Steiner, George

 ジョージ・スタイナー『悲劇の死』第一章では、「悲劇」の意味が定義される。スタイナーにとってそれはギリシア悲劇であり、その後の時代の作品であっても、あくまでもギリシア的なものである。

 ギリシア的なものは、たとえばユダヤ的世界観とは無縁である。『ヨブ記』で確かにヨブは、神から様々な苦難を強いられる。しかし、その結末においては、神から財産を二倍にして返され、その後も長寿を全うする。エンディングは償いと幸福なのである。スタイナーは「償いがあるところには、正義はあっても悲劇はない」と言う。ここには不条理も理解の不可能性もない。あくまでも正義と理性が貫かれた世界である、というのがスタイナーの認識である。

 マルクスは「必然は理解されない場合にのみ盲目である」と言ったが、悲劇とはまさにその逆で、人間は必然の中にいて、しかも人間はその必然の理由を見ることができない。人間は「暴虐や気まぐれ」にさらされ、トロイアの町は炎上するが、この結末は「終局的」であり、その結末は人間の理解を越えてしまっている。ギリシア悲劇において、人間が知っていることは、ただ「運命の働きを理解することも支配することもできない」という絶対的事実だけである。

 たとえばペロポンネソス戦役は、この悲劇的精神の表れである。なぜならば人間は「憎悪を伴わぬ怒りのままに互いを殺し合おうとして出て行く」からだ。ここで、スタイナーは、この戦争による荒廃は今日でも変わらないと付け加えている。戦争について、スタイナーは、技術が発達すればするほど、人間はその科学的世界の前でかえって弱体化し、その技術によってますます戦争は残酷になってきたと言いたいのであろう。

 スタイナーは、悲劇は人間を支配する「理性や正義の及ばぬ」力だけではなく、「悪魔的エネルギー」をも持っていると言う。ギリシア悲劇の登場人物たち(アイスキュロス『テーバイに向う七将』のエテオクレス、アンティゴネ、オイディプス)は、内心では自らが破滅に進んでいることを知っている。それにも関わらずその破滅に至る行動へと突き進んでいく。それをスタイナーは警句のごとく、ギリシア人にとっては「知識と行動の間には(...)アイロニカルな深淵がある」と述べる。

 ギリシア悲劇において災厄の原因は、人間のあらゆる現実的な手段ー法、精神医学、経済的措置ーを持ってしても払拭することはできない。ましてや償れることなどありえない。失われたものは決して元通りにはならないのである。その意味で、悲劇は「とりかえしのつかないものの」のことなのだ。

 人間の知りうる領域は限られており、その外には広大な「他者性」が無限に広がっている。

 最後にスタイナーはギリシアの悲劇性が具体的に要約された作品として『バッコスの信女』の終わりに言及する。具体的な引用ではなく、そのくだりの説明があるだけであるが、例えば次のようなディオニュソスとカドモスの娘アガウエーのやり取りが、スタイナーの説明箇所に該当するだろう。

アガウエーお慈悲を、ディオニューソス、私どもは非礼をはたらきました。
ディオニューソス分かるのが遅すぎた。肝腎の折に無知だった。
アガウエー今は認めます。しかしあなたも余りに厳しく我々を責められる。
ディオニューソス神にもかかわらず、侮辱を受けたのだから、当然のこと。
アガウエー神々が気性を人間と同じくするのはよくない。
ディオニューソス我が父ゼウスは、はるか昔よりそれを認めている。
アガウエーああ、決定だ。父よ、無情な追放が。
ディオニューソス不可避のことを前にして、何をぐずぐずしているのか。
(...)
コロス神の引き起こす出来事の 姿は多様であり
神々が人間の希望を裏切って 成就されることも多様である。
予期したことは かなえられず
予期せぬことに 神は道を見つけ出す。
この出来事もかくのごとく終わるのである。
『バッカイーバッコスに憑かれた女たちー』
(『ギリシア悲劇全集9 逸見喜一郎訳)

 スタイナーは、「われわれは犯した罪よりもはるかに大きな罪を受けるのである」として、悲劇の不条理さをまとめている。

 しかし、この人間の苦しみは同時に「人間の尊厳を主張できる根拠」になる。私たちは決して、元に戻ることはできない。だがこの試練を通り抜けることで、「人間は崇高になる」とスタイナーは言う。悲劇を経た後の人間精神の尊さによって、私たちの中で「悲しみと喜び」が、「歎きと歓喜」が溶け合うのである。

 スタイナーは、この悲劇の精神は、西洋の歴史において『リア王』や『フェードル』などの作品を貫いてきたと言う。第二章以降で行なわれるのは、この数千年にもおよぶ精神史を演劇作品を通して、その悲劇の死までの道のりを辿ることである。

 ジョージ・スタイナーは本論がおさめられている『言語と沈黙』のはしがきで人間にとっての言語を次のように定義している。

言語的信号コードの決定論的性格から、分節表現不能の諸状態から、より大きな存在の部分に住みついている沈黙から、人間を切り離してくれるもの、それは言語である。(p.11.)

 まずは記号論的世界。取り決めによって意味するものと意味されるものが画定され、自動化作用によって認識される世界にことばは不要である。次に、言語によって分節のされていない混沌としたカオスの世界。そこには歴史も文化も存在しない。そして私たちの人間存在を圧倒的な力で無化するような大きな存在、たとえば神の存在に自己を融合させるような世界。これらの世界からの切り離しを可能としてくれるのが言語である。

 ここにはスタイナーの言語に対する信頼、いやむしろ賭けが表明されている。だがしかし、スタイナーを読むとき、その圧倒的な博識と西洋的知性の奥底に、しばしば沈黙の誘惑、沈黙を救いとする至福が潜んでいること、いくら拒否をしようとも、のっそりとその沈黙が姿を現すことを感じざるをえない。

 本論はカフカのユダヤ性と作品における幻想と現実の混淆の親和性、そしてそのユダヤ性から生じるカフカがかかえたユダヤ的多言語的状況の考察である。

 特にスタイナーがカフカの特質として強調してやまないのが、虚構や幻想の世界を予言として現出させる<トランス・リアリズム>の機能である。そしてそこに予言される現実とは、スタイナーがやはりはしがきで「わたしの生涯を形造ってきた理性的人間的期待、わたしがもっとも直接の関心の対象としている理性的人間的期待」を破壊してしまったナチズムとスターリニズムである。「恐怖国家」、「犠牲者と拷問者のあいだに介在する微妙で淫猥な協力関係」などを挙げながらスタイナーは、カフカを「黙示の重荷を背負って大声でよばわる旧約聖書の予言者たち」になぞらえる。
 つづいて、スタイナーはカフカ自らがそれによって苦しんでいた「書くことの不可能性」について言及し、その不可能性がもたらすであろう「沈黙」を、次の二つの事柄に結びつける。ひとつはアウシュヴィッツ。もうひとつはユダヤ精神である。
 アウシュヴィッツについてはスタイナーは次のように言う。

沈黙の誘惑、ある種の現実感が眼の前にあるときには芸術がつまらない見当ちがいのものになってしまうという信念が、見えてきたのだ。アウシュヴィッツの世界は、理性をはみでているのはもちろん、言いようもないところにある。

 人間が想像を超えた苦しみや暴虐に無力にもさらされた体験をしているのに、人間性の根拠である「言葉で語る」ことが果たして可能なのか、とスタイナーは問いかけているのだ。

 二つめのユダヤ精神については、スタイナーは「東欧ユダヤの共同体にみられる心情の結合」にカフカが憧憬を抱いていたとして、次のカフカのことばを引用する。

ぼくは、ゲットーに住んでいるそうした惨めなユダヤ人たちのもとに駆けつけて、そのひとたちの裳裾のふちに接吻し、一言も言わずにいたい。彼らが黙ったまま、ぼくが傍らにいることを我慢してくれたら、ぼくは完全に幸福だと言えるでしょう。

 こうした心性をスタイナーが「心情の結合」と言っていることに留意したい。言語を用いないときとは、こうした共同体へと自らの存在を包摂させる、他者の中に自己を溶け込ませ、共同体の中に自己存在を融解させてゆくときである。この共同体への思慕は、人間がことばを持たなかった時代、他者と理解をはかるのにことばにする苦しみなどなかった時代、すなわち、人間が幸福の状態にあった始源への、決して回帰することはできず、それゆえに一層強く私たちに降りかかる誘惑と考えてよいのではないか。

 最後に、スタイナーはカフカの置かれていた言語状況を述べる。まずはプラハにいてドイツ語をしゃべるユダヤ人というマイノリティの状況。次に「ヘブライ語を手放して、イディッシュ語を通過してヨーロッパ各地の国語を使用するにいたった」ヨーロッパのユダヤ人という歴史的状況。最後にそうした言語状況におかれた人間が創造することになる文学言語としてのドイツ語。

 スタイナーはこうしたユダヤ性という歴史と、20世紀の予言という過去と未来の交錯する場所に特異な存在としてカフカを位置づけるのである。

 さて、カフカをめぐるスタイナーの両義性―言語と沈黙―を考えるとき、無視できない問題がある。それはスタイナーは何を文学(言語)と考えているかという問題である。この観点からスタイナーを激しく非難しているのが、同じ1929年生まれの批評家ローレンス・ランガーである。ランガーはその著『ホロコーストの文学』で次のスタイナーのことばをひく。

アウシュヴィッツの世界は、理性の外側にあるように言葉の外側に横たわっている(前掲の「アウシュヴィッツの世界は、理性をはみでているのはもちろん、言いようもないところにある」と同文)

 なぜアウシュヴィッツの世界はことばにしえないのか。それはロゴスの保証であることばが表現をつくせないほど、非理性的、非人間的な出来事であったからなのか? そうではない。言語にできない=沈黙に陥ってしまうのではない。そうではなく芸術というときにスタイナーが無反省に措定している文学言語そのものの規定が問題なのである。
 まずランガーの根本的な言語は次のようである。

ホロコースト経験の「形式と意味を言語的にわからせる」ということは芸術家の言語の用法を問う挑戦であって、言語そのものを問うものではない。

 言語そのものが無力化しているのではない。そうではなくホロコースト経験を表象しうるだけの言語を芸術家たちが未だ持ち合わせていない、その無力感との葛藤が芸術家たちに課せられているのである。だから沈黙とは言語そのものの表象不可能性にあるのではなく、芸術家たちの無力さに求めなければならないのだ。たとえばそのことがランガーの次の非難口調の言い回しにはっきりと見て取れる。

時間と視点の不充分さ、生存者のなかの野心的な作家の若さと文学的経験不足こそ、生き残ったことの傷痕がはぐくむ口の重さとともに、残虐の芸術の漸進的成長を困難にしている真の原因なのである。

 このランガーの言葉は犠牲者へむけられたことばとしてはきわめて手厳しい。だが表現者へとむけられたことばとしてならば、そこに一縷の希望が、つまり「新しい現実の知覚―そして理解―への基礎」が、現実を再構成するほどの芸術の想像的喚起力が見えては来ないだろうか。ここからランガーはスタイナーが古典文学や十九世紀文学を文学の概念とすることで、文学がホロコーストを表象不能としていることを批判するのである。

彼(=スタイナー)が言っていることは、類推的にいえば、心臓切開手術が前世紀の時代遅れの器具を使ってなされること(限られた目的のためにはまだ効果的だが)を期待することはできないということにすぎないのではないだろうか? たしかに十九世紀文学の慣習や修辞法は、一生存者であるダヴィド・ルーセが見事に「強制収容所的世界」と名づけた一現実の肉体的・倫理的・あるいは心理的混沌を描出し喚起するには不充分である。

 ここで文学とは常に芸術作品なのかと問わざるをえない。わたしたちの時代が、その時代を表象する言語を必要とし、それは新たに文学=芸術によってもたらされるものだとするならば、芸術はこの世界の認識と強いつながりをもつ。「現実を明確にし、現実を浮き彫りにするような」言語表現を求め、その表現に出会ったときに、私たちはこの世界の真実を能動的に探求するようになり、やがては認識から行動へと、世界と私のあり方を変容させていく。その意味で芸術作品はアクチュアルなのではなく、アクチュアルなものこそ(私たちを同時代性に目覚めさせるもの)芸術であると呼びうるのである。

 このとき十九世紀的作品は決して死ぬわけではない。それは慣習や修辞法の辞書として倉庫に保存はされる。しかしそれはあくまでも文献学的対象=分析(=手術対象)の対象であって、芸術としての機能は喪失している。保存の対象として文化の水準を示すものではあるだろう。しかしそれは古典的な水準であって、決して芸術としての文学の水準を示すものではない。こうして文学は歴史の中で芸術としての役割を終えて、文献学的な対象へと変質していくのである。

 ランガーの考えを延長させるならば次のように言えるのではないか。スタイナーの中には普遍的な文学像が消し去り難く残ってしまっている。だからホロコースト体験者は苦悩の沈黙に覆われ、ホロコースト自体は歴史の終局のように黙示=予言されたものとしてしか表象しえず、それがカフカに託されたのだと。

 だがランガーはそのような予言的言語は認めない。ランガーはきっぱりと言う。「カフカの世界には非人間化されて絶滅されるという具体的脅威は欠けていたのである」。すなわち、ホロコーストについて未だそれを表現することばは現れていない。それをを表しうることばはこれまでの文学には見いだすことができない。

 それは体験者たちが今現在試みようとしている賭けなのだ。だからこそランガーは『ホロコーストの文学』を書き、その中でホロコーストの文学者たちの提示する文体と形式を洞察しているのである。ここには決して沈黙へと陥る至福はない。あるのは言語化の苦悩とその苦悩からかいま見られるかすかな希望なのだ。そしてその希望とは私たち読者にかろうじて呼びかけられる喚起力をともなった想像力のことである。

 沈黙はひとつになる結合力を持つ。それは体験者に寄り添う場合にきわめて重要なそして繊細な営為である。しかし表現者は体験者と異なる位相に立たなくてはならない。真に共にあるためには(つながるのではなく共にあるためには)、表現者はアクチュアリティをたたえた表現を刻まなくてはならないのだ。そしてさらに体験者と表現者の間に横たる乖離をそのことばでもって少しずつ埋めてゆかなくてはならないのだ。