マルセル・プルースト(Marcel Proust)、「読書の日々」(1905)、『プルースト文芸評論』(筑摩書房、鈴木道彦訳)

 子供時代の読書の回想から始まり、私たちは、その記憶の風景に瑞々しい感覚の充溢を感じる。しかしこのエセーが読書論である限り、この作品の中心は知性の働き、思想の創造的な構築にあるのではないだろうか。
 プルーストは、ラスキンの講演に同意するかにみえて、実は会話にも比せられるラスキンの教養としての読書とは異なる、読書の観念について語っている。それは、読書とは会話とは異なり、「他の一つの思想からコミュニケーションを受ける」ことであり、そのためには読者は、強靭な知性を持っていなくてはならない。それは、単に自己の精神を深めるということではなく、他者から思想を受け取った上で、それを知性によって深めながら、自らも思想を創造してゆくーそこに至ってはじめて読書の価値があるということではないだろうか。
 読書とはしたがって読んで終わりではなく、あくまでも出発点である。書物とは読者にとってあくまでも「うながし」なのだ。「われわれの叡智は、著者のそれの終わるところで始まる」とプルーストは言う。思想を創造してゆくとは、自らの知性の営為であり、だからこそ、書物に回答はなく、私たちには、読書の後に、回答を求める欲望が生まれてくるのである。「読書は精神的生活の入り口にある」のだ。自分で考え、独創的活動をしない以上、読書とは結局無駄ではないのか。書物には真理があるのではなく、真理の予告があるだけで、真理は、読者の「生人の個人的な創造」によって生まれるのである。知識で頭を虚しくするという表現が浮かんでくる。それは知性の頽廃と言ってもよいだろう。
 最後にプルーストは古典の意味に触れている。そこには「もう二度と作られることのない美しいもの」があると。過去の名残、廃棄されたことば。失われた美に私たちは読書を通じて出会うのである。
 プルーストのテキストはいつも格言で満ちているが、この作品にも次のような言葉があった。「われわれ生者はみな、まだ職務についていない死者にすぎない」。