Booker T, Evergreen (1974)

evergreen.jpg Booker T.のファーストソロアルバムはプリシラとの3枚目の共作の翌年に出されているが、そうは思えないほど、アルバムの色調が違う。このソロには軽快さがあふれている。もう少しで、AORと言ってもおかしくない曲が多いが、ファッションな音楽ではまったくない。それはここで聞かれる音楽ジャンルの豊かさのせいだろう。ゴスペル、ソウル、ジャズ、さらにはフュージョンの雰囲気までも・・・だがそのどれもが強く自分を主張したりはしない。あくまでもひかえめな演奏が、アルバムを単純な色で染めあげることを防いでいる。

 たとえばA面3曲目のTennessee Voodooはタイトルからも、ヘヴィなスワンプロックを期待するところだが、パーカッションも軽妙で、情念といったものを感じない、それがプリシラとの共作と最も異なる点だろう。Bookerのハイトーンヴォイスは、あくまでも颯爽と、そしてやさしく歌を歌う。この軽やかさがアルバム全体の演奏にも言える。たとえばA面4曲目のSong for Caseyのベースラインなどに象徴的に現れているのではないだろうか。またB面1曲目のEvergreenは、ハモンド・オルガンの音がすべるようにながれてゆくのも、心地よい。 

 インストが2曲収められているが、このアルバムの素晴らしさは、結局Bookerの声の質感にあると思う。白人特有の、とか、黒人特有の、といったよく使われる安易なクラス分けには一切くみしない、普遍的な美しさをたずさえた声だ。もちろんJamaica songはピースフルな名曲だが、2曲目のMama Stewartの生ギターとヴォーカルのハーモニーもよい。A面最後のSong for Caseyは、たとえばSteve EatonあたりのAORを感じさせる軽快な一曲だ。B面3曲目のWhy meはゴスペル・ソング。とはいえ、Bookerの歌い方はあくまでもソフトで、たゆたうようだ。憂いといってもいいほど、繊細な歌い方。そしてサビのところのオルガンの音。ゴスペルなんだけれど、そうしたジャンルをこえて歌そのものへの愛情が感じられる。 

 そう、歌を歌うことへの愛情、その愛情がこのアルバムからは伝わってくる。Jamaica Songでは子どもたちが歌い、手拍子をあわせ、Bookerのまわりに集まってくる。歌がもたらす平和と愛。それはStevie Wonderの『心の詩』などにも感じる、作為のない無限の愛だ。

高野寛、確かな光 (2004)

tashikanahikari.jpg.jpg 高野寛は、どのように売り出すか、そのキャッチコピーだけがきわめて表層的に記憶に残っていた。自分とほぼ同じ世代、つまりはYMOフォロワー、高橋幸宏のプッシュといったことや、日本のトッド・ラングレンといった言い回し・・・

 でもそれは高野寛がだれに似ているかを言っているだけで、高野寛がいったいどういうミュージシャンであるのか語っていることにはまったくなっていなかった。

 ふとしたきっかけで、2004年に出されたこのアルバムを聞いた。ここには高野寛というアーティストが日常を基盤としながらも、決して内省的にはならず、日常に寄り添いながらも、高い意志をもって音楽を作っていこうとするゆるぎない自信が感じられる。一曲目のタイトル「確かな光」は、そんな高野寛の創作意欲の高さを象徴することばじゃないかなと思う。確かな光につつまれて今日も外へでてゆくいさぎよさ。そんな吹っ切れた雰囲気がこのアルバムにあふれているように思う。五曲目「hibiki」の最初の「ラララ」と歌い出す瞬間、そのひかえめな決意を感じる。

 もちろんポップセンスあふれた曲、たとえば三曲目「Rip of Green」は颯爽としたせつなさとひとなつかしさにあふれた佳曲だ。四曲目「歓びの歌」はアコースティックギターの音色が美しい、朝のやさしい光と風につつまれた曲。そう、高野の曲にはこの風の感覚がある。

 それ以外にも高野寛というミュージシャンのその少しシャイな人柄を感じられる素敵な曲もある。七曲目「声は言葉にならない」は、「あれじゃなくて、それじゃなくて、そうじゃなくて、そんなんじゃなくて」と、高野の声にマッチした軟弱な歌詞がほほえましい。

ああ 響き合う歌が届いたら
この闇を照らす光になるから(「hibiki」)

 このアルバムは、またアートワークが素敵だ。表紙の影になった高野寛もいいけど、CD内ジャケ(?)の公園の犬の写真がいい。まさに音楽とジャケが響き合っている。それは高野寛という人とまわりの人間の響き合いでもある。その響き合いからつたわる友情や愛情、それがまたこのアルバムを、愛おしいものにしている。

 09年ニューアルバムが出たらしい。いそがずゆっくりレコード屋に行って、購入することにしよう。

George Harrison, All Things Must Pass (1970)

all_things_must_pass.jpg 昔プログレ好きな先輩が、「プログレロック系統図」を得意そうに書いていた。メンバーチェンジなどで、あるメンバーがどこのバンドに移ったか、新加入したメンバーは前はどこのバンドにいたのか、そんな系統をおってゆくとひとつの一大ロックファミリーが出来上がるというわけである。

 ジョージ・ハリスンのレコーディングに参加した仲間、セッションをした仲間などをそうした系統図にしたら、かなり広大が地図ができあがるだろう。だが、プログレロックは仲間内の密度を明らかにするだけであるが、ジョージのそれは、ロックという音楽の可能性の広さをみせてくれるものだ。それはジョージという一人物をこえて、ロックという音楽そのものがもつ可能性をみせてくれる。それはまた、ロックがコミュニティとして動きうるという70年代前半の歴史の証しでもある。

 このアルバムを聞いて、ビートルズの痕跡を聞きとろうとしてもほとんど無駄だということは一聴してわかるだろう。もちろんジョージのソロ曲との類似は認められるとしても、それ以上にここで聞かれるのは、当時の様々な音楽の響きだ。まずは分厚い音作りのフィル・スペクターによるサウンド構築。たしかに大げさかもしれないが、音の厚みはひ弱なジョージの曲にひとつの芯を通すような役割を果たしている。そしてライナーによれば、クラプトン、ビリー・プレストン、ディラン、デラニー&ボニーといった名前がつらなる。ブリティッシュ・ロックも、アメリカの南部音楽も、ジョージを介在してひとつにつながっているのだ。たしかにジョージはそうしたミュージシャンを束ねる「中心」ではない。しかしジョージも一緒になってそれらのミュージシャンとひとつの「星座」を描いているのだ。そのうちの一人でも欠けてしまえば、もはや星座にはならない。そんな布置をつくりえた類いまれな性格の人物がジョージだったのだと思う。(ところでポール・サイモンと二人の弾き語りビデオを見たことがあるけれど、あれは何だったのだろう。)

 しかしこのアルバムの旧A面の曲のながれはどうだろう。ゆったりとした曲調にも、リード・ギターの骨太さが随所に現れて、さあこれからアルバムが始まるという気にさせられる。Let me〜というフレーズが繰り返されるが、「〜させておくれ」という歌詞は本当にジョージのヴォーカルに似合う。そしてMy sweet Lordだけど、この曲もギターの音色にここちよい気分になっていると、とつぜんジャカ、ジャカとドラムがやってきてびっくり。でも、このアルバムのなかで聞くと、代表曲というより、つなぎの一曲という感じがする。なにせ、つぎのWah-Wahはまさに音圧の世界。ここまでさわがしい曲もあまり聞いたことがない。いよいよA面の佳境にさしかかった感じです。そしてIsn't It a Pity。ここで高揚感は一気に頂点へ。終わりの美しさ、儚さが、じんわりと伝わってくるんだけど。この曲もドラムがいいです。終わりが永遠に続くようなサウンドは、「針よ、上がらないでくれ」という気持ちにさせる。

 この後も、素晴らしい曲が続くけれど、もうこのA面だけでこちらの気力がもたなくなりました。