Baggioni, Daniel

 ロマンス語言語学は、19世紀後半になって、パリの大学機関において、科学的に研究されることによって、確立される。その立役者はGaston ParisとPaul Mayerである。パリ・研究組織・学問のヘゲモニーは、19世紀前半にロマンス諸語の研究に打ち込んだRaynouardなどの「先駆者」をいわば抹消する形で成立した。本論文は、「初期ロマニスム」の先駆者と見なされるRaynouardの業績が、その後のロマンス言語学に継承されなかった理由を問うことを通して、19世紀前半と後半のフランスにおける言語学の差異を検証している。
 Baggioniは「フランス初期ロマニスム」の時期を、制度機構の成立と、ケルト語起源説の衰退の観点から、Coquebert de Montbretの方言学とRaynouardのロマンス諸語の歴史を始まりとし、モンペリエ派によるロマンス言語学研究の専門化とParis、Mayerによって代表される組織の成立までとする。
 Baggioniによれば「初期ロマニスム」が生まれたころの言語研究には二つのタイプがあった。1)Volneyや啓蒙思想の流れを汲む言語哲学的思潮。一般文法の著述といった言語研究スタイルは19世紀の半ばになって消えることになるが、Raynouardの著作にはそうした一般文法の用語の使用を認めることができる。2) patoisに対する、郷土の専門家による言語の収集である。この流れには、Nodierのようなpatois擁護者の一般的な考察も含むことができる。「民族学的言語研究と民族的過去の領域の拡大」というロマン主義的思潮である。

 次にBaggioniは、Raynouardの「トゥルバドゥールの言語こそ、ロマンス諸語の祖語である」という主張を取り上げ、その主張が反駁を受けたことはもちろんとして、真の問題は、むしろ言語の変化であると言う。それは、ドイツの言語学派においては、言語の変化は、「言語形式の比較と、唯一の起源をもった、ある体系の歴史的発展」によると考えられる。それに対してフランスの言語学派では、むしろ「歴史的、文学的証拠」によって、言語の変化は考えられている。言語は貸借や民族の混淆によって変化してゆくのである。ドイツ側の歴史比較文法によれば(Schlegel, Diez)、言語それ自体の自律的な動きによって、系統樹のように枝分かれして変化をしていく。この考え方によれば(Schlegel)、フランス語の諸方言とは、もっともゲルマン化が進んだロマニアの土地から派生したと考えられる。それに対して、フランス側では、言語の変化は社会(民族)的、政治的変動によることになる。そしてRaynouard自身もこの政治的ファクターを強調しているのである。
 Baggioniはドイツの言語学が方法論を確立していく一方で、依然、フランスの言語学の思潮が存在し続けた例証として、LavelayeやFaurielを紹介している。Faurielにとって「言語の哲学的研究」とは、言語と思考の関係について考察するものであり、言語の歴史は文明の進歩の歴史を明らかにするものでなくてはならなかった。この時代の言語学とは、言語によって、人間の歴史、文化のあり方を明らかにすることが目的であり、それは何よりも、文学テキストを「文献学」的に綿密に読むことによって可能となったのである。「言語の歴史は、文学の歴史から切り離すことができない」。Faurielは外在的なファクターによって(cf. Raynouard)、ラテン語こそが、ロマンス諸語の起源であることを(cf. Schlegel)を主張する。

 次に検討されるのは、Raynouardの研究対象が「文書」であって、現在話されている「ことば」(parler)ではないという点である。言語の歴史的研究と、郷土の専門家による方言研究には接点がなく、Raynouard自身の古プロヴァンサル語と現在のロマンス諸語との比較の仕事においても、フランス語やオック語の方言はほとんど等閑されている。
 その意味で、Raynouardの仕事とは「文献学」に属するものであり、その評価はトゥルバドゥール文学の再発見にあるとされる。「トゥルバドゥールの言語こそ、そこからその他全てのロマンス諸語が生まれてきた言語」なのである。ただし、Raynouardの業績において、文学テクストは、ひとつのコーパスを形成するものであり、そのコーパスは、言語の歴史を証明するのに用いられるためのものであった。しかしながら、このことは、Raynouardの賛同者に認識されることはなかった。人々がそこに見つけたのは、「古プロヴァンス語で書かれた文学的遺産」だったのである。
 この文学的遺産という意味でのRaynouardの影響は、19世紀末により精密なテキストが編纂されるまで続いたと言える。その一方で、言語学的な観点から、Raynouardの名前がほとんど以後のぼることがなくなってしまった理由の一端は、patoisの位置づけの変化に求められる。Raynouardが活動した19世紀前半においては、patoisは、土地と過去の復興を目指すロマン主義運動の対象として注目を浴びていた。しかし、1870年のフランスの敗北は、その後のナショナリズムの高揚を高めることとなり、patois/dialecteの研究は、イデオロギー的な色彩を帯びざるをえなかったことにある。だが、それ以上に重要なことは、フランスの伝統において、「言語」といったときに対象になるのは、「体系をもった言語」ではなくて、「テクスト」であったことだ。したがって、言語研究は文献学的研究であり、言語を歴史的に研究することは、「人間精神の進歩」といった哲学的研究と同義であったのだ。このことが、言語が学問研究の対象になればなるほど、Raynouardに言及されることがなくなっていった重要な理由であるとBaggioniは指摘する。

 このようにドイツの言語学にとっては、言語の発展は言語自体に内在するものであるのに対して、フランスの言語学にとっては、その発展は外在的要因によるものであり、そのために、Fallotのような例外を除いては、Raynouardを始めとして、Fauriel, Ampère, Mandet, Mary-Lafonなどはしばしば文学や民族の歴史の中で紹介されることとなるのである。だがそれは、後の言語学の流れからみれば、遡行することのできない業績ということになるのだろう。
 Baggioniはこの時期の言語学の思潮を、啓蒙思想の影響とロマン主義の胎動の混淆としてまとめている。すなわち、1)言語、文学、文明を総体的に扱う歴史研究、2)民族の歴史における中世の再評価、3)民衆文芸への着目、4)一般文法の探究である。言語に外在する思考や、人間の歴史、文化、その表象としての文学、あるいは文体などが、言語を研究する意味だったのである。この言語の外在性は、以後(1870年以降)、「国民」の文化的アイデンティティと結びついてゆく。それは、言語研究の舞台において、方言の細分化を考えるモンペリエで活動していた言語学者たちへのParisやMeyerの批判となって具体的に顕在化するのである。