Marianne Rubinstein, C'est maintenant du passé (2009)

 C'est maintenant du passé. 『今昔物語』の「今は昔」のフランス語訳がこの作品のタイトルである。過去は遠いようで近く、近いかと思えばやはり遠い。私たちの生きられる時間は伸縮する時間である。ある遠い過去が突然目の前に思い出されてくる。かと思えばつい一週間前のことがすでに遠く過ぎ去ったかのように感じる。私たちの生きられた時間はそのような伸縮する性質を持っているのだ。
 ユダヤ系の父親を持つ筆者は、ナチスによる連行の果てに命を落とした父方の祖父母の痕跡を辿ろうとする。筆者は1966年生まれ。父親は1935年生まれである。過去もひとつの生きられる時間である以上、父親にとっては、父母の体験は、今と自分と直接につながる時間であり、その過去についての父の最初の態度は「沈黙」であった。それに対して、戦後生まれの筆者にとっての祖父母の過去とは、直接的には知りえぬ過去であり、父を介してかろうじてつながる過去である。なぜそれを語りの対象とするのか。
 当事者が両親であるところの父は、沈黙を選択する。筆者はその沈黙は「他者の不信や無関心」から「思い出」を守るための沈黙であると言う(pp.80-81.)。この沈黙がse taireであるならば、筆者自身が求めるのはsilenceである。この沈黙は、何かを言い終わったあとに心に生まれてくる「平穏の空間」(un espace paisible en soi)である。何かを封印するのではなく、「言うべきことをそのしかるべき形式で言うこと」を作者は模索する。
 当初の計画では、«saga familiale»を書くつもりであった。「サガ」とは幾世代にも渡る一族の歴史を物語る文芸形式である。あらゆる日常の出来事、そのときの人々の感情、ショアーによって打ち消されてしまったものすべてを復元すること。しかしながら筆者の手元にあるのは、過去の切れ端だけであり、それをサガにするには、内容を書き加え、補足し、脚色をしなくはならないだろう(p.40.)。だが、ショアーの<歴史>の中で死んでいった家族の<体験>について語るためには、まさにこの切れ端を掬い取るしかないのだ。なぜなら彼らの人生は、壊れやすく、満たされることがなくとも、かけらとして今ここに残されてあるものだからだ。それは「彼らの存在の痕跡」(des traces de leur existence, p.149.)であり、「生の切れ端」(des lambeaux de vie, p.150.)である。
 だからこそ、この作品には、大きな構成はない。断片を集める過程と、その断片の繋がり、そして同時に、繋がりを欠いたままただそこに置かれるだけの切れ端がある。
 物語として成立しえないエクリチュールを作者に可能ならしめたものが、作品の中に折をみて挿入される日本の古典文学である。俳句、清少納言の随筆。それらは最小限のことばで、機敏な、そしてときに刹那的な感情の起伏を描く。それらを助けとして、筆者は過去の日常を語ろうとする。
 過去を過去として復元する語り(物語)が復元できないならば、どのような書き方になるのか。それは過去を語る人を、過去を語る事物(手紙、資料)を語るしかない。私がどのように過去を求め、どのような手だてを使って探求をするのかを書くしかない。
 したがってこの作品の「今は昔」は、最終的には今に重きが置かれる。私が知りえた過去ではなく、過去を知ろうとする現在の私について書くしかないのだ。だからこそ、私が知っている過去を語ろうとはしない父と激しい対立を生むのだ。父親は言う。「私の中で何かが、もうずっと前から、決定的に死んでしまっているのだ」。
 証言者ではない筆者はこの父親の場所に立つことはできない。筆者は親類たちのことばを記録としてとどめる。筆者はみずからが書く理由、書く方法をめぐって、日本の古典文学を引用し、2007年にメディシス外国文学賞をとったMendelsohnのLes Disparusに、そして断片として記憶を語るPerecのW, ou le souvenir d'enfanceに依拠し、Annie Ernauxとの世代の違いに言及し、そして最後にAppelfeldのことばを引く。「完全であることは虚偽である。(...)想像力とは、人を特異なもの、例外的なもの、仮のもの、そしてもっと悪いことには、異常なものへと導いてしまうのだ」。
 この作品に想像力で書かれた一節はどこにもない。ここにあるのはMarianne Rubinsteinという一人の女性のune vieである。この«une vie»が、このエクリチュールの実践によって祖父母の«vie»とつながりうるのだろうか。そして、私たち読者の生とつながりうるのだろうか。少なくとも本作品がユダヤ民族の救済という信仰を免れているのは、日本古典文学への憧憬のおかげであると言える。繊細なもの、断片的なもの、しかし、確固として存在するもの。そうした存在の普遍性を、この作品から受け取ることができるのだ。
 わたしたちの時代は第二次世界大戦の過去をそのまま引き継ぐことができない時代に来ている。記録を保存することはできよう。しかしその保存された記録にどのような態度で対峙すべきなのだろうか。『今は昔』はすでに教訓性を失っている。ここにあるのは、先ほども述べたように「私」の生のあり方であり、過去に対する自分の自らよって立つ場所の探求である。その私の態度は、少なくとも記録を改竄することはない。しかし記録を解釈することもない。サガとしての物語を拒否したこの作品には、断片がパズルのピースを欠いたまま置かれているだけだ。現代の『今は昔』は、私たちを物語世界へとは誘わない。物語の訴求力のもつ虚偽を拒否し、断片の痕跡を文学の対象としたときに、私たちと過去の関係はきわめてあいまいなものにならざるをえない。この挑戦をしているのが現在のフランスの「私小説」なのだ。