Benvenisteの論文«Sémiologie de la langue»(Problèmes de linguistique générale, tome 2, pp.43-46)は、記号論の領域において、言語が、他の様々な記号体系に比して、それらとは区別されうる特質を持っていることを考察したもので、記号と言語の問題を考える上での古典的な規範となる論文である。
論文は、「icones, index, symboles」という記号の分類を提案したパースが、言語の記号の特殊性については特段の言及をしていないのに対して、ソシュールが問題にしたのは言語(学)の対象についての考察であったという差異から出発する。そしてバンヴェニストはソシュールの新しさを「言語学が、未だ存在していないが、人間的事象にまつわる他のあらゆる体系にも関与しうる学問の一部を構成している」(p.47.)と指摘した点にもとめる。その学問とはsémiologieである。ソシュールはそれを「社会生活において記号に基づく生活を研究する学問」と定義し、1)言語学はその一部をなすということ、2)sémilogieの正確な位置づけは心理学者の仕事であり、言語学者がすべきことはこのsémiologieにおいて、言語を特別ならしめるものとは何であるのか画定することである、と述べる。
言語は記号体系である。しかし何が言語を他の記号体系と分別するのか? バンヴェニストは、ソシュールにおいて言語学とsémiologieの関係はあいまいなままに終わったとする。ただ、この2つの学をつなぐものとして提出されている概念がある。それが「記号の恣意性」(p.49.)であり、これが記号体系としての言語がもっともsémiologieの特質を表す理由であるとする。
バンヴェニストの本論文での目的は、この「記号の恣意性」にとどまった言語のsémiologieとしての特殊性を画定し直すことにある。
バンヴェニストはまず私たちの社会生活が記号の体系から成り立っていることを確認する。
「私たちの生活全体が様々な記号の網の中に埋め込まれている。そしてその記号の網は、どれかひとつでも欠けるならば、社会と個人の均衡が崩れるほどに、私たちの生活を条件づけているのである」
つまりバンヴェニストがここでいう記号とは、私たちが他者と社会生活を営む上で、その秩序を構成するものであると言ってよいであろう。
これに続いてバンヴェニストはsémiologieの体系を特徴づける4つの要素を挙げる(p.52.)。
1. le mode opératoire : 記号が作用する様式
2. le domaine de validité : この体系が認められる領域
3. la nature et le nombre des signes : 上記の条件における記号の機能
4. le type de fonctionnement : 上記の機能の類型
さらにバンヴェニストはsémioligieの体系における2つの原則を挙げる。
1. 体系間の非-冗長性の原則:たとえばことばと音楽のように、たとえ「聞く」という共通の特性をもっていようとも、異なる記号体系間では、それぞれの機能を交換することはできない。だから冗長性は生まれない。しかしアルファベットと点字のような同じ記号体系では交換が可能である。
2. 二つの記号体系は同じ記号を持つことできる。しかしその記号はそれぞれの体系で異なった機能を帯びる。たとえば信号機の赤と三色旗の赤である。したがってある記号の価値は、その記号が含まれる体系の中でのみ有効である。
バンヴェニストはこのようにsémioloigieの体系間の関係の原則を述べたうえで、その体系には「解釈を行う」体系と「解釈を行われる」体系があるとする。そして前者こそが言語の記号体系であるとして、sémioligieにおける言語の特性を主張する。そしてこの体系間の比較をするための条件として、sémiotiqueな体系と呼べるものは次の3つの要素を備えていなくてはならないとする(p.56.)。
1. un répertoire fini de signes : 記号の一覧が完結していること
2. des règles d'arrangement qui en gouvernent les figures : 記号から派生するフィギュールを統制する配置の規則があること
3. indépendamment de la nature et du nombre des discours que le système permet de produire : 記号、およびフィギュールは、その体系が生み出すディスクールの性質、数とは独立していること
バンヴェニストはこの条件を出すことによって造形芸術のような芸術は、ある決まった記号の統一体を形成できず、sémiotiqueな体系のモデルを提出することはできず、言語体系ともほど遠いととする。つまりバンヴェニストは意味の体系の成立には、その体系が閉じていることが重要であると考えているのだ。それがunitéである。そしてそのunitéは、芸術の世界にはないものとして考えられる。言い換えれば前述した秩序の構成とは異なる次元に、芸術の世界は不定型のまま成立しているのではないだろうか(この辺りがMeschonnicが主張していることではないか)。ある一定の記号的拘束を持ちながらも、意味の生成にそのつど立ち会うのが芸術の世界と言えるのではないだろうか。
それに対して「言語は統一体からなるla langue est faite d'unités」とバンヴェニストは述べる。一方、例えば音楽の要素である「音」は、記号ではない。なぜならば、バンヴェニストによれば「いかなる音も意味を生む要素を持っていないaucun n'est doté de signifiance」からだ。ここにバンヴェニストは言語と音楽の差異を認める。意味するものの統一体をもつ体系としての言語と意味しないものの統一体をもつ体系としての音楽の差異である(p.58.)。
しかし、本当に音は意味を生む要素を持っていないのだろうか。ここにはバンヴェニストはソシュールと同じく言語の領域から心理を排除する傾向を認めることもできるのではないだろうか。それは音表徴の問題だけではない。この音のもたらす表徴は個人の問題だけではなく、おそらく他者とも共有されるはずのものである。つまり記号性がお互いの間で必ずしもやり取りなされていなくても、音という物質世界との間での交感が生まれるのが芸術世界ではないだろうか。これが不定型の世界=芸術の世界である。
あくまでも言語の特殊性の確立を目指すバンヴェニストは、芸術とは芸術家がそのつどみずからのsémiotiqueを創造してゆくことで生まれると考えている。色(=記号を形成する要素)は意味をもたらすのではなく、むしろ芸術家に奉仕する存在である。すなわち、芸術家が色を選択し、それによって絵画を構成することによって「意味が生み出されてくる」のだ。だからこそ、絵画においては記号の一覧は完結しない。あるのは「表現すべきヴィジョン」(une vision à exprimer)である。
したがって芸術作品と言語ではその体系は意味の生成(signifiance)という点で異なっている。前者は意味の生成は、その作品世界を構成する諸関係から生まれ、それはそのつど見いだされるものであるのに対して、言語における意味生成は記号そのものにすでに内在しているのだ。記号そのものに内在しているがゆえに、だからこそあらゆる交換、あらゆるコミュニケーションが成立する(p.60.)。
そしてバンヴェニストの主眼は、「音、色、イメージ」といった非−言語的体系のsémiologieは、言語のsémiologieによって初めて成り立つということにある。すなわち、これこそが言語のsémiologieの特質なのである。他の記号体系は、それがsémologieとなるためには、「言語の介在le truchement de la langue」が必要なのだ(p.60.)。言語こそが他のすべての体系を解釈づけるーこれが本論文の目的である。
ここでバンヴェニストは、sémiotiqueな体系の関係を次のように分類する。
1. ある体系が別の体系を生む:アルファベが点字を作り出す。同じ性質と異なる機能を持つ。
2. 類似の関係:ゴチック建築とスコラ哲学の類似性のように何らかの関連づけがなされる。
3. 解釈の関係:「言語はすべてのsémiotiqueな体系の解釈を行う」という意味での関係である。
この意味で言語は社会をすら包み込む。そしてバンヴェニストは、言語におけるsémiotiqueな体系を次のようにまとめる。
1. 言語は、énonciationすなわち、話すこと=何かについて話すという事実によってその機能を明らかにする(話す行為には何らかの解読されるべき意味が携えられている)。
2. 言語は、区別されうる単位=記号からなる。
3. 言語は、共同体すべての成員によって参照される価値の中で生まれる。
4. 言語は、間主観的なコミュニケーションを顕在化させる。
こうして記号の機能が明示される。ここにあるモデルはまさにコミュニケーションの了解からみればきわめて静的なモデルである。つまり言語と芸術の間には根本的な体系の差異があるとするのがバンヴェニストの立場である。
ではこの言語の特質はどこから来るのか、バンヴェニストによれば、それは言語がsignifiance<意味生成>の二つの様式を兼ね備えているところから来る。その二つの様式とはsémiothiqueとsémantiqueである。
sémiotiqueとは単位として構成される記号のもつsignifianceの様式である。これはmarques distinctives「差異の標章」によって成立している。この記号は閉鎖された体系によって成り立っているものであり、だからこそ、言語共同体の全員によって認識された「signifiant」なのである。したがってそれは認められるものである<再認>。
それに対してsémantiqueとはディスクールによって生まれるものである。ディスクールのメッセージとは、記号の積算に還元されるものではない。それは全体で構成された意味なのだ。こちらは理解されるものである<新たな意味の了解>。
言語はこの二つの領域ーsignifiance des signes et la signifiance de l'énonciation-を持っていることがその特質なのだ(たとえば礼儀作法は、sémantiqueなきsémiotiqueであり、芸術はsémiotiqueなきsémantiqueである)。
こうしてバンヴェニストはソシュールの「言語のsémiologie」を、sémiologieを排除することなく、sémantiqueを導入することによって、閉じられた記号の体系を前提としながらも、意味の生成という主体の発話を導入することによって、あらたな意味の場を構築しようとしたのである。
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