久米博

 物語的自己同一性(identité narative)とは「私とは何か」という存在論ではなく、「私はどのように認識できうるか」という認識論であり、認識は単にその存在を認めるだけではなく、その存在に意味を付けることである以上、解釈学の範疇に入ってくる。

精神分析
この問題がフロイトの精神分析に関わるのは、「無意識は『表象代表』によってのみ認識可能」(p.118.)だからである。すなわち、自己に存在する無意識はそれ自体としては認識ができない。その代わり、意識の上に現れた表象を解釈することで、構成されることになる。精神分析において自己はもはや主体とはなれず、それは認識できない欲望の対象に過ぎない。

 夢の作業も解釈に関わる。
 

夢の作業には、「圧縮」「置き換え」「形象化」「二次加工」の四つがある。形象化とは、言語や思考を心的イメージに置き換える作業であり、二次加工とは、前の三つの作業の結果を調整し調和させることで、これにより夢は<物語化>される。(p.123.)

 夢は顕在し、われわれには直接届かない無意識を顕在化する。夢解釈はまさにこの顕在と不在の関係づけの作業である。

 また分析プロセスは、「過去の痕跡である断片的事実を集め、つないで、一つのまとまった物語=歴史に仕上げる」という意味で、自己を物語として理解するプロセスと言える。さらに、記憶の想起には事後性があり、経験を経てきた現在からの意味付けによる可変性を備えている。

 こうした精神分析の思想を考えれば、人間の存在を認識するときに、その核をなす部分は過去と現在との関係であると推察できる。しかし、ロバート・スティールが指摘するように、精神分析は科学を志向するときに、その科学的因果性によって、未来を「予言」(p.134.)することになる。しかし、「精神分析は結果から遡って原因あるいは期限をもとめて説明する方式」である。
 
反省哲学と言語の存在論
 解釈ということで考えれば、リクールの反省哲学への関心は納得が十分できる。反省哲学の代表的な人物であるジャン・ナベールは「意識という近道での自己把握はない以上、意識の純粋な自己措定は、直接には把握されず、意識の行為が記号のなかに現れるのを通してしか把握されない」としているからだ。反省とはまさに現象として現れている記号の意味を、解釈によって探求していく試みである。

 これは言語論の枠組みでは、現象として現れている意味ではなく、その意味の意味を探っていくことになろう。この意味と意味の意味はディスクール言語学になぞらえて、前者を記号(辞書に載せられるような恒常的な意味)、後者をその記号を使って、その場で派生し、解釈によってとらえられる意味と捉えることができるだろう。

 さらにこの意味の意味をリクールの「テクスト世界」の問題になぞらえれば、言説の「指示は会話におけるように、対話者間に共通の現実を指す力はない」(p.156.)。
 

フィクションや詩による第一度の指示の廃棄は、第二度の指示が解放されるための可能性の条件である。(p.156.)。

 ただしこの第二度の指示を構築するのは読む行為においてであろう。読者が作品世界を読みつつ、字義を理解すると同時に、その字義通りの意味を通してもたらされる意味を構築していくのである。これをリクールはappropriation「自己同化」と呼ぶ。

 そしてリクールは、読者がその解釈行為を通して、そしてその行為を自分がしているという事実を通して、自己理解を果たすと考える。読む行為は、これまでの自己を放棄して、新たな自己を理解する、力動的な自己変容と言えるのだ。

 テクスト世界の問題に関しては、リクールは「説明」(自然科学の認識論的特性)と「理解」(精神科学の認識論的特性)の弁証法をはかる(p.158.)。ここでリクールが参照するのは、分析哲学者アンスコムの『意図』である。
 

自然の出来事を記述するには原因、結果、法則、事実説明などの概念を含んだ言語ゲームに属する。それに対し人間の行動は計画、意図、動機、理由、動作主などを含む言語ゲームに属する。(...)。人間の行動は因果性と動機づけ、説明と理解の二つの体制に同時に属している。動機は行動の理由であるとともに、行動を起こす力でもある。(p.158.)

 こうしてリクールは行動理論へとテクスト理論を関連づける。

物語的自己同一性
 物語的自己同一性の概念は『時間と物語III』の結論の部分で言及されている。自分が誰であるかは物語ることによって確認される、主体は人生の書き手であると同時にその物語の読み手である、その物語り、それを読む行為は人生の途上で何度も再構成される、といったところがその骨子であろう(p.179.を参照)。

 リクールは「自己」の問題と「同一性」の問題を考えるために、「同一性」(mêmeté)としての自己同一性と、「自己性」(ipséité)としての自己同一性を区別する。この自己を説明するために、リクールは「性格」と「約束」に言及する。性格とは人の安定性を保証する。約束もそれを守ることにおいて自己の維持に関係する。だが、重要なのは、性格はその人の同一性を保証するが、約束はときに「性格の同一性に反してでも約束を守る」(p.182.)。

 たとえ同一性が保たれたとしてもそれは自己の理解にはつながらないのだ。同一性には読みの可能性、解釈の余地は残されていない。では約束はどうなのか。性格の同一性に反してでも約束を守ることは、自己の確証を揺るがすことにならないのか。おそらく自己はそんなときに特に自分に驚くのではないか。予想に反して守ってしまったとき、そこに自分では理解できない自己が姿を現し、新たに理解のし直しをせまってくる。そして約束を守る時、そこでは他者への信頼に応えるという他者との関係における自己が姿を表す。

 この問題は、第三部で言及されるハイデガーの良心の問題によってより明確になるだろう。良心の呼び声は、自分の中に響くが、それは自分が自発的に生んだものではない。むしろその呼び声は、<それ>(Es)が呼ぶのだとハイデガーは言う。自我が呼ぶのではないどころか、その良心の声は、時に「期待に反して、否、意志に反して呼ぶのである」。ここでハイデガーは、この良心の声を聞いたときに生まれる「責めあり」という「有責性」を道徳的に解することを厳しく斥ける(p.213.)。それは存在論的に解さなくてはならないという。すなわち、ここでの自我は、「そうすべき」という義務の声に従っている自己ではなく、声の到来に驚きながら、義務でもなく、有責性にもとでとっさに行為してしまう自己を発見するのである。ここには自己評価と他者への心づかいが同時に存在している。こうして「自己の人生物語は他者の人生物語と絡み合う」のである(p.225.)