本論文「思考の範疇と言語の範疇」の目的は、広く行き渡っている「思考と言語は本質的に区別される2つの活動である」(邦訳p.70)という認識を批判することにある。言いかえれば「言語形式は単に伝達可能の条件であるばかりでなく、まず、思考の具体化の条件である」(p.71.)という事実を論証することに論文の趣旨がある。

 バンヴェニストの論理はほとんど問いの連続であると言ってよい。書物のタイトルが『一般言語学の諸問題』であるように、たえず問題となる問いが立てられる。「言語においてしか具体化しない」思考と「意味する以外の機能をもたない」言語はどのように関連しあっているのか。続いて「言語において形成され、現働化されないかぎり、思考は把握できないことを認めながら、しかも思考に固有のものであり、言語表現に何ひとつ負うことのない諸性格を思考に認める手段はあるか」(p.72.)と問われる。

 この問題を考えるためにバンヴェニストが挙げたのがアリストテレスの範疇論とギリシャ語の関係である。この範疇は全部で10個ある。

1) substance
2) combien - quantité
3) quel - qualité
4) relativement à - relation
5) où - lieu
6) quand - temps
7) être en posture
8) être en état
9) faire
10) subir

 バンヴェニストは、この範疇が実は言語の範疇であると指摘する。まずは1)〜6)については

1) substantif
2) adjectif
3) adjectif
4) comparatif
5) adverbe
6) adverbe

 とし、この6つが名詞の形に関係していることを指摘する。

 続いて7)〜10)は動詞の範疇である。

7) moyen(中動態)
8) parfait
9) actif
10) passif

 バンヴェニストは「これらの観念は言語上の根拠を持ち」(p.76)、「10個の範疇リストは、言語の用語に書きかえる」ことができるとする。

[Les catégories d'Aristote] se révèlent comme la transposition des catégories de langue. C'est ce qu'on peut dire qui délimite et organise ce qu'on peut penser.
 
アリストテレスの範疇は、言語の諸範疇の置き換えという姿で現れる。人が考える事柄を画定し組織するのは、人が言うことのできる事柄である。

 こうしてバンヴェニストは、思考の範疇は、特定の一言語の分類形式を私たちに教えている、つまり「ある一定の言語状態の概念的投影」こそがアリストテレスが私たちに見せたものだとする。

 しかし、ここまでではバンヴェニストの論文の半分を説明したに過ぎない。

 このあとにもうひとつ別の問いが続く。それは明示化されてはいないが、思考の範疇と言語の範疇が区別されない活動であるならば、思考はその言語によってなされる以上、その言語特有のものなのか、という思考と言語の必然的、排他的結びつきについての問いかけだと考えられる。

 それに答えるためにギリシャ語とエウェ語が比較される。バンヴェニストはギリシャの思考の特殊性としてêtreの機能を挙げ、この動詞が、名詞的観念となって物として扱うことができたり、現在分詞になりえたり、さらにはさまざまな格の形や前置詞を介して多様な構文を作ることを示し、古代ギリシャで存在の学が展開されたのは、êtreの機能があったからだとする。事実エウェ語であれば、êtreの機能に対応させた場合、5つの動詞が必要となる。さらにこの5つの動詞には共通性もない。

 だが、バンヴェニストは「ギリシア語の言語構造が<ある>の観念を哲学的使命に向かわせる素因をなしていた」(p.81)と言ってはいるが、これは「存在をめぐる哲学的考察はギリシア語の言語構造に本質的である」という意味ではない。事実、エウェ語の場合であれば、「êtreの観念が全く別のやり方で分析されることは間違いない」と述べられているのである。この一文の力点は「全く別の」ではなく、「分析される」にある。言語構造が異なる以上、エウェ語のêtreに相当する一語が同じ概念を投影することはない。しかし、「全く別の方法で」分析されるはずなのである。

 つまり、ある言語構造がある思考に投影されるとしても、その思考はその言語構造に従属しているのではない。言語が違うならば、また違う構造で分析されるということではないだろうか。

[La pensée] devient indépendante, non de la langue, mais des structures linguistiques particulières.
 
思考は、言語からではなく、個々の言語構造から独立するようになる。

 思考は言語構造に従属していない。もし従属していれば、その思考は言語構造を離れては思考しえないものとなる。構造に従属していないからこそ、別の言語がもつその言語独自の別の構造によって分析可能となるのだ。だからバンヴェニストは次のように言っているのではないだろうか。

Il est plus fructueux de concevoir l'esprit comme virtualité que comme cadre, comme dynamisme que comme structure.
 
精神は、枠としてよりも可能態として、構造としてよりも力動性として考える方が実り多い。

 精神には言語構造が投影されている。その意味で精神が枠、構造というのは、言語が枠であり、構造であると言っても差し支えない。また同時に、思考はその枠によって運ばれると考えられ、言語は思考の道具として、つまりは構造的と考えられる。これは静態的な死蔵としての言語観であろう。これに対してバンヴェニストは、言語は可能態であり、力動性を持っている、と考えるのだ。

 最後の一段落の書き方は実に曖昧である。しかしつきつめて言えば、こうした考え方があるからこそ、思考の翻訳は可能となる。構造ではなく力動性であるという考えは、バンヴェニストの反ー構造主義者としての思想を最もよく示している。思考が言語構造に本質的に従属しないと考えることによって、この論文をバンヴェニストの思考の一貫性を示す適切な例証として読むことが可能になるのではないだろうか。