節談説教であった。節談説教は、浄土真宗の寺で信者に対して講談のような形式で仏教の教えをわかりやすく伝えるものである。さまざまな冗談や軽口を交えながら、最後には功徳を説き、信者の老人たちを泣かせるひとつの技芸である。父親が祖母を連れていったときにしたのだろう、祖母はカセットテープに録音されたその説教を家でもよく聞いていた。

 後年、口頭伝承に興味を持っていた関係で、小沢昭一の『日本の放浪芸』のCDボックスを買ったときに「あっ!」と驚いた。そのボックスの1つは節談説教にあてられており、さらにその5枚目には祖父江省念師の説教が、6枚目には師を囲んだ座談会が収められていたのである。

 この論文を読んで初めて知ったのは、「原爆の図」で知られる丸木位里・俊夫妻の俊が「北海道の浄土真宗の娘だった」ことである。「原爆の図」は、1950年2月から翌年11月まで巡回展で全国51カ所で公開された(p.50.)。そのとき夫妻は、会場に立って、原爆の惨状を聴衆に説明した。そのときに役立ったのは、俊の語りである。講談説教の語り口を体得していたその語りは、聴衆を魅了し、引き込んだに違いない。

 この論文の著者、上間かな恵は丸木夫妻の「沖縄戦の図」が展示された沖縄宜野湾市にある佐喜眞美術館の学芸員で、本人自ら、訪問者にこの絵の説明をなさっている方である。非体験者が圧倒的になってしまった現在において、「何を伝えるべきなのか」、「どうしたらこの問題を考え続けてもらえるのか」という問いは、それゆえ切実で具体的である。

 語りのうまさは、人々にその語られる世界の存在を信じさせ、感動を生むかもしれない。だが、それは知らぬうちに、聴衆を誘導し、ことばがもたらす快感に酔わせることにならないだろうか。それが「語りの危うさと難しさ」(p.61.)である。上間は、俊のことばをひきながら次のように言う。

例えば「原爆の図」の巡回展で多くの聴衆を引き込んでいった自らの語りについて俊は、「絵で感じられない感動を言葉で伝えようとする」うちに、「言葉だけはだんだん激しくなって」「まるで漫画家の漫談、なにわ節、ここが聞かせどころというような」自らの語りに空しさを感じ、そのマンネリズムに自己嫌悪に陥ることもあったという。(p.61.上間による俊の発言の引用は、小沢節子『「原爆の図」ー描かれた<記憶>、語られた<絵画>』による)

 この「語りの危うさと難しさ」の一番の問題は、語りが結局は聴衆から、聴衆自身が想像力を駆使し、語りが終わった地点から、自らが考えを深めてゆく主体性を奪ってしまうことにあるのだろう。

 それでも俊は、自ら体験者でなくとも、体験者の声を、その面前で聞いた体験を持つ。「位里の母、妹、弟など身近な家族や親戚」という、「生き残った者たちの生々しい語り」(p.50.)を聞き、「死者の記憶」をその絵に残そうとした「介在者」である。

 しかし体験者でもなく、体験者からの直接の声を聞くことも難しくなってきた今現在に生きる者は、どのように記憶を継承したらよいのだろうか。

 上間は、重要なのは「当事者性」であるという。それは、今を生きる私たち自身が「再び戦争を起こしかねない当事者である」(p.56.)という意識である。ではどのようにして私たちはこの当事者性を獲得できるのか。上間は屋嘉比収の著書『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす 記憶をいかに継承するか』で述べられている3つの手だてを引用する。

1. 沖縄戦の体験談を<共有し分かち合う>という視点の必要性
2. 沖縄人に<なる>という視点
3. 沖縄戦や米軍占領下という<大きな物語>に対して、家族史や個人史的な視点という<小さな物語>から考えてみること

 上間は、続いて、自らの修学旅行生に対する実際の説明を述べているが、そこで大切になるのは、「兄弟」、「姉妹」、「友人」、そして「学校」、「教育」、「家族」という語であると言う。

 私たちは自分の中にいくつもの小さい<私>の物語を持っている。それは兄としての<私>であったり、妹としての<私>であったりする。そして私たちはいくつもの小さな社会の中で生きている。それは家族であったり、学校であったりする。そしてその社会は時に私たちに制約を課す。私たちをとりまくさまざまな社会問題から出発し(いじめ、格差社会、原発事故)、日本の閉塞感を批判的に認識し、やがてはそこから、戦争当時の社会の構図、沖縄戦の恐怖へ接続すること、そのための想像力の大切さを上間は訴える。

「沖縄戦の図」の中央から斜め下には何も描かれていない空白があり、上間はその空白について、次のように説明するそうである。

丸木夫妻は六年間をかけて沖縄戦のことを描きましたがこれがすべてではありません。一番重要なところはまだ空白の部分に沈み込んでいます。この空白はヒロシマやナガサキやオキナワだけにあるものではなく、皆さんの住んでいる街にもあるかもしれません。戦争の跡がないところでは大変見えにくいかもしれませんが、帰ってからも自分の街で目を凝らして探してみてください。

 当事者性を考え続けるとはまさにこのことだ。私たちの今いる場所をしっかりと見つめ、頭を働かせ、想像力を駆使すること。それはときに疲れることであろう。しかしその疲れを超えて、考え続けよと、強い緊張を持って私たちに呼びかけてくるのが芸術作品なのだろう。上間はこの絵画の空白が「常に私たちに切り込んでくる」として論を終えている。小さな物語から大きな物語に接続するために芸術に求められるのは甘美なことばではなく、私たち自身が主体性をもって新たなことばを探し出していくための意識の刷新である。