Emile Benveniste, «Les niveaux de l'analyse linguistique» (1964) , in. Problèmes de linguistique générale, 1

 言語の分析する手法として何が有効だろうか。バンヴェニストが提案するのは、niveau「レヴェル」である。分析とは、言語要素を、それらを結びつける関係を通して、確定することである。これらの要素を分析するための実際上の作業としては、次の2つが挙げられる。ひとつは分割化(ségmentation)、もうひとつは代置(substitution)である。

 分析には、対象をこれ以上はできないところまで細かくしていく作業がまず必要となる。そのあとに分割化した要素に代置の作業を施すことによって、その要素の性質が理解できる。

 たとえば、raisonを音素に分析する。[r-e-z-o-n]。そして[r]を[s]に代置するとsaisonになる。こうした代置によって、他の記号になるということは、まさに記号は、他の記号との差異関係によって成立していることを示している。またこれらの音素はどれもが等しく配置されるという意味で、それぞれが等価値であると言える。この等しさはsyntagmatique(連辞的)にも(r, e, z...)paragmatique(範列的)にも(rezon / sezonのrとs)2重に言うことができる。

 ここで分割化と代置化の違いを音素と弁別特徴を取り上げることによって指摘することができる。代置化は分割化不可能な要素に対しても行うことができる。例えば[d]の弁別特徴である、「閉鎖」、「上前歯裏」「有声」、「帯気」と言った要素は分割化不能であるが、それぞれの要素を代置化することはできる(たとえば有声に代えて無声とすれば[t]になる)。そして分割化不能な要素はsyntagmatiqueなクラスを構成することはできない。

 したがって、分析に2つのレベルを認めることができる。分割化と代置化の両方が可能な音素レベルと、代置化だけが可能な弁別特徴レベルである。バンヴェニストはそれぞれのレベルとphonématique、mérismatiqueと呼ぶ。

 ではphonématiqueの上位レベルを見いだすことはできるだろうか。音の単位を成立させるのが意味であるのが明らかな以上(私たちは音素の連続を見て、それを単位として認めるのは、その結合したものに意味を認めるからである)、上位レベルに設けることができるのは意味である。そして意味こそ、「あらゆるレベルのあらゆる単位を満たす根本的な条件」である。そもそも音素は、それを含む上位のレベルの個別の単位に依拠しないでは存立しないのである。その単位とはmorphème(語彙素)であり、記号のレベルである。言語のレベルはかならず上位のレベルに包摂されないと存在しえない。

 記号(=語)は、下位レベルのphonématiqueに分解できるし、他の意味単位とともに上位レベルの単位に入ることもできる。その上位レベルとは文である。重要なことは「文は語によって実現されるが、語は単に文の分割要素ではない」(La phrase se réalise en mots, mais les mots n'en sont pas simplement les segments)ということである。

 簡単に言えば、語の意味の総和が文の意味とは限らない、ということだろう。独立した単位として持っている意味(=辞書的な意味)が、必ずしも文において現前化するとは限らないのだ。独立した単位で語を考えるならばそれはlexique、paradigmatique(他の単位との比較検討)となり、文として考えるならば、当然だがsyntagmatiqueとなる。

 ここで言語要素と言語レベルの関係について検討する。同じレベルでの言語要素の関係は配置関係(les relations distributionnelles)、違うレベルでの言語要素の関係は統合関係(les relations intégratives)と呼ばれる。

 そしてある単位は、上位レベルの単位の「統合的な部分」として同定されて初めて、そのレベルで 弁別的なものとして認識される。たとえば、[s]が音素としての地位を持つのは、salleにおいて[al]と、seauにおいて[o]とそれぞれ統合要素として機能するからである。また[salle]が記号となるのは、à manger, de bainとそれぞれ統合されるからである。

 そうすると上位レベルの文は、構成要素は含むが、それ以上の統合される単位というのは持たない。下位レベルのmérismeは、逆にいかなる構成要素も含まない。記号のレベルだけが、独立しており、構成要素も統合要素も含み込んでいるのである。

 ここでバンヴェニストは、形式と意味の問題に言及する。単位を構成要素としてみなすとき、その単位は「形式要素」とみなせる。たとえば文を諸単位に分割しても、現れるのは形式的構造だけである。一方それとは逆に統合化は、単位を意味的単位とする。つまり形式は、下位レベルの構成要素として分解できるものとして定義され、意味は、上位レベルの一単位に統合されるものとして定義される。

 したがってある単位が意味を持っているということは、それを「命題関数」(fonction propositionnelle)とみなすことができる。すなわち、その単位を上位レベルにはめ込むことによって=統合することによって「意味する」とみなせるのである。

 さらにバンヴェニストは意味の意味を問う。すなわち私たちが「意味」と呼んでいるものは一体何だろうか。ここでバンヴェニストは指示の有無によって意味を二層にわける。

 最初は、言語の要素がその本質(propriété)として意味を有する場合で、そは他の単位と弁別的、対立的に画定できる単位である。そしてこの意味単位はその単位が属する言語(langue)の中に、その言語の話者によって同定される。このように言語は体系をなし、この体系は閉じていると言えよう。

 しかし同時に言語(langage)は、対象世界に対して指示機能を持っている。この働きは文として現れる。文は具体的に特定できる状況に関係づけられるとともに、文が含む下位レベルの単位は、経験、もしくは「言語慣用」(convention linguistique)の中で選択された対象へと関係づけられる。文はこのように意味と指示の両方を含む。

 ここで文という最終レベルの特殊性をまとめることができる。文は分割はできるが、統合することはできない。また文の特徴の第一は「述定」(prédicat)であることだとバンヴェニストは言う。さらに主語さえも、述定の働きによって決められると指摘する。

 このレベルはcatégorématiqueと呼ばれる。だが、phonèmeやmorphèmeに対応するcatégorèmeは、同じような単位として認めることができない。述定は文の根本的本質であるが、これは文の一単位ではない。述定にはそもそも多くの種類はない。したがってcatégorèmeは、形式としては存在するが、統合のための弁別的単位は構成していないのだ。つまり、文は複数の記号を含むが、それ自体は記号ではない。

 以上のことは次のようにまとめることができる。
 phonème, morphème, lexèmeは数えることができ、有限数である。しかし文はそうではない。phonème, morphème, lexèmeは同一レベルで配置が行われるし、上位のレベルにも使用される。文には配置も使用もない。語の使われ方の一覧表を作るとすればそれは無限になる。文にはそもそも一覧表さえない。

 では文とは何か。「文とは無限の創造、限界のない多様性、そして活動している言語(langage)の生そのものである」。文を考えることは、記号の体系である言語(langue)を離れて、ディスクールを用いた、コミュニケーションの道具として言語を考えることになる。文とはディスクールの単位である。ただしこの場合の単位は、同じレベルの他の単位に対して弁別的という意味ではない。ディスクールの単位は意味と指示の両方を持っているという意味で完結した単位である。文は意味作用を携えており、またある状況に関係づけられる。

 私たちは文にこの二重の特質を認めることで分析対象とすることができるのである。これはディスクールという意味と指示の両方を含むものを言語の分析対象とするバンヴェニストの決意表明とも言える論文である。