northern_lights_southern_cross.jpg ジョージ・カックルさんのレコード・コレクターズの連載は、ミュージシャンの意図をきちんとあぶり出しながら、そこに自分の人生や思いも反映させるという最高の音楽エッセイなのだが、今月はもう決定打ではと思うほどの深い内容。The Band『南十字星』A面4曲目「アケイディアの流木」である。

 思えばこの曲もアメリカ独立前のアケイディアンの悲惨を扱いながら、そこにロビー・ロバートソン自身の人生も反映させ、歴史と個人が溶け合う深みをたたえている。ルーツへの思いと、ルーツは結局幻想であり、根無し草としての自分の存在を哀しみを抱きながらも、しっかりとみつめるーそうした人間の本質的な孤独まで感じてしまうアメリカン・ロックの名曲である。

 それ以外にも完成度の高い曲が詰まったこのアルバムはThe Bandの最高傑作ではあるのだが、しかし単純にそうは言いきれない複雑さがある。The Bandといえば、泥臭いアメリカのルーツロックというイメージがあるが、このアルバムの音はそれとは対極に、高級ステレオで聞きたくなるほど洗練されている。そしてどの楽器も独立したパートを奏で、重なりあいながら曲を構成していくところにバンドの醍醐味を感じるが、当時のメンバーたちが実はもはやバラバラであったという事実。このアルバムが最高傑作であるのは、それが音楽を表現したいという情熱とは別の場所で、綿密に計算されつくして制作された「失敗のない」アルバムだという意味だ。

 例えばファーストのTears Of Rageの渋さに心をえぐられたり、セカンドのWhispering Pinesのせつない歌声に涙したり(『国境の南』でこの曲に聞き入るマスターの陰影を帯びた微笑みを見ているとさらに涙腺がゆるんでしまう)といった感情の素直な動きにまかせた単純な聞き方を許さない、異質の次元を持っているのがこのアルバム。

 だいたいロックは、どこか過剰だったり、まとまりがなかったり、違和感を感じさせるもの(20歳そこそこのディランの声が老人のように聞こえたり)であって、だからこそこよない愛情を注げるのだが、このアルバムにはそうした精神の弛緩を許すような隙がない。

 リチャード・マニュエルが自殺してから25年。もはや最後のころのライブは音楽のていをなしていなかったらしい。ロビー・ロバートソンはつい最近ソロ・アルバムを出した。数曲耳にしたがアルバムを買う気にはどうしてもなれなかった。そこにはどうしても「優等生の答案」のような面白みのなさを感じてしまうからだ。

 『南十字星』は名曲ぞろいである。それは才能と技巧の極みとして制作された名曲であって「こうした表現しかできなかった」結果なのではない。こうしたロックの矛盾をかかえた意味でも歴史的な一枚であることには変わりはないけれども...

大江健三郎『小説の方法』(1978)

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 大江健三郎には、多くの優れた文学評論がある。たとえば岩波新書赤版の第1号として出された『新しい文学のために』は、新書サイズでまとめられてはいるが、大江健三郎の小説作法(さくほう=作品を創造する方法)とからめながら、文学理論を実践的に解説した良書である。

 『小説の方法』は1978年の刊行。こちらも岩波現代選書の1冊目である。文学理論を本格的に扱ったほぼ最初の作品ではないだろうか。とはいえ、この作品は文学理論の研究書ではない。理論の妥当性を検証するのではなく、来るべき作品を創造するために、いかなる論理が小説の創作に必要なのか、それを作家的な確信から客観的に展開している作品である。

 最初に、そして最も重要な文学理論として扱われているのがシクロフスキーの「異化の理論」である。その作用とは「日常・実用の言葉が『異化』されることによって、文学表現の言葉となる」(p.2.)というものである。私たちの普段の生活とは、自動化・反射化された世界である。私たちは目の前のものを知覚はしても、それをいちいち意識化したりはしない。目の前にさまざまな「もの」が映っても、それはすぐに視界から逃げてゆき、私たちの意識の中に痕跡を残すことはない。これが自動化の作用と考えてよいであろう。

 芸術の目的とは、大江の引くシクロフスキーの定義によれば、「認知、すなわちそれと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせること」である。すなわち私たちの既存の知識をいかに動員して目の前のものをそれと認識したとしてもそれは芸術の領域には属しない。そうではなく目の前のものをものとして眺めること、そしてものを自動化の状態からひきだすのが異化の手法であるとすれば、そのものがいったい何であるのか、私たちをそのものの前で立ち止まらせるのが芸術の作用と言えるだろう。大江はこの態度を小林秀雄の本居宣長の言語観に引き寄せる。意識とものが出会い、そのものをつくづくと眺める体験である。

 大江健三郎は、普通ならば「論理の飛躍」があると言われそうだが、作家としての確信、すなわちそれがなければ文学の意味がなくなるという確信をこめて「異化」からの飛躍をはかる。それが「小説は人間をその全体にわたって活性化させるための、言葉による仕掛けである」(p.9.)という一文である。

 「何が言語表現を芸術作品たらしめるのか」という問いに対して、言語理論の適用可能性を作品の内部だけで検証するだけでは、私たちはその問いに答えられない。作品の世界を通過して、私たちはこの現実世界へと、しかも「明視の対象」としてこの現実世界を体験しないかぎりは(さらにその現実世界を活性化、あるいは刷新と読みかえたい)、この問いには答えられないだろう。だからこそ大江は、「異化」という文学理論を一気に飛び越えて、「人間の活性化」へと向かおうとするのだ。

 もうひとつ大江が用いる理論用語が「構造」である。これはいわゆる人間の意識下に潜む、整然とした構築物の体系という意味合いではない。そうではなく、「構造を持っている」とは、意味を伝えるだけの記号化された言葉ではなく、ある「構造」において「それらの言葉、文章が独自の意味づけをあたえられ、特徴づけられて、そこにそれ固有の伝達をおこなう」(p.14.)という特殊性を持っているということだろう。これは、引用されているケネス・バークの引用から考えるならば、ある状況下において、書き手のその状況に対する態度を表現するために、なんらかの独自の「名前を与える」という意味で、ひとつの意味生成をするための独自構造と考えて差し支えないだろう(バークの引用文における状況とは、発話状況を指しているに等しい。その状況の中で、表現はが独自の「ものとしての手応え」を発揮するとき、それは「詩的」となる)。

 そしてここでも大江は、状況を、文学世界に内閉した状況ではなく、広く私たち人間の歴史、同時代性を含みこんだものであるとし、文学表現の言葉をその状況に対する反響であるとする。表現の「構造的ななりたちを方法的に考え」、状況や同時代を把握すること、それによって個を解放し、全体性を獲得することに大江は文学の根拠を置く。

 「異化」理論は最終章「方法としての小説」で再び取り上げられる。この章で大江は、他人の言葉と個としての自分の言葉を対立させる。私たちそれぞれの個の言葉が、決して一人きりの言葉ではなく、常に他者と対峙し、他者との交渉の上で、紡がれていくとするならば、この大江の表現には違和感を覚える。しかしここで大江が言いたいことは、出自が不明となり、記号化された、単なるムードとして世間をただよう実態のない、しかしそれだからこそ私たちの意識を飲み込んでしまう言葉ということであろう。大江はそれをコンピュータとマス・コミュニケーションによって「大規模に組織化」(p.223.)された言葉であるとする(この比喩の妥当性については、この30年前に書かれたテキストであることに留意をすべきであろう)。

 大江はこの個の言葉と他者の言葉を定義したあと、「異化」の方法論を再び取り上げ、「異化」は「他人の言葉の総体から、個としての自分の言葉を、奪い返す行為である」(p.224.)と述べる。この意味が重要なのは、そのすぐあとで大江が、この行為を「本当に生きる経験を取り戻す芸術の役割」と述べている点だ。「異化」という文学理論を通して、「生きる経験」へと飛躍すること、これがここまで述べてきた大江の小説家としての確信である。

 私たちは規格化された生活を送るなかで、他人の言葉によって支配され、「自動化作用」を強制されているとする大江は、同時代におけるもっとも切実な例として原子力発電をめぐるキャンペーンを挙げる。原子力発電について私たちが何を知っているか。これまで私たちはほとんど何も知らされずに、あるいは知ることなしに生活の「自動化作用」にまかせて電気を使ってきた。それは「安全性」や「資源枯渇」という支配構造からの他人の言葉を、「自動的」に受け入れ、意識上にのぼらせてこなかったことを意味する。私たちが自らの生死という根において考えることを奪い、さらに現代世界の全体性というヴィジョンを抱くことを奪う他人の言葉。大江はこの自動化から自らを切り離す根拠として、放射性廃棄物および温排水を「もの」として手応えのある自分の経験とすることを主張する(p.227.)。

 私たちは、原子力発電に携わる専門性と官僚機構性に対しては外部者にとどまる。だが私たち自らの生死に関わるという局面において、私たちは他人の言葉によって自己放棄するのではなく、あくまで自己固有の経験とすべきであると大江は主張する。

 ここで大江がさらに問題視することは、「職業としての表現者」の言葉までもが、他人の言葉にすり替わることである。次段落に述べるように大江自身は小説家としての個の言葉について考えを展開させていくが、私たちにとって「職業としての表現者」としてどのようなことばを発するかは、もっと広い意味を持つだろう。高度に専門化された原子力発電についての表現に対して、「職業として関わる」科学技術者たちの言葉は、どこまで私たちに、それを聞いた上で、私たちなりの「個の言葉」を(ここでは自らの振る舞いを決定することばとして)生み出すように促す言葉として響いてくるのか。そこには「科学の言葉」の客観性と倫理性(どのような裏付けを持って自分の主張をし、その主張に沿って、どのような振る舞いを他者に呼びかけるべきかの判断)が当然求められるし、私たち自身がそれを個の言葉とするには、能動的に彼らの言葉を受け止め、できる限り検証しようと努め、その上で自分がどう振る舞うのか、その態度決定を迫られるだろう。それこそが自己固有の経験とするということだろう。逆にそれほどの努力をしなければ、個の言葉にはならないほどの時代へと私たちは入ってしまったのだ。

 大江自身は、小説家として、個の言葉を生き延びさせる小説の方法を模索する。そのためにヤウスの「期待の地平」の概念を導入する。期待の地平とは、受容者が、今までの経験や歴史的所産、伝統によって、作品の展開において「こうであろう」という予測によってテキストを読むときの、その一歩先に存在するものである。しかし、私たちが芸術作品と呼べるものに出会うときは、それを受け入れ、解釈する過程において「馴れ親しんでいる経験の否定」や「初めて明白になった経験が意識化されて地平の変化」がひきおこされるのである。

 そして大江がヤウスの本質として重要視するのが、「文学の期待の地平が歴史的な生の実践よりすぐれているのは、それが実際の経験を保存するばかりか、実現されなかった可能性を予見し、社会的行動の限定された活動範囲を、新たな願望、要求、目標に向かって押し拡げ、それによって未来の経験の道を開く」という一節だ。さらに大江は、文学のことばが「かたち」であることを再び喚起し、この「かたち」があることが、文学においては、書き手の個を超えて、集団的な想像力にも結びつくような表現を獲得すると言う。

 「実現されなかった可能性」だけではなく、「未来の経験」のモデルをも提出すること。これこそが事実に不足している世界であり、この未来の体験像を描くことのできる小説は、私たちに個の言葉を、すなわち、「この時代に生き死に」(p.235.)するなかで、この世界を活性化するためのことばを与えてくれるはずである。このとき私たちは、文学を虚構ではなく、自動化作用から離れた目でこの世界を批判的にとらえ、自らの言葉でもって表現し、そしてやがては世界を刷新=変革することへと、言葉から行為へと歩み始めるはずである。そのための想像力、事実を超えて、「生き死に」を根に据えて考えるためのことばを生み出す構造を持っているもの、これこそが文学なのだ。

 大江が引用するバシュラールのことば。「いまでも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ」(p.82.)。

 この論文が発表されたのは1939年、バンヴェニストが37歳のときである。わずか6ページ半の小論だが、ソシュール思想の根幹をなす恣意性の問題を正面切って取り上げ、以後大きな論争を巻き起こした(加賀野井秀一『ソシュール』pp.91-111.)。

 ソシュールが一般言語学として探究したことは「記号の体系」の構築であり、それはとりもなおさず、シニフィアンとシニフィエとの絆とは「音声形象」と「概念」の絆のことであって、「ことば」と「もの」との関係ではないということであった。シニフィアンとシニフィエとの絆は、あくまでもラング内部のものであり、ラング内部の事実である(加賀野井, p.106.)。この外部の事物(言語外的世界)を捨象し、記号の体系として独立した構造を提起したことで一般言語学の輪郭がはっきりとする。

 メショニックは、signe「記号」とsymbole「象徴」を比較し、前者は「事物の不在」であり、象徴は言語と事物との聖なる合一であるとして、事物と関わりに記号と象徴の対立点を求める。(Henri Meschonnic, «Le signe-absence dans le discours du mythe», in. Le signe et le poème)。メショニックはバンヴェニストを引用しながら(「外の現実が『座標軸』である」)、言語学者がこの座標軸を外の現実に求めなかったことで、学を形成してきたとする。

 バンヴェニストが取り上げるのも、本来ならば記号の体系の中から事物を放擲したはずであるにもかかわらず、ソシュールが不用意にも、事物と名づけの問題に記号の問題を還元してしまっているという点である([ブフ]というシニフィアンをもつシニフィエ「牛」は、国境を越えると[オクス]をもつ)。バンヴェニストはそこからそもそも記号の恣意性が言えるのは、記号と現実の関係のみであるとする。つまり、外的現実をどのように名づけるかという問題においてのみ恣意性が成り立ちうると問題を集約させる。バンヴェニストにとっては、「恣意性は(...)記号の構成そのものの中には入り込んでこない」(p.53.)のであり、また、ソシュールの不用意さは、プラトン以来続けられてきた「自然か人為か」という問題から抜け出せていないと映るのだろう。バンヴェニストは、言語学者は「当面」この問題に関わらないほうがよいと言う。

 バンヴェニストは記号の体系の根拠をもう一度、「シニフィアンとは音響心像、シニフィエとは概念である」と確認したあとで、その両者の関係は「必然的nécessaireである」と説く(p.51.)。シニフィアンとシニフィエは、「同じ観念の2つの面」であり、またまさにソシュールが紙の裏表で例えたように、言語記号は「ひとつにまとまって構成されていること」を強調する。

 バンヴェニストは、このソシュールが提出した原理から派生する2つの問題に言及する。1つは記号の不可変性と可変性の問題である。バンヴェニストは、これは記号の、すなわちシニフィアンとシニフィエの関係における問題ではなく(なぜなら、記号においてはシニフィアンとシニフィエは話者にとって常に同時に立ち現れてしまうから)、記号と事物の関係における問題であるとする。つまりは名づけ、意味作用の問題である。
 2つめに挙げるのは「価値」の問題である。ここでもバンヴェニストは重ねて、ある分たれた音とある概念の選択は恣意的ではないと強調する。ソシュールの「価値の観念は、外部から課された要素を含んでしまう」ということばを取り上げ、ソシュールの推論が「座標軸」として「客観的現実」を選択していると指摘する。

 バンヴェニストは、「言語に内在する偶発的な部分とは、現実の音的象徴としての名づけに関わる部分であるが、記号とは共存するシニフィエとシニフィエを内包する言語体系の根源的要素である」と結論づける。

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 この議論で問題になるのは、本質的には恣意性か必然性かどちらかを選択することではない。むしろこの対立軸を示すことで、恣意性を切り捨て、それによってバンヴェニストは、言語の問題から対象世界を完璧に放擲することを考えたのだ。何のためか。それは一般言語学の対象を画定するためである。

 ただし、それによって現れる記号の体系は、必然性の=反省のともなわない、取り決められていることによって主体が介在しない静態的なものとなるだろう。この問題への解決がsémantique、およびそこに現れる主体に言語の動態化だったのではないか。

 だが、ここで文学言語へと問題をずらすならば、当然ながら対象世界と言語の問題を扱わざるをえない。しかも文学においては、その対象世界とは、私たちが生きるという意味での生活世界と、作品が構築するフィクショナルな世界(作り事、うそという意味ではなく、作品内部に構築される世界)の相互性を考察せざるをえない。これも当然のことだが意味と対象世界の関係には真偽の関係がついてまわるが、文学世界は真偽の関係では解きえないからだ。だから、この整然とした記号の体系を越えて、言語と関わる必要がある。

 バンヴェニストはsémanitiqueによって主体と意味生成を、言語の領域にとどまりながらすくいあげることを考えた。意味を生み出すことは、おそらくすぐれた文学作品の条件のひとつであろう。ならば、現実世界に関わりつつも、意味を生み出し、しかしあくまでも言語によって構成される世界を内包する文学作品(しかもときにその世界は、現実世界を穿ち、更新させうる力を持つ)の言語的特質をどう引き出せばよいのか。問いの照準をここにあわせなくてはならない。