Charle, Christophe

 この報告は、2005年にパリ第4大学で行なわれたシンポジウム、「1902-1914, la première guerre des humanités modernes」で行なわれた。Chirstophe Charleは特に19世紀後半における知識人研究などで知られている研究者である(『「知識人」の誕生1880-1900』(藤原書店)参照のこと)。 Histoire de la langue françaiseの著者であるFerdinand Brunotの、論争家、活動家としての面に焦点をあてて、第三共和制において、言語学者がどのような社会的立場を担ったのかを解明する報告である。事実、Charleが挙げるようにBrunotは時代と正面から向き合った言語学者である。大学改革、ドレフュスの擁護、中等教育改革、綴り字改革、文法教育の現代化、女子への教育の擁護、外国におけるフランス語の普及、などその活動には枚挙にいとまがない。その中でCharlesは次の3点を挙げて、それぞれにおけるBrunotの立場を明らかにする。

1899年中等教育に関する調査
1905年の綴り字論争
現代における古典教育とフランス語

1)1899年中等教育に関する調査: Brunotの改革の骨子は、反教権主義に基づいたものであり、宗教から公空間へ教育を導くことに重要性を置く。そのためにBrunotはカトリックの学校に対抗しうるだけの、質の高い教師の養成を目指し、また初等教育の自習監督の採用を視野にいれるための、agrégationの改革を要請する。
 次にBrunotが批判するのは、古典教育のカリキュラムである。ただ廃止するのではなく、ギリシア語、ラテン語は一握りのエリートにとっては重要でああるが、一般の生徒にとっては廃止してもよい科目であるとする。つまり中等教育とは、ラテン語知識階級である聖職者によって独占されるものではない。それは同時にフランス語を教育の中心に置くことを意味する。ここにはひとつの新旧の文化闘争があるわけである。そしてフランス語を深く知るためのギリシア語、ラテン語という位置づけ自体を変えるために、Brunotはフランス語の歴史を教えるという可能性を示唆する。そしてその延長上には古典の作家ではなく、ヨーロッパ文学の作家たちのテキストを教えるということも浮上してくる。 いずれにせよ、宗教と古典教育という結び付きに対して、現代的な観点から、一部古典教育を残しながらも、フランス語の教育を促進し、公教育を宗教学校に対抗させることが主眼となっている。

2)つづり字の現代化: 1903年に文部省によりつづり字改革の委員会が設置された。Brunotはそのメンバーとなる。ちなみにこの委員会は、アカデミー・フランセーズの会員が一人だけであった。この委員会が1904年に出した改革案には、アカデミー、雑誌、大学界からの非難を受けることになる。Brunotは、彼らが打ち出す伝統擁護の姿勢に対して、大作家のものと言われる作品でも、彼らが書いていた当時と、現在ではすでに綴り字に顕著な違いがあることを指摘する。1906 年に最終報告書がBrunotによって書かれるが、その骨子は大多数の人々が、苦労なく文字がかけるよう配慮するというものであった。つまり、つづり字の規則化、簡素化である。Charleは、報告書の次の部分を引用する。
 「我々が忘れているのは、かなり多くの国民にとって、フランス語はまだ母語ではなく、獲得言語であるということである。子供たちは学校で、おそらくは口頭練習や、読書をしながらフランス語を学んでいる。また、小学校で学業をやめてしまう子供たちは、かなりの言葉を知らないままだ、ということも我々は忘れている。こうした子供が大人になって、新聞を読んだとしても、聞いたこともない言葉は、ほとんど外国語に等しい。そしてそうしたことばを書いてある通りに読むために、その読み方はきわめて奇妙なものになってしまっている。」
 Brunotにとって、こうした単純なつづり字は、外国人や植民地の人間たちが、フランス語を学ぶときの障害になっているという認識にたった上での要請でもある。また、反対派の根拠である「伝統の擁護」については、Brunotはつづり字の規則は、実は19世紀において、学校教育の中で教えられて定着したにすぎず、反対派がやはり根拠とする「大作家」もつづり字上のミスをしていることを指摘する。すべての人間が、言語および文字を maitriserできること、これがBrunotにとっての共和国の命題である。言語的な階層差、文化障壁をなくすことが、共和国の単一性を保つのである。

3)現代における古典教育とフランス語:教育におけるラテン語の位置づけについては、2つの愛国主義が対立している。一方は伝統の擁護と、古典文化の遵守のために、ラテン語教育の退潮が、フランス文化の危機をもたらすという立場。他方は、フランス語の単一性を共和国の単一性実現の一つの必要条件と考え、フランス精神の普及を考える立場である。この普及はもちろん、国内にとどまらず、世界中へのフランス語の普及へと拡大していく。また普及ということ自体にフランス精神の栄光があるわけである。 Charleが引用する、フランス民族の精神が、経済的、政治的には影響力を失った植民地国で、フランス語によってふたたび領土を回復しつつあるというくだりは、Brunotの姿勢を如実にあらわす一節である。Brunotはこの後者の意味での愛国主義者として、旧守派に対して精力的に論陣を張る。 Brunotにとって、前者がいうフランスの危機とは、これまで一部の知識階級、ソルボンヌによって独占されてきた、知、および、その知によって成り立つ職業階層という旧習の危機に過ぎない。最後にCharleは、Brunotが中心となった団体「Les amis du français et de la culture moderne」の1911年の宣言を引用する。ここでは、ラテン語の優位性、ラテン語を通したフランス語の理解という主張をきっぱりと断罪する。こうした宣言文を読むといかにBrunotが戦闘的な言語学者であったのか理解できる。Charleのこの報告は、まさにこうした時代の論争の中心人物としての Brunot像をよみがえらせてくれる。