シモーヌ・ド・ボーヴォワール『別れの儀式』(Simone de Beauvoir, La cérémonie des adieux), 1981.

 先日ボーヴォワールの最初の小説『招かれた女』を読むために、河出書房版の『世界文学全集』を手に取った。そこに挟まれていた「月報」に白井浩司による紹介文が載っていたのだが、これが文学全集の案内にあるような入門的な解説文からはほど遠い、辛辣な批判的文章であったのに少々驚いた。白井は『招かれた女』こそボーヴォワールの小説のなかで第一等の作品だと見なしているが、それはこの作品以外には、たとえばゴンクール賞をとった『レ・マンダラン』もふくめて、きわめて底の浅い作品しかないと言っているに等しい。その『招かれた女』でさえ、白井は様々な欠陥を指摘し、評価しているのは登場人物グザヴィエールの人物造型だけである。だがそれさえも結局は女性しか描けない女性作家の限界であるとして、ボーヴォワールの小説家的な価値をほとんど認めていない。
 白井が評価するのは『第二の性』であり、確かにこの紹介文が書かれてから半世紀が過ぎた現在であっても、ボーヴォワールの著作として読まれ続けているのはほぼこの作品に限られるかもしれない。
 しかし、ここで読み返したいのはボーヴォワールの自伝的な作品である。もちろん文字通りの自伝と言える『娘時代』(Mémoires d'une fille rangée)、『女ざかり』(La Force de l'âge)もあるが、「私」が主人公でなくとも、語り手として近親者について、とくに近親者の死について綴った著作がある。母の死について書かれた『おだやかな死』、そしてサルトルの死について書かれた『別れの儀式』である。この二作を特徴づけるのは、ボーヴォワールの書くというよりは記録をしようとする観察眼である。前者ではたとえば「母はもはや生命の抜けがらであり、しばしの猶予をあたえられた死骸でしかない」と、母ではなくあたかも物と化した肉体を冷徹に描写する眼である。そして後者では、ボーヴォワールは自らを証人と位置づける。すなわち、この書はサルトルについて情報を求める人のための証言として書かれたのであり、そのためにサルトルを見つめる眼は、出来事の外側に置かれている。
 この書物はボーヴォワールが十年にわたってつけていた日記をもとにしている。日記とはまずは備忘録であり、日々の記録を集積したとしても、それがひとつの建物のように統一された構築物になるわけではない。むしろここにあるのは観察記録として残されたサルトルの日々の動静である。その動静は社会的な活動と老いと病に侵され意識さえ朦朧とする姿の対比である。そのサルトルの姿が日付とともに克明に記されている。
 この観察眼が象徴するように、サルトルとボーヴォワールのカップルの間には距離がある。実際二人はお互いをvousで呼んでもいる。もちろんボーヴォワールはサルトルの死への接近に絶望をする。またサルトルの「ぼくのカストールに辛い思いはさせたくないな、ほんのわずかでも」(Je ne veux faire à mon Castor nulle peine même légère)という言葉を書き留めてもいる。死の間際には、サルトルとの最後のキスが次のように描かれる。

四月十四日、私が着いた時、彼は眠っていた。彼は目をさまして、目を開かないまま私に何か言った。それから唇で私を求めた。私は彼の唇と、頬に接吻した。彼は再び眠った。

 それでもこのカップルは、共に生の時間を過ごし、また強く結びついてたとしても、決して「ひとつになる」ことはなかった。この主体のあり方をあいまいにするような恋人同士の融合という考えを、ボーヴォワールは決してとらなかった。それは『女ざかり』でも述べられていた。
 二人の間に厳然と存在する距離ーそれは、ボーヴォワールの死生観の反映でもある。ボーヴォワールにとっての死とは、人間の最終到達点ではなく、事故である。人間の存在には決定的な意味づけや価値づけはない。意味や価値の不在こそが人間の生きる確証であるとするならば、死はこうした人間の不断の意味づけを決定的に奪ってしまう暴力に他ならない。だから、わざわざボーヴォワールは最後に「彼の死は私たちを引離す。私の死は私たちを再び結びつけはしないだろう」(Sa mort nous sépare. Ma mort ne nous réunira pas)と書くのだ。死後を甘く彩ることなどボーヴォワールにはありえなかったろう。それほど死の事実は歴然としている。
 だが、このあとにボーヴォワールは最後のことばを書き記す。「こんなにも長い間共鳴し合えたこと、それだけですでにすばらしいことなのだ」(il est déjà beau que nos vies aient pu si longtemps s'accorder)。この日本語訳の「共鳴」に注目したい。共鳴とは決して一緒になることではない。そもそも共鳴とは二つのものが離れていなくては起きない現象なのだ。融合したものは決して響き合わない。主体の存在を前提としたnousであるからこそ、accordするのだ。「共鳴」こそ、このカップルの本質であったことを教えてくれる締めくくりである。