林みどり「震災とトラウマのことば」(『津波の後の第一講」2012所収)

 美しく、そして誠実な表現で語られている。ことばに携わるさまざまな人の表現をひきながら、そこに深い考察を加えている。表現も内容も優れた講義録である。

 著者の林みどりはラテンアメリカ思想文化史の研究者。問いの中心は「震災とことばがどう切り結んでいるか」。

 震災があったとき、まず訪れるのはことばの無力化である。林は大地震に遭ったメキシコの小説家パチェコのことばをひき、それまで繰り返し使ってきた「塵、灰、惨禍、死」といったことばが、大惨事を前にしてその機能を失ってしまったという体験を紹介する。続いて、辺見庸、佐々木幹郎のことばから、二人がことばを失う体験をしたことに触れる。

 その一方で、ことばの喪失とは逆に、「饒舌なまでにことばを発信する」、詩人和合亮一の作品を引用する。その作品で多用される「!」の意味を、林は「ことばがことばになろうとする瞬間に、その閾の領域で凍りついてしまった呼吸そのものだ」と形容する。

 続いて林は、喪の作業をめぐるジュディス・バトラーの考察へと移る。バトラーによれば、喪失の経験とは「相手の不在を経験するだけでなく、自分自身のなかの何かが決定的に変わってしまう事態を経験する」ことだと言う。バトラーはそれを波の比喩を用い、「ひとは波に襲われるhit by waves」と表現する。私たちは、波に襲われることによって、過去から未来へと延長線をひきながら、日常を生きることがもはやできなくなってしまう。

 この経験を、林は心理学用語の「ベーシック・トラスト」(基本的信頼)が根源的に破壊されてしまった事態だと説明する。このベーシック・トラストの毀損から、私たちがこれからどうやってあらたな思考やことばを獲得できるか、それが私たちの責務であると、林は声高ではなく、一貫性を持って主張する。

 トラウマのことば。それはどのようなものであるか。トラウマは「声なき声」(宮地尚子)であり、その意味では「トラウマはことばにならない」。しかし林は、この原則が侵されることがままあると言う。

なぜなら、ひとは、ことばにならない経験を他者に伝えたいと願うからです。苦しみを、恐怖を、悲しみを、憤りを他者に手渡すことによって、他者とつながりたいと絶望的に願うからです。

 こうして「うめき声の断片が結晶」(宮地)になり、詩が生まれる。パウル・ツェラン、そしてアルゼンチンの詩人フアン・ヘルマンの詩が紹介される。ヘルマンは、アルゼンチンの軍事独裁政権化で息子夫婦の強制失踪に遭い、その喪失を詩にした。その詩は、今ここにいないー非在の者へに向けられたことばであり、その意味で詩は対話的である。対話をする以上、その行為は追悼や鎮魂ではない。あくまでも相手は対話者なのだ。喪の作業にはならない、林の言う「宙づりの感覚」、「幽きものたちの強度」に満ちているのがトラウマのことばである。
 
 最後に林はチリ地震の証言者のことばをひきながら、その語りの外にある事実と、語りの内容のギャップではなく、大切なのは証言者が生きた「リアリティの重み」であると言う。このリアリティは悪夢であり、恐怖であり、それから引き起こされる、「叫びや行動」である。これらは整然としたことばにはなりえない。だがこの「詩学の証言」こそが、私たちを共感へとつなごうとする。

自分と同じ経験を生きのびたひとたちと恐怖や怯えの思いを共有すること。恐怖の経験を語りあい、ことばにならない部分をふくめて抱きとめあうこと。苦しんでいるのは自分だけではない。だれもこの辛さをわかってくれないわけではない。たがいに悲惨な出来事の生き残りであることを認めあい、たがいの証言の証人になることを受け入れること。

 これらのことばは、叫びや断片にしか過ぎない。物語のような体系ももたない。しかしその欠片に耳をすまして聞き入り、他者と経験を共有すること。その時、この声を聞く者は必ずしも体験者である必要はない。証言を前にして、その声をきちんと受けとめ、別の他者へとそのことばを伝えることが大切なのだ。ことばが完全である必要はない。むしろ、その不完全さ、壊れやすさに自らの感受性を発揮することが求められるのではないか。
 
 この文章は、南アフリカ出身の作家クッツェーの『フォー』の引用で終わる。登場人物の元奴隷フライデイは舌が切られたためことばを発することができない。沈黙といういわばことばの不在の極限である。しかしこの小説の最後、フライデイの口が開く。さて、そこでことばは聞かれるだろうか。おそらく私たちは、ことばがなくても、その存在の傍らにいることで、対話を始めることだろう。通常の伝えるための、意味に満ちたことばではない。しかし、私たちは共感を持って他者(失踪者や死者もふくめて)によりそうとき、そこにはやはりことばが流れるに違いない。そのことばこそが、詩である。