『チェルノブイリの祈り』は、事故が起きてから10年後に、300人余りにインタビューをし、そこで聞かれた声を集めた作品である。事故の全体像の復元する意図ではなく、人々が何を思ったのか、その「気持ちを再現」(p.30.)したものである。

 チェルノブイリが記号化して世界の情報として流され、未曾有の原発事故として人類史に刻まれることになる。この歴史は世界の誰もが知りうる歴史となる。だが、この事柄の背後には、事故によって人生がまるきり変わってしまった多くの人々がいる。事故後、かれらはみな「チェルノブイリ人」と呼ばれてしまう。それは彼らの属性のひとつに過ぎないにも関わらず。

 そのレッテルに隠されてしまったその個人の生活は私たちに届くことがない。事故にあった人々がそれまでどういう生活をしていて、事故によって何が変わってしまったのか、それは歴史の語りにはのぼってこない声だ。

 アレクシェービッチが行なったのは、インタビューを受けなければ、声に出すことさえしなかったであろう人々の声を集めることであった。

 それらの声には同質性と多様性が同居する。同質なのは、それぞれが表現の困難さをかかえていることである。これまでの体験では語ることのできない出来事が起きたとき、人々は何にも例えることができない。それをアレクシェービッチは「感覚の新しい歴史がはじまった」と言う。

 多様性とは、それぞれの職業、世代、性格などの違いである。私たちは、いつだれがどこでという状況性をぬきにして語ることはできない。この本に収められているのはまさにそうした個別の状況であり、それゆえに語り口も視点も多様になる。

ではたとえばどのような声が聞こえるのだろうか。

ぼくは証言したいんです。ぼくの娘が死んだのは、チェルノブイリが原因なんだと。ところが、ぼくらに望まれているのは、このことを忘れることなんです。(p.49. )

 覚えている限りは記憶の中に娘は生きている。喪は終わることなく続く。だが、まわりは忘却という楔を打ち込み、なかったことへと責任の抹消へと動いてゆく。

何人かがいっしょだと、人が変わるんです。三人、あるいは二人ででもいたら、私は撃ち殺されたかもしれません。一対一なら、まだことばが通じたのです。(p.74.)

 タジキスタンからチェルノブイリに逃げてきて、原発事故にあった母親の話である。ここにはレヴィナスを彷彿とさせる「顔を眺める」という人間と人間の根源的な関係が語られている。

老婆が教会でお祈りをしている。「私たちのすべての罪を許したまえ」。だが、学者にも技師にも軍人にもだれひとりとして自分の罪を認めようとしません。「私には悔い改めることなどなにもない。なぜ私が悔い改めなくてはならないのかね?」。そういうことなんです。(p.79.)

 大惨事は意味付けを私たちから奪う。しかし意味を求めないでは私たちの存在は「無駄なもの」となってしまう。そのときに用いられるのが「罪」である。この意味づけによって死が救われる。しかしそれは同時に責任の不在を招く。

ぼくらはこの惨禍からいかにして意味のあるものを引きだせばいいのか、わからないでいる。能力がないんです。なぜなら、チェルノブイリはぼくらの人間の経験や、人間の時間で推しはかることができないからです。(p.100.)

 原子力の事故が、人間的な尺度をはるかに凌駕するがゆえに、どのような意味づけでも無に帰してしまう。

土地の表面を削り、地層ごところがし落とした。いいましたよね、英雄的な話はひとつもないと。(p.103.)

 危急の事態が目の前に展開するとき、人間の行為は英雄化しうる。だが、英雄化や美談は事態を制御し、コントロールできていると錯覚させる仕掛けにすぎない。

ぼくはいま、もっとも勇気をもって書かれた記事を読むときでも信じていない。いつも無意識のうちに考えている。「これもうそかもしれない。作りごとかもしれない」。悲劇を思い起こすときには陳腐な表現、はやりの決まり文句で語られ、ホラーとして語られるようになってしまったんです。(p.154.)

 私たちの体験・経験によって推しはかることのできない事態に見舞われたとき、私たちはことばを失う。しかし沈黙するわけではない。表現することが困難なときでさえ、私たちは実はことばを発する。ただそれは決まり文句、もっとも記号化された、概念の上滑りの言葉、現実と結び合うことのない言葉である。

チェルノブイリの被災者はクラスに彼ひとりでした。同級生はみな息子をこわがり、<ほたる>とあだ名をつけたのです。私は愕然としました。こんなにも早く息子の子ども時代が終わってしまうなんて。(p.169.)

 放射能という目に見えないものがもたらすパニック。そして教室という閉ざされた空間で、レッテルを貼ることでよそ者を徹底的に排除する構図が普遍的に現れる。しかも社会の縮図としての子どもたちの教室。

それ以前は、必要ないと思っていたことを、こんどは人々は考えはじめたのです。自分たちがなにを食べるか、子どもになにを食べさせるか、健康に危険なものはなにで、安全なものはなにか?他の場所に引っ越すべきか、否か?ひとりひとりが決めなくてはなりませんでした。ところが、私たちが慣れていたのはどんな生活?村単位、共同体単位、工場単位、集団農場単位の生活です。私たちはソ連的、集団的な人間だったのです。(p.185.)

 集団とはイデオロギーを吹き込まれること。自分の言葉、自分の考えだと思っていたものは、それは国家から吹き込まれたイデオロギーに過ぎなかった。惨事は、私たちに自らの頭で考え、決めることを強いる。だがそれは人間が自らの命の持ち主になるための契機にもなりうる。

僕らにとって規律とは弾圧の道具です。(p.193.)

 規律があることは責任の所在をあいまいにする。そして従う人間を育てあげてゆく。従うとはまさに個の存在を抹消して、群にすることである。

ここを離れてもよかったのですが、夫といろいろ考えたすえに止めました。こわかったんです。ここでは私たちみんながチェルノブイリの被災者です。庭や畑のりんごやキュウリをごちそうされてもお互いに驚いたりしません。もらって食べます。あとですてようと、きまり悪そうにバッグやポケットにいれたりしない。私たちは記憶をともにし、運命をともにしています。ところが、よそではどこでも私たちはのけ者にされる。<チェルノブイリの人々><チェルノブイリの子どもたち><チェルノブイリの移住者>、もうすっかりおなじみのことばです。けれども、あなた方は私たちのことをなにひとつご存知ない。私たちを恐れていらっしゃる。もし私たちがここからでちゃいけないといわれ、警察の監視所が置かれたりしたら、きっと、あなたがたの多くはほっとなさることでしょうね(話をやめる)。(p.217.)

 惨事があると、人々は表すことのできぬ不安と恐怖に冒される。そのときに私たちが自らを救うためにすることは、安易な言葉遣い、概念だけが一人歩きした(実際には空虚な概念に過ぎない)レッテルをその事態に貼り付けることである。レッテルを貼り付けられた人間は、それ以外の存在の内実を無視され、それ以外の生き方を否定されるのだ。

町は地平線上に蜃気楼のように浮かびあがる。水色や青色に染まって、ヨーロッパ風のコテッジは農家の何倍も快適です。これは既成の未来です。しかし、パラシュートで未来におりることはできない......。住民は怠惰な人間に変えられてしまった。(p.256.)

 復興の名のもとに行われたことは実は、別の場所へ収容することでしかなかった。その生活空間には実は生活がない。日常を生きているようでいて、実はそれは課せられた日常でしかない。

 これらのことばは決して全体を描くことはできない。ことばはひとつの断片に過ぎず、断片をすべて集めつくすことなど不可能だ。私たちがすべきことはここで語られたこととともに、語られえなかったこと、いまだ語られなかった他の断片を自ら探していくことだ。

 語られ書かれた世界は、現実そのものではない。現実世界から抽出され、程度の差はあれ歪められた世界である。いかに聞き手に徹しようとも、選択・編集という作者の作為があることは自明である。ここを出発点として、語られたことと語られなかったこと、選ばれたことと選ばれなかったことをみきわめる必要がある。

 それは決して不可能なことではない。なぜならば、これら個別の言葉の中には、私たちの体験したことと、かすかではあっても共有されうるものがあるからだ。もちろん安易な共感などはできない。だが、私たちが社会に生き、ときには他者に無関心でありえたり、同調圧力を圧力とも感じなかったり、自分のことばが吹き込まれたことばにすぎないことに無自覚でありえたりするとき、私たちははたとこの無名の人々のことばの中に、自分たちが言おうとして、見出しえなかった言葉を見出すのだ。そのときことばは普遍性をたたえた文学の言葉となる。