Dinosaur Jr., GREEN MIND (1991)

green_mind.jpg 10年ぶりにだされたDinosaur Jrの再結成アルバム Beyondを聴いた直後に、Green Mindを聴き直した。Matthew SweetのGirlfriendと並んで、90年代のアメリカのロックの冒頭を飾る傑作である。新作と聴き比べて歴然としているのは、やはり若いアルバムだということだ。この疾走感はもう二度と再現できないのではないか。Green Mindは、確かにそれ以前のDinosaurのアルバムより数段ポップで聞きやすい。しかしそれは、決してメジャー向きの音楽に転向したわけではなく、バンドのメンバーの緊張が結果としてバランスのとれた曲を生んだのだと思いたい。

 特にギターの轟音と、音数の多いドラムとの絡みはこのアルバムの魅力のひとつである。たとえば3曲目の「Blowing it」から4曲目「I live for that look」へのスリリングな流れは、ドラムからギターへと音の主役が移っていくことによっている。「Blowing it」のノリを決めているのは、まさにドラム。フックの効いた間合いの取り方がこの曲のスピード感を高めている。そして曲の最後になってからの轟音のギターが、4曲目への橋渡しをしてくれる。こうしてアルバムの構成に注意してみると、Mascisの爆音ギターは、ノイズの垂れ流しどころか、ここぞという微妙なタイミングで流れてくることがよくわかる。もちろんギターとドラムのかけあいは一つの美しいユニゾンも作ってもいる。たとえば8曲目(というか、 LPのB面2曲目)の「Water」では、ギターとドラムが同じ調子でリズムを刻む。2分26秒あたりの「ダ、ダ、ダ、ダ、ダ」というドラムにあわせサビが始まる瞬間のギターのメロディ、そしてその美しいメロディにかさなる「カモン、ベイビー」という歌詞の高揚感は、このアルバムの白眉と言ってもよい。

 そして耳をすませばすぐにわかることだが、Mascisのギターの美しさは、やはりニール・ヤングゆずりである。「Thumb」のようなスローテンポの曲では、まさに泣きのギターが堪能できる。ただそれは、ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトンとは異なる泣きのギター、優秀なギターリストの音ではなく、衝動のギターリストの音なのだ。

 Dinosaur Jrの魅力はもちろんMascisのヴォーカルにある。特に彼の声が裏返った時の、情けない歌い方は、このバンドの人生に対するだめさ加減をこれでもかと伝えてくれる。そう、このだめさ加減がまた若いのだ。人生の目的をさだめてしまった大人には決してこのロックの素晴らしさはわからないだろう。そしてこんな音楽にのぼせてしまった人間は、いつまでたっても人生に責任をとるほどの成熟さには至ることができないだろう。だらしなくて、いいかげんで、無能な人間が、汚いソファーにぐったり寝そべって、ヘッドホンで大音量で聞く音楽。それがDinosaurだ。

 200ページにも満たない小書である。しかし筆者は、この本を書き始める前に、いったいどれだけの莫大な時間をかけたであろう。イギリスからピエモンテへ、おびただしい資料にあたりながら、丁寧にヴァルド派の歴史を追った労作である。イギリス名誉革命期のプロテスタントを専門とする著者が、ヴァルド派の人々の書簡に目を留め、やがて「プロテスタント同盟」の信仰篤き人々とともにヴァルド派の谷へ旅行をし、そこでイギリスで学んだシプリアン・アッピアの手による教区簿冊を発見するくだりは、読者の感動をさそう。この本の醍醐味は、我々の記憶から消えて、文書の中に乾燥した形でしか残っていなかった人間の事実を、丹念に文書から読み明かし、当時のヨーロッパをかけめぐった人間の生の歴史を、そして、ヴァルド派を基軸とした当時のヨーロッパの広汎なネットワークを、まざまざと復元してくれる点にある。人間の具体的な生を描き、かつ歴史の大きなうねりも丁寧にたどっていく、優れた歴史書である。

 ヴァルド派とは、中世ヨーロッパにおいて、聖書主義を厳格に守り、キリスト教会から異端とされた宗派である。しかしその歴史は、宗教改革から弾圧の時期を乗り越え、現代まで命脈を保っている(工藤進『ガスコーニュ語への旅』によれば、フランス北方のカトリック国家に対する南仏の不満が「異端」という形をとったとされている。ちなみにカタリ派ともそうした不満から生まれた「異端」であるが、教義上の共通点は少ない。またこの本の中で、百年戦争がフランス南西部を占めているイギリス勢力と北のフランスとのフランス国内での争いにほかならないとする、くだりがある。これが南仏軍の敗北であるとする見解に、『ヴァルド〜」と同じく、汎ヨーロッパ的視野にたつ著者の鋭さが認められる。)

 ヴァルド派の人々が住む谷は、サヴォイア公国ピエモンテ地方、すなわち、フランスとサヴォイアの国境地帯にまたがっている。この地形がヴァルド派をヨーロッパの歴史の変動の中に絶えず巻き込むことになる。それは領地だけの問題ではなく、プロテスタントの国、オランダ、そしてイギリスと深いつながりを持つことになる。そこには「ローマ教会はすでに腐敗し、ヴァルド派のみが真の教会を伝え、プロテスタントはその後継者である」という(p.37)根強い信念があった。

 著者が足跡を追う中心的な人物シプリアン・アッピアは、1680年か82年に「谷」で生まれている。その後捕虜としてジュネーヴに向かう。その後「谷」に戻ったか、そのままローザンヌの神学校に送られたかは定かではない。その後「谷」は、イングランドやオランダの援助を受けながら復興していくことになる。このあたりのつながりを考えるにあたり、やがてはもう啓蒙の時代はすぐそこまで来ているヨーロッパにおいて、たとえ政治的なもくろみはあったにせよ、宗教によってつながるネットワークがあったことは、まさに著者が言うように、プロテスタントの国際主義があったわけであり、宗教的イデオロギーの冷たい戦争がまだ続いていたことがわかる(pp.95-96)。

 こうした「プロテスタントの環」の中で、シプリアンは弟ポールと主にイングランドへ送られ、聖職者として勉学に励む。1707年「谷」にもどったシプリアンとポールは、聖職者総会で問題を起こすことになる。それは二人がイングランド国教会の普及に燃えていたことである。しかしやがて二人はヴァルド派の中心人物としてコミュニティに溶け込み、聖職者として活発に動き回る。そしてイングランドのとのつながりも決して絶やさないし、また当時のイングランドではヴァルド派に対する関心は十分に保たれていた。シプリアンは1744年に、ポールは1754年に死去する。そして時代はいよいよ啓蒙の時代へと入り、宗教によるつながりの意識は失われていく。

 こうした失われた記憶が復活してくるのは、19世紀にはいり、イギリスで出版されるヴァルド派に関する書物による。たとえ現実には異なっていても書物で描かれるヴァルド派はやはり、真のキリスト者なのである。イギリス福音主義の高まりが、ヴァルド派への関心の再興を促すのである(p.158)。その後イタリアにおける国民意識の高まりが、ヴァルド派の同化を促すが、ヴァルド派の特異さは現在まで受け継がれている。

 まさに中世から現在にわたるヨーロッパ史として読める作品である。この見取り図がヴァルド派という「異端」とみなされる宗派の資料の読解から語られることにこの本の深い意義がある。

Carole King, Writer (1970)

writer.jpg ポップスからロックへの移行をこの「Writer」ほど象徴的に表しているアルバムもないだろう。「Writer」の登場は、キャロル・キングという天才ライターのロックミュージシャンへの変化を意味するだけでなく、ロックというジャンルそのものの確立を意味している。もちろん、ことアメリカにかぎっても、すでにロックは存在していた。だが、それまでのロックはポップスのアンチテーゼという、「反」としての存在だった。キャロル・キングのロックは、時代遅れになりつつあったポップスというジャンルを吸収した上で成り立つロックである。

 ではこのアルバムの何がロックと呼ばせるのか?まず明らかなのは「Writer」というタイトルが示しているSSW(シンガーソングライター)という、個人を出発点とした音楽制作スタイルである。ポップスが担っていた、作曲家と歌い手という、職人の分業体制によって担われるビジネスではなく、個人の発露として音楽が生まれることがロックである。

 そして個人の発露というのは、キャロル・キングの場合、その唱法にある。いや、彼女は、意識してこのように歌っているのではないだろう。その歌は、一本調子で、はりはあっても、ふくよかな陰影はない。あくまでもストレートで、ただ声がのびるにまかせるような歌い方である。言ってしまえば職業歌手としては失格なのだ。しかしこの不器用なストレートさは、ピュアであることの裏返しだ。キャロル・キングの最高傑作といってもよい「The Carnegie Hall Concert - June 18 1971」で、この瑞々しい歌声は十分に満喫できる。

 そして楽曲の構成であろう。アレンジの妙はいかされているが、何よりも心をひくのは、ピアノやギターの生の感触だろう。その意味でたとえば「Rasberry Jam」のような曲は、どんなにすばらしいアレンジを聞かせてくれても、このアルバムの中ではすでに「時代遅れ」である。そして時代の幕開けを飾るのはアルバムの最後の曲「Up on the roof」だ。「The Carnegie Hall 〜」で、ジェームス・テイラーという、もう一人のSSWとの美しいコラボレーションが聞けるこの曲こそ、70年代ロックを運命づける一曲であり、そしてこの時点でロックは、前衛や実験であることをやめた。

 この報告は、2005年にパリ第4大学で行なわれたシンポジウム、「1902-1914, la première guerre des humanités modernes」で行なわれた。Chirstophe Charleは特に19世紀後半における知識人研究などで知られている研究者である(『「知識人」の誕生1880-1900』(藤原書店)参照のこと)。 Histoire de la langue françaiseの著者であるFerdinand Brunotの、論争家、活動家としての面に焦点をあてて、第三共和制において、言語学者がどのような社会的立場を担ったのかを解明する報告である。事実、Charleが挙げるようにBrunotは時代と正面から向き合った言語学者である。大学改革、ドレフュスの擁護、中等教育改革、綴り字改革、文法教育の現代化、女子への教育の擁護、外国におけるフランス語の普及、などその活動には枚挙にいとまがない。その中でCharlesは次の3点を挙げて、それぞれにおけるBrunotの立場を明らかにする。

1899年中等教育に関する調査
1905年の綴り字論争
現代における古典教育とフランス語

1)1899年中等教育に関する調査: Brunotの改革の骨子は、反教権主義に基づいたものであり、宗教から公空間へ教育を導くことに重要性を置く。そのためにBrunotはカトリックの学校に対抗しうるだけの、質の高い教師の養成を目指し、また初等教育の自習監督の採用を視野にいれるための、agrégationの改革を要請する。
 次にBrunotが批判するのは、古典教育のカリキュラムである。ただ廃止するのではなく、ギリシア語、ラテン語は一握りのエリートにとっては重要でああるが、一般の生徒にとっては廃止してもよい科目であるとする。つまり中等教育とは、ラテン語知識階級である聖職者によって独占されるものではない。それは同時にフランス語を教育の中心に置くことを意味する。ここにはひとつの新旧の文化闘争があるわけである。そしてフランス語を深く知るためのギリシア語、ラテン語という位置づけ自体を変えるために、Brunotはフランス語の歴史を教えるという可能性を示唆する。そしてその延長上には古典の作家ではなく、ヨーロッパ文学の作家たちのテキストを教えるということも浮上してくる。 いずれにせよ、宗教と古典教育という結び付きに対して、現代的な観点から、一部古典教育を残しながらも、フランス語の教育を促進し、公教育を宗教学校に対抗させることが主眼となっている。

2)つづり字の現代化: 1903年に文部省によりつづり字改革の委員会が設置された。Brunotはそのメンバーとなる。ちなみにこの委員会は、アカデミー・フランセーズの会員が一人だけであった。この委員会が1904年に出した改革案には、アカデミー、雑誌、大学界からの非難を受けることになる。Brunotは、彼らが打ち出す伝統擁護の姿勢に対して、大作家のものと言われる作品でも、彼らが書いていた当時と、現在ではすでに綴り字に顕著な違いがあることを指摘する。1906 年に最終報告書がBrunotによって書かれるが、その骨子は大多数の人々が、苦労なく文字がかけるよう配慮するというものであった。つまり、つづり字の規則化、簡素化である。Charleは、報告書の次の部分を引用する。
 「我々が忘れているのは、かなり多くの国民にとって、フランス語はまだ母語ではなく、獲得言語であるということである。子供たちは学校で、おそらくは口頭練習や、読書をしながらフランス語を学んでいる。また、小学校で学業をやめてしまう子供たちは、かなりの言葉を知らないままだ、ということも我々は忘れている。こうした子供が大人になって、新聞を読んだとしても、聞いたこともない言葉は、ほとんど外国語に等しい。そしてそうしたことばを書いてある通りに読むために、その読み方はきわめて奇妙なものになってしまっている。」
 Brunotにとって、こうした単純なつづり字は、外国人や植民地の人間たちが、フランス語を学ぶときの障害になっているという認識にたった上での要請でもある。また、反対派の根拠である「伝統の擁護」については、Brunotはつづり字の規則は、実は19世紀において、学校教育の中で教えられて定着したにすぎず、反対派がやはり根拠とする「大作家」もつづり字上のミスをしていることを指摘する。すべての人間が、言語および文字を maitriserできること、これがBrunotにとっての共和国の命題である。言語的な階層差、文化障壁をなくすことが、共和国の単一性を保つのである。

3)現代における古典教育とフランス語:教育におけるラテン語の位置づけについては、2つの愛国主義が対立している。一方は伝統の擁護と、古典文化の遵守のために、ラテン語教育の退潮が、フランス文化の危機をもたらすという立場。他方は、フランス語の単一性を共和国の単一性実現の一つの必要条件と考え、フランス精神の普及を考える立場である。この普及はもちろん、国内にとどまらず、世界中へのフランス語の普及へと拡大していく。また普及ということ自体にフランス精神の栄光があるわけである。 Charleが引用する、フランス民族の精神が、経済的、政治的には影響力を失った植民地国で、フランス語によってふたたび領土を回復しつつあるというくだりは、Brunotの姿勢を如実にあらわす一節である。Brunotはこの後者の意味での愛国主義者として、旧守派に対して精力的に論陣を張る。 Brunotにとって、前者がいうフランスの危機とは、これまで一部の知識階級、ソルボンヌによって独占されてきた、知、および、その知によって成り立つ職業階層という旧習の危機に過ぎない。最後にCharleは、Brunotが中心となった団体「Les amis du français et de la culture moderne」の1911年の宣言を引用する。ここでは、ラテン語の優位性、ラテン語を通したフランス語の理解という主張をきっぱりと断罪する。こうした宣言文を読むといかにBrunotが戦闘的な言語学者であったのか理解できる。Charleのこの報告は、まさにこうした時代の論争の中心人物としての Brunot像をよみがえらせてくれる。

くるり, THE WORLD iS Mine (2002)

the_world_is_mine.jpg ノイズに満ちた音で癒される。このアルバムで構築される音の渦は、ノイズと呼んでいいだろう。そのノイズの渦に身を浸しながら、癒されていく体験がこのアルバムにはある。それはどんな感覚だろうか。2曲目は「静かの海」。深海で砂が何らかの拍子にふと舞い上がるときのかすかな音は、きっとこのアルバムで聞かれるような音に違いない。それは音楽とはいえない、たんなる音のかたまり。しかしその音こそが癒しをもたらしてくれる。そんな雑音がちりばめられたこの「THE WORLD iS MiNE」は、くるりの最高傑作である。ここまで音響、音の破片でしかないものが、ひとつの音楽に結晶するなど、いったいどんな力量があればできることなのだろう。

 しかしこのアルバムが恐ろしいのは、極端に音数が少なくなる瞬間があることだ。「アマデウス」は、たとえいくつもの音が聞こえるとしても、印象に残るのは単調なピアノの音色とヴォーカルだけだ。そしてもう一つの特徴は、メロディとリズムの反復だ。「Buttersand/Pianorgan」や「Army」は、うねるノイズだけで構成されている楽曲だといえよう。

 しかしそんなアルバムの印象も「水中モーター」あたりから、ロック色が強まっていく。「水中モーター」のヴォーカルはスチャダラパー的なアプローチといってもよいが、そうした雑食性もまたくるりの楽しさである。「男の子と女の子」は、ハナレグミもカバーしているが、あきれるほどめめしい曲だ。そんなロックのストレートさは、「Thank You My Girl」で最高潮になる。そして再びアルバムは、「砂の星」、「Pearl River」を辿って、深海へ戻っていく。たゆたう水のうねりがゆったりとはてしなく円を描く。

 このアルバムが最高傑作と言えるのは、どう頭をひねってもシングルカットできない曲ばかりならんでいるからだ。どの曲もこの音の流れから引きはがすことができない。それほどの緊張感をもって作り上げられたアルバムである。

either_or.jpg エリオット・スミスの曲がとても生々しく聞こえるのは、それは「音楽が生まれる瞬間」に立ち会っている印象をとても強く受けるからではないだろうか?最小限の楽器。あらかじめ決まめられたリズムや、コード進行もないかのように、最小限のささやきと、ギターを刻む音で、音楽が始まる。エリオット・スミスが最初に浮かべたメロディそのまま、音はおさめられ、聞く者にとどけられる。だからエリオット・スミスの音楽を聞くと、本人の存在をとても身近に感じられる。エリオット・スミスの曲は、加工という作業からもっとも遠い。だから皮膚がすり切れるような痛々しいつぶやきまで僕たちは感じてしまう。

 およそ他人に聞かせることなど念頭になかったのだろう。おそらくはBasement Tapesにおさめられたまま、誰にも聞かれずに忘れ去られていくはずだったろう。しかし本人の意図とは別に、「グッド・ウィル・ハンティング」のサントラ曲として、突然、広く知られることになった。その時の違和感は確かに、彼の素直な反応だったのではないだろうか。自分の独り言にも似たメロディが、人にも聞かれてしまい、気に入られてしまうという戸惑い。そんな戸惑いによってその後の生き方そのものを縛られてしまうミュージシャンは多い。ピンクフロイドのシド・バレットはロック(産業)の歴史の中で、その最初のミュージシャンだろう。そして同時代のカート・コバーンを思わずにはいられない。ただしエリオット・スミスとカート・コバーンはとても対照的なミュージシャンでもある。あくまでも内に沈潜していくエリオットに対して、カートはやはり攻撃的だ。たとえその攻撃が結局は自分に向かってしまうとしても。

 タイトルもない、断片だけの曲。エリオット・スミスにとってはそれだけで十分だったに違いない。しかしエリオット・スミスは、自閉的な、自己満足の音楽ではない。彼の歌の中には、時に他人との深い関わりを感じさせる歌がある。そのときの彼のメロディは本当に優しい。

I'm in love with the world through the eyes of a girl who's still around the morning after. (Say Yes)

 恋する彼女の目を通して、世界を見る。そんな風に他人と重なるような一瞬がある。たとえ淡く崩れてしまう一瞬でも、それを静止画のように切り取ることのできるエリオット・スミスは素晴らしい詩人だ。こうしたまなざしをもったエリオット・スミスは、これからもロックを聞く者たちに一番に愛され続けていくだろう。ロックの優しさをここまで純粋に感じされてくれるミュージシャンは希有なのだから。

 ことばは、当然のことながら、生きて話している人間の生の具体性と切り離すことはできない。それは言語を思想として考える場合でも変わらない。普遍・抽象・理論化をいたずらに急ぐのではなく、その人の生きている現実の中から、思想が紡がれてくる過程を丹念に追ってみなくてはならない。ライプニッツについて考えるときも、彼の生きたその環境、時代の流れに、彼の思想を位置づけることは必須である。歴史的に言えば「三十年戦争の不幸の結果地に落ちていたドイツ語」(バッジオーニ『ヨーロッパの言語と国民』p.236)を、どのように復興するか、それはライプニッツの時代の課題であったろう。実際ライプニッツ自身『私見』において、「我々の言語は略奪され、フランス語かぶれが横行した」と述べている。まさに「私見」は、ドイツの国家、言語への誇りを回復するための試みなのである(『私見』pp.53-55)。また言語思想の流れからは、母なる言語としてのヘブライ語という聖書的世界観、すなわち、世界を説明し尽くす普遍的言語ではなく、感覚論(sensualisme)の広まりとともに、他者を理解する、つまり「人々の世界観や、内面の過程」の表現としての言語へと変化したことを十分考慮する必要がある(Droixhe, De l'origine du langage aux langues du monde, バーリン『北方の博士 ハーマン』p.112)。普遍から、歴史としての言語というこの転換期は、ラテン語の退潮と、普遍言語の構想から、フランス語のヘゲモニーの確立へと移っていく時期とも重なる。
 ライプニッツはまさにこうした転換の中で、結合術、普遍言語、国語の賞揚という様々な言語(および記号)をめぐる考察を行なった。言語思想はライプニッツの思想全体の根幹とも言える。普遍言語と言語の自然性については『人間知性新論』第三部「言葉について」の中にその主張がおさめられており、カッシーラー(『象徴形式の哲学』)、ロッシ(『普遍の鍵』)、エーコ(『完全言語の探求』)、ジュネット(『ミモロジック』第4章「言語創始者ヘルモゲネス」)など枚挙にいとまがない。

 以上のような背景をふまえてここでは1697年にドイツ語で書かれた『ドイツ語の鍛錬と改良に関する私見』(Unvorgreifliche Gedanken, betreffend die Ausübung und Verbesserung der deutchen Sprache)を見ていきたい。

 最初に注目すべきは言語の起源についての考察である。『私見』では、ドイツ語が「主幹言語」(Haupt-Sprache)であるという、起源の言語としてのドイツという見方が踏襲されている。したがって太古のドイツ語は、ラテン語の起源であり、またケルト人、スキタイ人と共同体を作っていたとされる(『私見』p.65)。この言語系統論は、十七世紀以降に広まる「スキタイ人起源論」である(cf.原聖『<民族起源>の精神史』p.103.)。ライプニッツのゲルマン、ケルト、スキタイの関係についての論考は、『私見』、『新論』、『小論』と立場を変えていく。(Cf.L'harmonie des langues, p.195.)。『新論』でははっきりと、「ひとつの根源的で原初的な言語がある」と述べられている。これはアダムの言語のような起源を認めてはいるが、その言語は「歴史的」に共通語根を遡ることによって見つけることができるという歴史性のもとづいた起源の言語の探求なのである。この転換に、ライプニッツの言語思想を位置づけることができよう(現在のところ、その起源をドイツ語とする主張については調べが追いついていないが、『新論』p.23.にはそのような訳注がつけられている)。

 起源ということに関しては、語源の探求におけるライプニッツの立場は、「クラテュロス」的である。語源を探求する過程において、単語が「何人かの人がいうほどに恣意的または偶然的なものではない」と指摘する(『私見』p.70.)。そして、『私見』では、およそ偶然というものを否定している。ここではヤコブ・ベーメ流に解釈された自然主義的言語の立場をはっきりととっている。しかし、こうした見方にもやがて時の流れという歴史性が導入される。それはジュネットがひく『小論』の一節、「しかし大抵の場合、時間の経過と数多くの派生の結果、原初の語義はかわってしまったか、あるいは不明瞭になってしまった」(ジュネット、邦訳p.93.)。である。

 ドイツ語の改良のために、全体を通してライプニッツが気を配るのは「単語」である。単語とは、「知性の鏡」(p.42.)であり、「言語の基礎および基盤であり、その単語という土壌の上でいわば表現という果実が成長する」という(p.57.)。ライプニッツには観念を適確にあらわす記号の術への強い関心があるのだろうか。語彙の拡充、特に抽象語彙の拡充をライプニッツは強く説くとともに、辞書の必要性とそのための単語の調査に取り組むこと、他の単語と調和した新語の形成を強く訴える。それらはすべて「的確に」を目標としたものであり、それが民衆の教育向上につながると考えていたライプニッツはすでに十八世紀の初頭にして、啓蒙主義的な視野を持っていたと言えよう。

love_in_stereo.jpg ソウルというジャンルはいったいどうやって分類されるのだろうか?ひとくちにソウルといってもその幅はきわめてひろい。たとえばリズムの躍動はソウルの本質だろうか。それはジェームス・ブラウンのようなきわめて個性的なミュージシャンに負うところが大きいのかも知れない。ソウルのもつ高揚感、グル−ブ感ならば、まずはマーヴィン・ゲイを思い浮かべるだろう。そして黒人の魂の訴えならば、単なるメッセージソングに堕することはなく、しかし政治的なムーブメントとして大きな流れを作っていくほどの力をもったアルバムを生んだカーティス・メーフィールドだろうか。ここまで黒人の名前ばかりを挙げたが、ソウルは黒人の専有物ではない。60年のロック草創期からすでにスティーブ・ウィンウッドのようなきわめてブラックな、そして質の高いソウルフルなミュージシャンがいる。その歌唱の素晴らしさは、「ソウル=黒人文化」というきわめて安易な図式を払拭してくれる。

 少し振り返っただけでも、ソウルの歴史は、さまざまな豊かな財産を持っているわけだが、97年にファーストアルバムを出した、このRahsaan Pattersonの音楽が、ソウルと呼べるとしたら、それはどんな意味だろうか?

 まずはっきりしているのは、90年代以降のソウルの流れは、かつての黒人という人種的枠組みにもとづく、プロテストとしてのソウルとは根底から異なっているということである。また汗の匂いといった肉体性も、パッションを歌い上げるような魂の叫びもない。しかしそれでもなぜ彼の音楽がソウルとしてここまで人の心をひきつけるのか?

 Pattersonのソウルの魅力は、緻密に練り上げられた、楽器それぞれの粒だった音の構成にあるのではないだろうか?たとえばソウルを聞きながら「快適」と言えるのは、そのストリングスのアレンジのバランスの良さにあるように思う。それは、ソウルが本来持っていた、情念とも言えるスピリチュアルな部分を抜き取ってしまい、メロディの妙だけで聞かせるイージーリスニングにも似たお手軽なソウルになってしまったという危険も意味する。

 しかしPattersonの音楽が、そうした批判に耐えうるとしたら、それはまさに計算されつくした、楽曲のよさによる。それぞれの音が個性を持ちながら、うまくアレンジされることで、曲としての一体感を醸し出していく。音と音の間の取り方が、いわゆるグルーブを生み出していく。そこがかろうじてソウルなのだと言えよう。つまり徹底的に知性的な音作りをしているのである。天性の才能や、人間の激しい生き様を聞くのではなく、最高のスタジオ環境で、過剰になる部分は極力抑えながら、音を重ね合わせていくその妙を堪能するのだ。そうした音作りは、彼の男性としては、ずいぶん細くて、高音にいけばいくほど、金属質になっていく声質にとてもあっている。この中性的な声は、音のアレンジの中でほとんど楽器の一部として溶け込んでしまっている。いってみれば人工的なソウル。しかし音楽の楽しさは、なにも生身の人間らしさだけにかかっているわけではない。スタジオワークによってここまで完璧な音作りをしてくれれば、それは、ひとつのエンターテイメントとして、聞くに堪えると言えよう。

 なお、Rahsaan Pattersonはこれまで3枚のアルバムを出している。デビューはRahsaan Patterson、2ndはAfter Hours。どのアルバムも素晴らしいクオリティである。