Sorj Chalandon, Le Quatrième mur (2013)

 2013年に「高校生たちによるゴンクール賞」を受けた作品である。著者は主にLibérationで活動をしてきたジャーナリスト。この小説の大きな物語は、ユダヤ系ギリシャ人のサミュエルから、演出家であり、高校の補助教員をするジョルジュが、レバノンのベイルートで、アヌーイ作『アンチゴーヌ』を上演を託されたことにある。国内の紛争と外からの武力干渉を受けている戦火のレバノンで、演劇を上演するだけではなく、それぞれの登場人物を、宗派の違う人々に同じ舞台で演じさせるという途方もない試みなのである。

 そもそもレバノンは「民族のモザイク社会」(宮田律氏)である。イスラムの異端とされるドルーズ派、キリスト教系のマロン派、そして戦後はイスラエルを終われた難民パレスチナ人が移住する。そこに民族主義的様相も加わり、マロン派からは、武装民族派としてファランヘ党員たちが生まれる。こうした複雑な民族構成の中、小説は、80年初頭、すなわちイスラエルがレバノンに侵攻した「レバノン戦争」を背景にして話が進んでゆく。

 前半の話の中心はサミュエルとジョルジュの関係を描く。サミュエルはギリシャで軍事政権に抗議して、アテネ工科大学を占拠した学生たちの一人であり、この占拠が制圧されたのちフランスにやってくる。ジュルジュは「親パレスチナ」の学生運動に身を投じていた青年である。ともに70年代の自由と解放を求めて運動に傾斜していった若者の姿が投映される。それはたとえば結婚式で「右」の市長が若者たちの格好を見て「La République, c'est le respect des institutions共和国、それは体制の尊重」と言ったのに対して、サミュエルが「La République, c'est le respect des différences共和国、それは差異の尊重」(p.39.)と言い返す挿話などに現れる。

 このように小説は架空の人物を登場させながらも、実際の歴史的事実や時代の風俗に依拠している。その上で、現実世界の枠組に小説世界を仮構し、二つの世界を往還する構造を取っていると言ってよいであろう。

 この2人の関係についてもっとも印象深いのは、CRS(機動隊)に対して、ジョルジュたちが「CRS=SS(ナチス親衛隊)」と連呼するのを、サミュエルが厳しくやめさせる場面である。権力闘争において、スローガンと安直な比較は、事実の単純化を招き、それぞれの事実の固有性を抹消してしまう。スローガンがもたらすイメージは、ときにひとつの自己陶酔にもなって、それ以上に現実を変えるための思考を私たちに促しはしない。しかもユダヤ系のサミュエルが、SSを批判の言葉として使うことを戒めているのである。

 ここに小説の主題の一つがある。それは、イデオロギーに染まって硬直した自己をどう変容させていくか、そしてイデオロギーから少しでも抜け出して、自分を自由にするとともに、他者とどう融和するか、という問いであろう。イデオロギーとは政治、宗教、そして自分の価値観そのものを指す。

 ベイルートでの演劇の上演は、異なるコミュニティの人間が同じ舞台に立つことによって、イデオロギーから人間を解放し、人間を人間の相のもとに捉えるための可能性に他ならない。そして中盤は、サミュエルが病いに倒れ、ジョルジュがその意志を継いで、ベイルートで練習を行なう日々が中心となる。アンチゴーヌはスンニ派のパレスチナ人、その叔父クレオンはマロン派、アンチゴーヌの婚約者であり、クレオンの息子エモンはドルーズ派といった具合だが、練習を行なううちに、それぞれが少しずつ距離を近づけながら、本番の上演へと向う。

 しかし、それを打ち砕くのが、82年のイスラエル軍によるレバノンへの侵攻である。空襲によって、劇場代わりとなっていた建物は損害を受け、人々も怪我を負う。そして予定されていた上演日は10月1日。だがその前の月とは、シャティーラの惨劇と呼ばれる、大虐殺が起きた月に他ならない。レバノンに武力侵攻したイスラエルとレバノンのファランヘ民兵の結託によって、ベイルートの難民キャンプ、シャティーラの多くのパレスチナ人が虐殺された。

 この事件は、フランスではジャン・ジュネが『シャティーラの4週間』としてまとめている。この時、虐殺が続けられるよう、夜になってもイスラエル軍は照明弾(des fusées éclairantes)を打ち続けた。それが小説では、夜が昼となり、発光する真珠が落ちていったと描写される(des dizaines de perles incandescentes descendaient lentement...)。さらに作家は、ジュネの描写に倣うかのように、虐殺された死体を、ジョルジュが間近に眺めた光景として詳細に描写をする。これを期に、ジョルジュは精神のバランスを崩し、フランスに戻っても普通の生活を送ることができず、再びレバノンへ、いや戦地へと戻ってしまう。

 この小説の導線となっている『アンチゴーヌ』は悲劇の代表作であるが、単にこの作品が戦時下、占領下で書かれ、上演されたという共通性以上のものがある。悲劇とは、一言で言えば、「登場人物が私たちが見ていてもっとも自然と思える行動をとる」劇の形式であろう。例えば、オイディプスが自らの眼をつぶすという行為は、日常的にはあり得ない行為かもしれない。だが、それが父を殺し、母をめとった人間がその事実を知ったときに、どのような行動を取ることが自然か、と問えば、眼をつぶす行為は劇の中で、もっとも自然な行為として私たちにやってくる。それが悲劇だとすれば、最後、ジョルジュが兵士を撃ち殺す結末は、イデオロギーから抜け出ようとして、最終的には抜け出すことのできなかった不自由な人間が最終的に取る行為として、自然な行為と言えよう。それがまさに悲劇なのである。

 タイトルLe Quatrième mur「4つ目の壁」は、舞台の3方以外に、舞台と客席の間にある眼には見えない壁を指すとのことである。この壁があることによって、役者たちは、平静を保ち、演技に徹することができる。しかし結末にある「4つ目の壁」は生者と死者を分け隔ててしまう壁の意となる。ジョルジュはまさに悲劇的な主人公として、壁の向こう側へと移動してしまったのである。

フィル・クレイ『一時帰還』(2014, 2015)

 作者は海兵隊員としてイラク戦争に派兵された体験を持つ。短編作品を集めたのが本書だが、いずれの作品でも主人公は一人だ。体験はあっても自己充足はない。その孤独な寄る辺なさがこの戦争の大義のなさを露にしている。大義がないからこそ、軍はやっきになって勲章をつくり、兵士を表彰する。それは死が無駄死にであったことを隠すため、そして生き残った人間が罪の意識を感じないようにするためだ(p.83.)。

「一時帰還」では、戦場と帰還後のアメリカの日常の場所が交錯してしまう人物を描いている。戻ってきた日常の風景に戦場の風景がフラッシュバックして重なってしまうのだ。そして神経が張りつめれば「二十メートル先の道路に落ちている十セント硬貨にだって気づく」(p.14.)。人間の可能性がここまで広がるのは、戦闘という極限体験がもたらしたものだ。この戦場体験の侵犯は、その体験者がコントロールできないものであり、日常の生活になだれをうって流れ込んできてしまうのだ。

「戦闘報告のあとで」では、体験の分有が主題である。少年を撃ち殺した兵士とそのそばにいた兵士。だが、その出来事は、実際にはどちらが殺していてもおかしくはない、ただ偶然の出来事として、二人に覆い被さってくる。偶然である以上、本当は自分が殺したかもしれない。だからこそ、殺した兵士は口を閉ざしている一方で、殺していない兵士は自らが殺したと言う。これが誤りとして認識されないことが、戦争の実態なのである。そして殺していない兵士は、まわりに当時の状況を問われて、殺しの現場を語り始める。「語り直すたびに物語は強度を増し、ますます真実のように」(p.38.)感じられてゆく。

「アザルヤの祈り」は、兵士の心的外傷が主題である。

六週間前に友人の二人が死んで以来、気持ちの揺れや怒りの激発に苦しんでいる。壁を叩くようになり、睡眠薬を処方された最大量の四倍呑まないと眠れなくなった。眠ったら眠ったで、友人の死や自分自身の死、暴力といった悪夢を見てしまう。これは完璧なPTSDの症状の一覧表だったー激しい不安、悲しさ、息切れ、心拍数の造花、そしてもっとも激しいのは、どうしようもなく無力だという感覚に圧倒されること。(p.161.)

 事実、この小説のトーンを支配しているのは「クソみたいに無意味」だという認識だ。それは現地ではなく、むしろアメリカに帰還してからこそ頻発する。犯罪や麻薬に手を染める、さらに自殺の件数が増える。この小説の主人公は牧師であるが、この牧師の言葉は常に皮肉にしか聞こえない。それは牧師自身がわかっている。最後のセリフ「この世で神が約束するのは、私たちが一人ぼっちで苦しむわけではないってことだけです」(p.182.)は、まさに兵士たちの孤独を反対の意味で際出させる言葉なのである。

「心理作戦」の主人公はアラブ系でコプト教の家庭に育った兵士であるが、彼が帰還後、大学に入り、「復員兵」としての周囲の目に十分答えるように、証言をねつ造する。その意味で、この作品は、体験者と非体験者の関係を主題のひとつとしていると言えるだろう。

「戦争の話」もまさに、体験者の語りの分有の困難さが主題である。体験者の語りが、通じない、もしくは聞き手の都合によって勝手に解釈されていく、言い換えれば、そもそも本人がその価値を信じることができない戦争の話が、外部の人間によって、勝手に価値付けられていく絶望が主題である。帰還兵士の話を聞く相手はIVAW(戦争に反対するイラク帰還兵の会)と「コラボ」して芝居のシナリオを書こうとしている女性の役者である。この団体は「まるで彼ら[=帰還兵]を瓶にでも入れて貯蔵しているかのよう」に、自らの目的=イデオロギーのために兵士たちの証言を利用する。それはまさに事前の答えをすでに持っていて、その答えが出てくるように質問を繰りかえす欺瞞である。

 さらにこの体験者の話の核心は、まさにその核心が語れないことにあるのだ。体験者は戦場において傷を負うその瞬間については語れない。それはあまりにも壮絶な瞬間であり、認識の枠を飛びてしまう体験であったろうし、そもそも記憶が飛んでしまっているのである。つまり真の体験者であれ、その体験の中心には達することができないのである。したがって体験者は、体験者としては実際には不在なのである。

「記憶の大部分が消えてるんだ。何も残っていない。オーバーロードして、システムが動かなくなっているみたいだな。それはそれでいいんだ。俺に記憶は要らない。それに、モルヒネ、硬膜外点滴、ジラウジッドやミダゾラムの静脈注射なんかを順番にやられているからね」。(p.245.)

 このように体験者自身が記憶の保持者ではなく、その意味で核心の体験の保持者になりえないのである。またたとえ思い出したとしてもそれは「断片」(p.248.)に留まり、それらの断片をいくら集めても、一つの統合化された物語としては復元できない。

 戦争は体験者を時に特権化し、国は兵士に強い意味を付与し、それによって国民を分断しつつ、大きな物語を構成することで、分断によって負い目を追った非体験者としての国民、特別な言いを付与されない国民にその劣等感を植え付けながら、したたかに統合してゆくのだ。

 その強い物語に対して、兵士たち個人の声はあまりにもか細く、分断的だ。そして兵士自身、戦争によってずたずたにされ、死の極限に追いやられて心的外傷をおった「クソみたい」な存在をかろうじてすくうため、物語を始める。その物語が事実をすり替える。しかしその一方で、統合されないかすかな断片としてのことばもつぶやかれる。私たちはどのようにしてその声を聞き分けるべきなのか。イデオロギーを持ち込まず、体験者に寄り添うこと。そのときにようやく体験の分有の可能性が生まれるのである。なぜなら体験者は体験の真の所有者とはなりえないが、それだからこそ同時に非体験者が、謙虚に声に耳を傾け、その分断から、人間性の証しを求めていく可能性がひらかれる。