吉村昭『総員起シ』(1972, 1973)

 文庫版のあとがきに吉村昭は次のように書いている。

太平洋戦争には、世に知られぬ劇的な出来事が数多く実在した。戦域は広大であったが、ここにおさめた五つの短編は、日本領土内にいた人々が接した戦争を主題としたもので、私は正確を期するため力の及ぶ範囲内で取材をし、書き上げた。

この短編集で扱われる事件は、太平洋戦争の歴史としては書かれることはなかった出来事である。これらの出来事が戦局を左右したことはない。むしろそうした大文字の歴史の趨勢からはこぼれ落ちてしまうような出来事である。

 だから、当事者が口をつぐめば、すぐにも忘れ去られてしまっただろう。それらはしかし、戦争を語る上でのささいな出来事とは決していえない。どんなに小さな出来事でさえ、その上には当事者の生と死がはっきりと刻まれているからだ。そして彼らは戦争の主人公ではないが、ないがゆえにむしろ、戦争が国民の全てを巻き込んでいくことを如実に物語っているのだ。

 吉村昭は「力の及ぶ範囲内で」と書いているが、その範囲は極めて広く、丹念で、そして些細なこともおろそかにはない。取材によって得られた証言こそが作品執筆の出発点となる。

 また当事者の証言に加えて、吉村はさまざまな資料も丁寧に調べ上げる。行政の記録、潜水艦の設計といった技術的な情報も漏らすことはない。作品は史的記録でもある。

 だが「証言と記録」は、作品の下地とはなりえても、それだけでは文学となることがない。作品のなかで、証言者の声が直接記録されている箇所は実は少ない。それらの声は、吉村昭の文体を通して、いわば吉村の声と溶け込んで私たちのところまで届いていると言えよう。だから時に吉村は、その体験者の心の中に響く弱い声まで聴き取って、文へと結実させる。この共感者としての声がたえず証言に寄り添っている。

 そこにひとつの文学の条件がある。なぜならば、体験自体は普遍化できないからだ。その場にいて、死の淵に置かれ、苦しみを味わった体験は、まさに私たちにとって想像を絶する体験であり、当事者になり代わって、その体験をやり直してみることなど不可能だからだ。体験者のことばは時に厳しい。『総員起シ』で吉村が取材した生存者の一人小西愛明氏が自ら語ったことばがあるが、そのことばには非体験者を近づけない峻厳さが張り巡らされていた。私たちはそうした厳しいことばを読むとき、ただうなだれて聞き入るしかない。私たちに主体化の契機は閉ざされている。

 吉村昭の小説世界は「証言と記録」に基づきながらも、小説家が「私」を名乗ることはほぼ皆無でも、小説家の創意によって出来事は構成し直されて、一つの独自の世界が私たちの目の前に提出されている。

 たとえば、「海の棺」では、冒頭で兵士の死体の多くに手首の欠けているものや上膊部からうしなわれているものがあると書かれるが、その理由は最後まで伏せられている。またこの小説には一切固有名詞がなく、漁師、組合長、少尉、村人たち、兵士たちと普通名詞で書かれている。ひとつの群像として作品世界が構成されている。だからこそ、腕を切られた兵士が海に沈んでいくときに最後に言ったことば「天皇陛下万歳」は、無数の兵士たちの最期のことばであったろうと私たちは想いをはせるのだ。

 すなわち、小説として仮構された世界に入ることによって、非体験者の私たちは初めて想像力を働かせ、戦争というものの実相を形象化することが可能となるのである。ここに読者の主体的な契機がある。私たちはこうして他者の決して同一化できない体験を通して、戦争というものの本質を分ちもっていくのである。そして新たに戦争というものへ眼差しを返していくのである。

 この作品集のなかで「手首の記憶」はやや特異な作品であるが、もっとも強い印象をもたらす作品でもある。上述したように吉村昭は体験者のことばを丁寧に聞き取り、その圧倒的な情報量に基づいて書き始めるのであるが、この作品では、体験者の声を誰一人として聞くことができなかった。集団自決後、生き残って「しまった」看護婦の一人、寺井タケヨは最期まで取材を拒否し、沈黙を通した。だが私たちは、この沈黙から、戦争の傷が永続するものであることを、たとえ終戦を迎えても、ひとりひとりの体験者のなかで戦争は決して終わっていないことを、歴史的事実と心的真実の時間の決して埋めることのできない溝を私たちは体感するのである。

 注意しなくてはならないのは、これらの作品集に出てくる軍人たちが決して美化されていない点である。彼らは決して大義を振り回さない。また吉村昭自身の声も決して単独では聞こえず、たえず取材をした相手に寄り添った声でしかない。登場人物たちの声はあくまでも、歴史のある状況に置かれ、その状況の中でこそ発せられたことばである。すなわち、もし私たちが同じ状況に置かれたならば、必ずや発したであろう人間の声なのである。それは作家が言わしめたことばではない。作家が証言と記録という事実を歪めず、その事実に徹したからこそ、聞き取れたことばが作品には響いている。