may.e, 私生活(2013)

shiseikatsu.jpg 懐かしい親しさがするアルバムだ。といってもどこかで聞いたことがある音楽という意味とは少し違う。確かにこの音源を初めて聞いたとき、真っ先にトレーシー・ソーンの『遠い渚』を思い出した。でもそんな過去の音楽を引き合いに出さなくても、何かどこか、懐かしく、そして親しい。

 それはどこからくるのだろう。この音楽を聞いていると、曲になるまでの雰囲気が何となく伝わってくる。まずはアーティストに対する親しさ。ふと曲の一節が浮かんできて、それを口ずさんだとき、もう少し歌ってみたい、声を伸ばしてみたいという感覚。楽器に触れたら音が鳴って、それをもう少し鳴らし続けてみたいという感覚。そんな素直な衝動が伝わってくる。

 そして印象的なリフレイン。シンガー・ソングライターの特質でもある、少ないコードを繰り返しながら、歌のメロディを乗せていく手法は、簡素ではあるが、私たちにとって何かなじみ深い印象を与える。

 たとえば「おちた生活」は、まるで眠りにおちる直前に聞こえてくる子守唄のように、美しい声の音色を聞かせるだけだ。でもそれが懐かしい感覚を呼び覚ます。

 歌詞は、同じメロディに、短いことばが置かれて、ことば同士が強く結びあわされる。

丸い空気 愛でていて
広い両手 あなた               (あなた)

 そして深いエコーがかけられた声が美しい。特に短い単語の母音を伸ばす歌い方は、日本語の母音の持つ、まろやかさをうまく使っている。

何よりも優しい 何よりも柔らか
声 肌 髪               (おいで)

 最後の三文字の母音、「エ」、「ア」、「イ」の音がとても印象的だ。あなたの声や肌や髪の優しさや柔らかさの親しい感触を、母音がもたらす優しい柔らかい音色で私たちも体感する。

 この母音の音色は、このアルバムのおぼろげで、少し憂いがあって、ドリーミィでもある空気を作るのに実に効果的である。

優雅 眠れば 消えてしまいそう
→ ゆぅうが ねむれば きえぇてしまいそう
確か なぞれば すぐに止む
→ たぁあしか なぞれば すぐにやぁあむ
目を閉じれば ついこぼれて
→ めぇえを とぉじぃれぇばぁ つぅい こぼぉれて
波寄せるまで そっと待つ
→ なぁみ よせぇるまで そうっと まぁつ  (スリープ)

 文字に起こすとちょっと変だが、このたゆたうような歌い方が、エコーの深さをとあいまって、私たちを夢幻の境地へといざなってくれる。

 アルバムとしての完成度も高いと思うのは、ダウンロード音源の最後の3曲の構成の素晴らしさだ。「スリープ」の出だしのギターの音は少し力強く、多少ロマンティックで、終わりが近づいてきた予感にうたれる。「浜においてきて」は、このアルバムの中では、感情の起伏が大きい曲だ。ただ感情は乱れることなく、音程の起伏へと昇華される。最後の「いつか どうか 何も言えない」の最後で、感情の糸が切れてしまうかのように、高音になり、ふっつりと一瞬、声が消える。そして最後の「モユルイ」は、ギターの音数も少なくなり、メロディは私たちをゆっくり揺らす。

 作品全体に靄がかかったような空気は、おぼろげで、あいまいで、親しげで、懐かしい。創作というよりもむしろ一つの記録と言ったほうがよいかもしれない。アーティストの日記のようなものかもしれない。しかし、プライベートな生活空間で生まれた叙情詩は、私たちにとってきわめて親密なノスタルジーの情をもたらしてくれる。

 言語の分析する手法として何が有効だろうか。バンヴェニストが提案するのは、niveau「レヴェル」である。分析とは、言語要素を、それらを結びつける関係を通して、確定することである。これらの要素を分析するための実際上の作業としては、次の2つが挙げられる。ひとつは分割化(ségmentation)、もうひとつは代置(substitution)である。

 分析には、対象をこれ以上はできないところまで細かくしていく作業がまず必要となる。そのあとに分割化した要素に代置の作業を施すことによって、その要素の性質が理解できる。

 たとえば、raisonを音素に分析する。[r-e-z-o-n]。そして[r]を[s]に代置するとsaisonになる。こうした代置によって、他の記号になるということは、まさに記号は、他の記号との差異関係によって成立していることを示している。またこれらの音素はどれもが等しく配置されるという意味で、それぞれが等価値であると言える。この等しさはsyntagmatique(連辞的)にも(r, e, z...)paragmatique(範列的)にも(rezon / sezonのrとs)2重に言うことができる。

 ここで分割化と代置化の違いを音素と弁別特徴を取り上げることによって指摘することができる。代置化は分割化不可能な要素に対しても行うことができる。例えば[d]の弁別特徴である、「閉鎖」、「上前歯裏」「有声」、「帯気」と言った要素は分割化不能であるが、それぞれの要素を代置化することはできる(たとえば有声に代えて無声とすれば[t]になる)。そして分割化不能な要素はsyntagmatiqueなクラスを構成することはできない。

 したがって、分析に2つのレベルを認めることができる。分割化と代置化の両方が可能な音素レベルと、代置化だけが可能な弁別特徴レベルである。バンヴェニストはそれぞれのレベルとphonématique、mérismatiqueと呼ぶ。

 ではphonématiqueの上位レベルを見いだすことはできるだろうか。音の単位を成立させるのが意味であるのが明らかな以上(私たちは音素の連続を見て、それを単位として認めるのは、その結合したものに意味を認めるからである)、上位レベルに設けることができるのは意味である。そして意味こそ、「あらゆるレベルのあらゆる単位を満たす根本的な条件」である。そもそも音素は、それを含む上位のレベルの個別の単位に依拠しないでは存立しないのである。その単位とはmorphème(語彙素)であり、記号のレベルである。言語のレベルはかならず上位のレベルに包摂されないと存在しえない。

 記号(=語)は、下位レベルのphonématiqueに分解できるし、他の意味単位とともに上位レベルの単位に入ることもできる。その上位レベルとは文である。重要なことは「文は語によって実現されるが、語は単に文の分割要素ではない」(La phrase se réalise en mots, mais les mots n'en sont pas simplement les segments)ということである。

 簡単に言えば、語の意味の総和が文の意味とは限らない、ということだろう。独立した単位として持っている意味(=辞書的な意味)が、必ずしも文において現前化するとは限らないのだ。独立した単位で語を考えるならばそれはlexique、paradigmatique(他の単位との比較検討)となり、文として考えるならば、当然だがsyntagmatiqueとなる。

 ここで言語要素と言語レベルの関係について検討する。同じレベルでの言語要素の関係は配置関係(les relations distributionnelles)、違うレベルでの言語要素の関係は統合関係(les relations intégratives)と呼ばれる。

 そしてある単位は、上位レベルの単位の「統合的な部分」として同定されて初めて、そのレベルで 弁別的なものとして認識される。たとえば、[s]が音素としての地位を持つのは、salleにおいて[al]と、seauにおいて[o]とそれぞれ統合要素として機能するからである。また[salle]が記号となるのは、à manger, de bainとそれぞれ統合されるからである。

 そうすると上位レベルの文は、構成要素は含むが、それ以上の統合される単位というのは持たない。下位レベルのmérismeは、逆にいかなる構成要素も含まない。記号のレベルだけが、独立しており、構成要素も統合要素も含み込んでいるのである。

 ここでバンヴェニストは、形式と意味の問題に言及する。単位を構成要素としてみなすとき、その単位は「形式要素」とみなせる。たとえば文を諸単位に分割しても、現れるのは形式的構造だけである。一方それとは逆に統合化は、単位を意味的単位とする。つまり形式は、下位レベルの構成要素として分解できるものとして定義され、意味は、上位レベルの一単位に統合されるものとして定義される。

 したがってある単位が意味を持っているということは、それを「命題関数」(fonction propositionnelle)とみなすことができる。すなわち、その単位を上位レベルにはめ込むことによって=統合することによって「意味する」とみなせるのである。

 さらにバンヴェニストは意味の意味を問う。すなわち私たちが「意味」と呼んでいるものは一体何だろうか。ここでバンヴェニストは指示の有無によって意味を二層にわける。

 最初は、言語の要素がその本質(propriété)として意味を有する場合で、そは他の単位と弁別的、対立的に画定できる単位である。そしてこの意味単位はその単位が属する言語(langue)の中に、その言語の話者によって同定される。このように言語は体系をなし、この体系は閉じていると言えよう。

 しかし同時に言語(langage)は、対象世界に対して指示機能を持っている。この働きは文として現れる。文は具体的に特定できる状況に関係づけられるとともに、文が含む下位レベルの単位は、経験、もしくは「言語慣用」(convention linguistique)の中で選択された対象へと関係づけられる。文はこのように意味と指示の両方を含む。

 ここで文という最終レベルの特殊性をまとめることができる。文は分割はできるが、統合することはできない。また文の特徴の第一は「述定」(prédicat)であることだとバンヴェニストは言う。さらに主語さえも、述定の働きによって決められると指摘する。

 このレベルはcatégorématiqueと呼ばれる。だが、phonèmeやmorphèmeに対応するcatégorèmeは、同じような単位として認めることができない。述定は文の根本的本質であるが、これは文の一単位ではない。述定にはそもそも多くの種類はない。したがってcatégorèmeは、形式としては存在するが、統合のための弁別的単位は構成していないのだ。つまり、文は複数の記号を含むが、それ自体は記号ではない。

 以上のことは次のようにまとめることができる。
 phonème, morphème, lexèmeは数えることができ、有限数である。しかし文はそうではない。phonème, morphème, lexèmeは同一レベルで配置が行われるし、上位のレベルにも使用される。文には配置も使用もない。語の使われ方の一覧表を作るとすればそれは無限になる。文にはそもそも一覧表さえない。

 では文とは何か。「文とは無限の創造、限界のない多様性、そして活動している言語(langage)の生そのものである」。文を考えることは、記号の体系である言語(langue)を離れて、ディスクールを用いた、コミュニケーションの道具として言語を考えることになる。文とはディスクールの単位である。ただしこの場合の単位は、同じレベルの他の単位に対して弁別的という意味ではない。ディスクールの単位は意味と指示の両方を持っているという意味で完結した単位である。文は意味作用を携えており、またある状況に関係づけられる。

 私たちは文にこの二重の特質を認めることで分析対象とすることができるのである。これはディスクールという意味と指示の両方を含むものを言語の分析対象とするバンヴェニストの決意表明とも言える論文である。

 始めにリクールは、哲学の伝統の中で扱われてきた想像力(あるいは像)の見取り図を描く。想像力には2つの軸がある。1つは対象に関わる軸。この軸の一方には対象の現前がある。その場には存在しない対象を再現する想像力である。他方には対象は不在である。その代わりに肖像、夢、フィクションが存在する。こちらは生産的想像力である。

 もう1つの軸は主体に関わる軸である。この軸の一方には、批判意識がまったくない状態があり、この場合、像は現実と混同される。他方には、批判意識がある状態で、この場合、想像力は現実を批判する道具となる。

I. ディスクールにおける想像力

 リクールは想像力の問題を言語に結びつける。すなわち隠喩の理論を適用することによって、想像力とはすぐれて「意味の更新」(innovatoin sémantique)を促すものとして捉えられる。想像力(像)は、私たちの心に浮かぶ場面のようなものではない。リクールが依拠するのは詩的想像力であって、それは「響き」(retentissement)に例えられる。響きとは、文字通りの音律ではなく、意味の振幅、意味の力動化(=多義的な意味の生産)と考えられるだろう。

 リクールの隠喩論の重要な点は、隠喩を名詞の逸脱的用法とするのではなく(隠喩を、それぞれの名詞がもつ通常の意味からのずれと考える)、文の中における述語の逸脱的用法としたことである。隠喩において、文それ自体は不適当となる。だが文が不適当となるゆえに、そこに隠喩という新しい適切さが生まれるというのがリクールの主張である。

 久米博は、このことを『テクスト世界の解釈学』で「隠喩は述語論理によって解釈すべき」と述べている。新しい意味は文から生まれる。たとえば、「海は母である」と言った時、この文の字義的な意味は不適当である(海は母ではないから)。しかし、私たちはこの文を読んだ時に、解釈への動かされる。しかもそれは海についてではなく、「母である」こと、すなわち、母とは何か、ということの理解に向かうのだ。解釈によって意味が更新されるとするならば、それは「母でない」が「母である」という矛盾を文が実現しているからだ。

 この矛盾から意味を生むのが隠喩の働きである。アリストテレスは次のように述べている。「よい隠喩をつくることは、類似を見ることである」(bien métaphoriser, c'est apercevoir le semblable)。リクールは、この類似における力動性を重要視する。

「類似とは、それ自体、おかしな述定の用法の機能である。類似は、それまでは離れていた意味領域の間の論理的な距離を急になくしてしまう接近の中に存在する。それによって意味の衝突が生じ、続いて、隠喩の意味の輝きが作り出されるのだ。」

 想像力とはしたがって、意味領域を新たに作り直すことである。この更新の運動こそが想像力である。リクールは、ウィトゲンシュタインの言葉を引き、それを「〜として見る」(voir-comme...)とも呼んでいる。またカントの図式論を援用し、カントの生産的想像力は、「隠喩的述語付与を図式化することによって、発生する意味作用にイメージを与えることである」(久米、p.116.)とも言っている。

 このことはフィクションの問題とも深く絡んでくる。想像力は、知覚のあるいは行動の世界に対して、その中に踏み込まずとも、さまざまな可能性との「自由な遊び」(un libre jeu)を可能にするのだ。だが、それはこの世界と離れたところでの知的遊戯ではないだろう。自由な遊びは、「新たな思念や、価値や、この世界での新しいあり方」を生み出し、それがこの世界への批判へと結びつきうるからだ。

II. 理論と実践の間に位置する想像力

1. フィクションの発見術的力

 さて、想像力の問題をディスクールの領域からさらに拡大する際に、重要なのは、この想像力が「指示作用の力」を持っているという点である。

 確かに詩的言語は、現実への指示機能を持つことなく作用する。ディスクールの領域から離れるということは、ディスクールのもたらす状況内での指示機能を失うことを意味する。だが、リクールにとってこの認識は第一段階に過ぎず、その第二段階においては、詩的ディスクールは、私たちを生の世界に存在せしめ、また他の存在と存在論的関係を結ばせると言う。

 確かにフィクション世界が指し示すのは、どのような現実ともつながりを持たない「非ー場所」(non-lieu)である。だがそれゆえに、フィクションは、新たな「指示効果」によって現実を間接的に対象とすることができる。その効果とは「現実を書き直すことのできるフィクションの力(le pouvoir de la fiction de redécrire la réalité)である。これがフィクションの発見術的力であり、これによって現実の新たな多層性を私たちは創造するのである。

2. フィクションと物語(récit)

 ではこのフィクションと想像力はどのように実践されるのか。第一には人間の行為に対してである。ここでリクールはアリストテレスの『詩学』を引き、アリストテレスが詩(ポエジー、ここでは悲劇の模倣(ミメーシス)機能と物語の神話的構造を結びつけていることを指摘する。この指摘はリクールの文脈で次のように理解される。

フィクション - ミュトス(筋)- 物語の神話的構造 - 構造化されたフィクション
書き直し - ミメーシス(模倣)- 詩(悲劇)の模倣的機能 - 書き直される行為

 フィクションは、現実から独立した構造を持っている。その意味では虚構というより、仮構と言った方が、空想という意味に陥らず、独自構造の存在により明確に気づくことができるだろう。そしてこの構造の中で、人間の行為が、模倣というレベルで書き直しされる。すなわち、現実と一見同じような行為が書き込まれているようでいて、構造の中に書き込まれた行為は、現実の模写ではなく、人間行為の本質が書き直されて描かれているのである。この書き直された現実を体験して、私たちは再び、現実へと帰還してくるのである。

 だが実践はこれだけではない。フィクションが模倣の行為のレベルに限られるならば、書き直されるのは、すでにそこにある行為だけになってしまう。詩学が求めるのは、叙述的価値を持った書き直しというミメーシス機能だけではない。想像力にはもうひとつ、投映機能もある。

3. フィクションと<〜することができる>

 ここでリクールは個人的行為の現象学を援用する。想像力がない行為はないが、それは次の3つの面で言うことができる。企図、動機、行為力である。企図とは、想像で先取りし、未来へと転じる想像力であり。企図と物語は、前者が後者から構造化の力を借り受け、後者が前者から先取りする能力を借り受ける関係にある。つまり物語という過去へ志向をもつものが、未来という軸を獲得することもできることを意味している。

 動機と想像力は、後者が前者に場所を提供する。その場所で、さまざまな動機が比較・検討される。動機は、物理的な原因との差異、そして論理的な理由付けとの差異として想像力の中で実践的に位置づけられる。そして「もしのぞめば、これやあれができる」と、私の望みが動機付けの地平に形象化されるのである。

 そして3つ目が「私はできる」という可能性=力である。私たちはさまざまなヴァリエーションを想像しつつ、行為主体として自らの力を認識する。それは、、言語モードとしては条件法として表せる。

 こうして企図から、私の望むことの形象化、そして「私はできる」という想像的ヴァリエーションとして可能的実践を描くことができる。これはカントの「想像力の自由な遊戯」とも言えるだろう。

4. フィクションと間主観性

 ここまではしかし、想像力は個人的な性格に留まっていた。次に考えなくてはならないのは、社会的な想像力であり、歴史的想像力である。出発点となるのはフッサールの間主観性理論である。

「経験の歴史的領域というものがある。なぜならば、私の時間領域は、対化と呼ばれた関係によって、別の時間領域に結びつけられているからである。
 
Il y a un champ historique d'expérience parce que mon champ temporel est relié à un autre champ temporel par ce qui a été appelé un relation de «couplage» (Paarung).

 別の時間領域と言う以上、私たちは、同時代人だけではなく、過去の人とも、未来の人とも関係づけられる。そしてここに認められるのは相似的関係性(北村、p.210.)の原理である。これは、私たちのおのおのが、他の人と同様に、「私」の機能を実行することができ、自分自身の経験を自己に帰すことができるという原理である。

 ここでリクールがカントに基づいて強調するのは、これが「超越的原理」であるということだ。すなわち、議論による疑問や検証の提示を待たずして、「他者は私と似ている別の私であり、私のような私である」(l'autre est un autre moi semblable à moi, un moi comme moi)のだ。

 したがって想像力が歴史的領域を作る根本的な構成要素だというのは超越的な条件である。ここにフッサールのいう共感(intropathie, Einfühlung)を認めることができる。それは「他者の場所に立って、思考をし、感じることができうる」ということなのだ。こうして、まさに想像力によって、私たちは個人の地平ではなく、他者とともにいる場所を構築することができるのである。

 そしてこの想像力が生産的と呼ばれるのは、まさにこの関係構築を生き生きとしたものとして保つことが想像力の役目だからである。そのためには他者を「彼ら」ではなく、他者と私を「私たち」とたえず想像しなくてはならないのだ。

 (III. 社会的想像力は省略。イデオロギーとユートピアについて、別に総合的な考察が必要である。)

 リクールの思想はきわめて広大で、その分野は多岐に及び、一見すると全体像が掴みにくいかもしれない。しかし50年近くにも及ぶその活動を、ひとつの問題意識が貫いている。それはいささかもぶれることなく、リクールの思想の根幹をなしている。それは変容ということばに集約される生の躍動である。

 ただ変容といっても、まるきり別のものに変わってしまうということではない。リクールの思想は、「あれかこれか」ではなく、ある一つの要素を含みつつも、別の要素も統合していく、ひとつのコスモスのような世界観を提示する。

 人間の歴史的時間意識において、現在は過去も未来も含み込む。テキストは著者の思想を完全に消し去ることなく、読み手の新たな解釈を帯び、文化的、社会的制約を越えていく。言葉の意味が多義的であるのは、ある意味を捨て去って新しい意味を帯びるのではなく、一つの語に意味が堆積していくからだ。芸術の世界は、現実世界から離れた仮構世界を構築するとはいえ、その世界は、やがて私たちの現実世界を見る認識を変容させる。

 こうした世界の多層性こそが、リクール哲学の特質であり、この多層性を含み込みながら、変化していく存在の実相こそ、人間の生の証である。その意味でリクールの解釈学はすぐれて人間学的である。

 本論文でリクールが考察するのはテキストである。リクールはガダマーの「隔たりと帰属」という考え方の「隔たり」に着目し、テキストという問題設定によって、「隔たり」概念が生産的な機能として働くことを指摘する。久米博は『テクスト世界の解釈学』において、この意味でのテキストを次のように性格づける。

「主体と対象との間に介在するいろいろな距離(distance)は、対象を把握するのに障碍となるが、その障碍こそ解釈のための積極的な条件となる。文字言語によって固定されたテクストは典型的な疎隔の状態にある。」(p.95.)

 距離とは交流の条件であり、交流は双方向の働きかけによって意味を産出していく。通常、話す行為(ディスクール)であれば、<今・ここ>に状況が設定され、話者同士の働きかけがなされ、意味の疎通があることは理解しやすい。しかしリクールの主眼はこのディスクールの性質を、書かれたものの中にも見いだしていくことにある。すなわち、テキストとは書かれたものと同一ではなく、書かれたもののなかにパロールの特質であるディスクール性を認めたものがテキストである。

I. ディスクールとしての言語の実現化

 テキストのディスクール性を考えるため、リクールはまず言語をディスクールとして規定しなおす。ラングとしての言語学からディスクールとしての言語学へ、語としての言語学から文としての言語学への転換である。そしてディスクールの特質は「出来事」と「意味」である。それをリクールは「あらゆるディスクールは出来事として実現され、あらゆるディスクールは意味として理解される」と表現する。

 まずディスクールは次の4つの意味で出来事とみなされる。
1) ディスクールは現在時において実現される=ディスクールの現前性、
2) ディスクールとともに主体も現前する。
3) 指示する世界がある。ディスクールによって世界が言語への到来する(ラングとしての言語がその体系を内部だけで閉じているのに対して)
4)ディスクールにおいてメッセージの交換がなされる(対話者をもつ)

 次は意味の規定である。出来事が一回性の去りゆくものであるのに対して、意味は留まる性質をもつ。ではこの意味の静止は、ラングの言語学へ戻ることになるだろうか?むしろリクールはここに言語のもつ飛躍的な運動を認める。

「De même que la langue, en s'actualisant dans le discours, se dépasse comme système et se réalise comme événement, de même, en entrant dans le procès de la compréhension, le discours se dépasse, en tant qu'événement, dans la signification. Ce dépassement de l'événement dans la signification est caractéristique du discours comme tel. (p.105.)
  
ラングがディスクールにおいて現在へと姿を現し、それによって体系としての自己のあり方を越え、出来事として実現されるのと同様に、理解の過程に入ることによって、ディスクールは出来事としての自己のあり方を越え、意味の中に入ってゆく。この出来事が自らを越え出て、意味の中に入っていくことが、ディスクールそのものの特徴である。

 ディスクールとラングは対立する二項ではない。その乗り入れは動的なものであり、私たちの発話は、ラングの体系によって支えられ、またラングの体系は、発話によって柔軟にその姿を変えてゆく。理解の過程は、決してどこかに行き着き、完結するものではないことを意味している。理解とは絶えざる更新である。

 では「出来事が自らを越えて、意味の中に入っていくことが」書かれたものにおいてもどれほど可能だろうか。これについてリクールはオースティン、サールの言語行為論を援用し、行為がもつ意味が、書かれたものからも読みとれることを強調する。例えば「ドアを締めてください」というとき、発話者は次の3つの行為をしているが、それぞれの行為における意味は、程度の差はあるが、書かれたものの中にも認めることができる。

1)発語的、命題的行為:発話行為であるが、これは行為と行為者、被行為者に関係づけているわけだが、これはまさしく文として同定ができる(書いても同じ)。
2) 発語内的行為:言いながらしている行為。ここでは発話と同時に命令という行為をしている。この行為の意味も法(le mode)という形式上に認めることができる。もちろん抑揚やジェスチャーなど言語外的行為に負うことが多いとはいえ、やはり書くものの中にも反映可能であす。
3)発話媒介的行為:言うこと事実がもたらすもの。たとえば、命令行為による恐怖といったもの。これは実際にはディスクールから最も遠い。すなわち、話し手の意図ではなく、聞き手の心理に属する言語外的行為なのである。

 これらの程度の差はあったとしても、意味とは文に内包されるだけではなく、発語内的行為や発語媒介的行為からもたらされるものも意味として認めることができる。この広い意味をリクールはsignification「意味作用」と呼ぶ。

II. 作品としてのディスクール

 次にリクールは作品という書かれたものの中におけるディスクール的性質を主張するために、作品概念の3つの特徴を挙げる。

1)作品は文より長い連続体である。すなわち作品は文による構成である。
2)作品は、ジャンルを構成するコードによって成り立っている。すなわち作品はジャンルに属する。
3)作品はそれ固有の布置(configuration)をもっており、それは個人的文体と呼びうる。

 この中でディスクール的特徴と言えるのは布置と個人的文体であろう。察するに、作品が文の連続体であるとしても、文の総和は作品の意味と重ならない。ジャンルを構成するコードも、作品をカテゴリー分類するだけである。

 だが、作品にはそれ固有のconfigurationがあり、それが作品の個性を決定している。このconfigurationはstylisation「文体化」とも呼べる。文体とは比喩といった個別の一表現という意味ではない。そうではなく作品全体を個性化する、作品全体をつらぬく様式のことであろう。作品の個性を決めるもの、それは作品が唯一である限りにおいて、ひとつ出来事である。だが、それが作品と呼びうるならば、ひとつの構成を備えて、目の前に現れてくる。この生成と組織化が作品の条件なのではないか。

 文体化が個性化を伴う以上、その個性をもつ作者をも指し示すようになる。したがってテキストにおいては、常に「誰かが何かについて誰かに何かを言う」という根本的特徴は失われていないのである。

III. パロールとエクリチュールの関係

 ディスクールが話されたものから書かれたものへと映るとき、何が起きるのか?パロールと異なり、書かれたものは作者から「隔たって」生成されることがその特質である以上、テキストの意味と、作者が意味したかったことにはずれが生まれる。作者の意図を越えて、テキストが自律性を獲得することで、テキスト世界が作者の世界を壊してしまうこともありうるのである。 

 だがそれはテキストを解放することでもある。テキストはそのテキストが生まれた時代の社会や文化を越えていくことができる。読むという行為によって、テキストは、当初の文脈から引き離され、異なる状況の中に組み込まれることが可能となるのだ。

 したがって書かれたものとしてのテキストは、これらの隔たりが、その構成の条件となっているのだ。そして同時にこの特質が解釈の条件となる。隔たりの存在が解釈を可能とする。

IV. テキスト世界

 次にリクールが検討するのが、指示の問題である。パロールからエクリチュールへの以降は、指示対象を変質させることになる。すなわちパロールにおいて指示対象はその状況の枠組みの中で、共通の現実世界の中で、明示される。

 それに対して書かれた作品では、書いた人間と読む人間の間に状況の同一性を確保することはできない。それが「文学」の条件ですらある。リクールは、「大部分の文学の役割は、世界を破壊することである」とさえ言う(C'est le rôle de la plus grande partie de notre littérature de détruire le monde)。

 この文学世界においては現実への指示は廃棄される。ただリクールはここで「日常のディスクールの指示参照機能」が廃棄されると、「日常」という形容詞を足している。なぜならば、リクールはこの日常的なディスクールは第1番目の指示であり、その現実参照が廃棄されたところに、第2番目の指示参照の可能性が広がってくる。その参照は「テキスト世界」を志向する(その世界はフッサールの生活世界、ハイデガーの世界内存在と等しいとされる)。

 「テキスト世界」で参照されるのは、テキストの「背後」(derrière)にある意図ではない。なぜならば、それは私たちが求めようとする=参照しようとする世界に、隠されてはいても、すでに前もって完結した=固定化された存在を認めてしまうからだ。

 テキスト世界において、私たちが追い求める行為とは、謎解きではなく、状況に根ざした可能性を世界に投映してゆく行為なのだ。つまりテキスト世界とは、私が可能性を投映することで、提起される世界のことである。

 テキストの世界とは「日常」の言語の状況性が示す世界ではない。その意味で、テキストの世界と現実とは「隔たり」がある。だがそれが現実を再創造する契機となるのだ。

Nous l'avons dit, un récit, un conte, un poème ne sont pas sans référent. Mais ce référent est en rupture avec celui du langage quotidien ; par la fiction, par la poésie, de nouvelles possibilités d'être-au-monde sont ouvertes dans la réalité quotidienne.
 
すでに述べたように、物語、説話、詩は指示対象がないわけではない。ただ、この指示対象は日常の言語が指し示す対象とは隔絶している。フィクション、詩によって、新たな世界内存在の可能性が日常の中に開かれているのである。

 私たちはこの可能性を創造することによって、この日常の現実さえも変容することができる。可能性という想像領域、そしてその想像の力とは、現実をひとつのヴァリエーションとし、それ以外のヴァリエーションを私に提示してくれるだけではなく、この現実自体を作り替えるような、バシュラールのことばで言えば「想像力の歪形能力」と言うことができるだろう。

V. 作品を前にして自己を理解する

 そして世界の再創造は、テキストを読む私自身の再創造にもつらなる。テキストを通して、私たちは自分自身を理解することになる。これはテキストのappropriation「同化」=テキストを自分自身の中に含み込むこと、あるいはapplication du texte à la situation présente au lecteur「テキストの読者の現在状況への当てはめ」と言われる。

 ただし同化とは、作者の意図への同化ではない。書かれたものが「隔たり」である以上、同化とは、距離のあるものへの理解と考えなくてはならない。

 次にここでいう自己の理解とは、考える私という主体の発見ではない。むしろテキスト世界を経由することによって、人間性の印しに触れ、それによって自我(ego)ではなく自己(soi)としての自分を知るのである。そもそもそのような人間性に触れえないでは、人間は自分の主観の世界に留まったままである。だが私たちの存在は世界との関係、他者との関係、相互交流を含み込んで成立するものではないだろうか。それを示してくれるテキスト世界に自らが入ることによって、作品の前に立つことによって、初めて自己理解に達するのである。

 自己とはすでに完結して存在し、それがただ明かされるのを待っているようなものではない。自己とは変容し、層を幾重にも形成し、絶え間なく動いていく存在なのだ。リクールはテキストの前で自己はより広大になると言っている(soi plus vaste)。自己はこうしてテキストによって作られていくのであり、ここにテキストに身を浸す喜びがあるのではないだろうか。

 自己とはテキスト世界と同じく、可能性を含みこみ、今だ実現されず、変容する運動こそが実体である。世界の変容とは、実は自己の遊びとしての変容なのだ(La métamorphose du monde, selon le jeu, est aussi la métamorphose ludique de l'égo)。

 自己とは単体ではない。この可能性や変容と通して、自分のなかで自己と自己が、隔たるがゆえに、対話をし、自己を放棄すると同時に、新たな自己を獲得してゆく。

 このように考えれば、リクールの言語学理論は、すぐれて人間学であり、そこに変化と運動という命のあり方を認める上で、きわめて希望に満ちた人間学なのだ。

 『エスプリ』1967年5月号に掲載された論文『構造、語、出来事』は、構造主義言語学に対する批判として、状況を重視し、言葉のもつ創造性、意味の生成に着目したリクールの言語思想を明快に表明した論文である。古典的ではあるが、構造主義言語学と、主観性と状況性の言語学の、おのおのの内容を理解するのに優れたテキストである。

 「構造」は非歴史的、すなわち不動で、人間の立ち入るすきもない世界である。それに対して「出来事」とは、「一回性」の出来事であり、ある状況の中で立ち現れ、そして消えてゆく現象である。そして「語」は、普段辞書の中に死蔵されており、人間とは関係のない世界にたたずんでいると同時に、文を構成することによって現前化し、文の中でその都度意味を帯びる。こうして語は構造と出来事をつなぎあわせる働きをもつ。この構造、出来事、そして語について書かれたのが本論文である。

 構成は以下の通りである。
I. 構造分析の前提:構造主義言語学の性格についての叙述
II. ディスクールとしてのパロール:ディスクールを中心に据えた言語学の叙述
III. 構造と出来事:構造と出来事をつなぐ語の働き

 Iでは、構造主義分析による言語学について5つの特徴が挙げられる。
1)パロールの排除:パロールは個人的な発話であり、学問の観察対象にならない。
2) 通時性の排除、共時性の選択:通時性とは変化の歴史であり、変化は観察の対象として困難である。
3) 言語を形式とみなす:言語は、実体=現実世界を必要としなくても成立する閉じた体系を備える。
4) 閉じた体系に分析対象を限定する:それによって限定が可能な音韻、語彙が研究の対象となりやすい。
5)1) 〜4)において、不動であること、現実との対応が必要ではない、必要としない分析対象が抽出されるが、その条件にまさに当てはまるのがソシュールの言う「記号」である。

 IIの主眼は、構造主義分析が断ち切った現実と言語世界との関係である。リクールは、構造主義分析によって、現実だけではなく人間文化が排除されたと指摘し、さらに、構造主義分析が切り捨てた「変化」とは、創造の根拠ともなると考える。

 そもそも「言う」とはどんな行為なのか。リクールは、それは「何かについて何かを言う」ことであると規定する。言うことは、現実に何らかの影響を及ぼさないではおかない。この問題設定において、言語はメディアと規定される。言語というメディアを通して、物事が表現される。すなわち言うという行為に含まれるのは、現実世界への参照なのである。

 構造主義分析からディスクールとしての言語学へのシフトは、ラングからパロールへ、体系から行為へ、そして構造から出来事へ、と言えるだろう。
 このディスクールの言語学をリクールは次のようにまとめる。
1) 出来事:ディスクールとは行為であり、私たちの目の前に、何かを招く=現働化することである。出来事とは、今起きており、流れていき、そして消えてゆく一回性の行為である。
2)選択:ディスクールとは、ある意味作用が選択され、別の意味作用が排除されるという意味で、選択である。
3) 更新:ディスクールの選択は、新しい組み合わせを生む。選択によってできあがった文は耐えざる新しさの創造である。
4) 参照:ディスクールの現働化とは、言語が指示対象をもっていることを意味する。「何かについて」言うということは、とりもなおさず、「〜について」の指示は現実世界に対してなされる。
5)言語主体:パロールの言語活動が成り立つまえには必ず発話主体が想定されないくてはならない。そして発話主体は誰かに話しかける以上、ここには相互主観の世界が成り立つ。

 IIIでは構造と出来事を結びつけるため、まず文が定義される。ここで引用されるのがチョムスキーの「話し手は、自らのラングを使って、新たな文を作ることができるが、聞き手はその文を新しいにもかかわらず即座に理解するのだ」という主張である。日常の言語活動とは、たえざる新しさの生成であり、それは創造行為と呼ぶことができるだろう。

 次に引用されるのはギュスターヴ・ギョームで、ギョームの言語思想から、リクールは文を「記号から現実への帰還の途上にあるもの」と定義する。

 二つ目にリクールが定義するのが語である。語が意味をもつのは、文が言われるのと同時である。文が生まれる前には記号しかない。記号とは現実を必要としない差異の体系であり、辞書に死蔵されている。語は文に入るとき、辞書から外に出る。そしてその時に生まれる意味は、文が一回性であるのに対して、それを超えて生き延びていく。

 なぜならば語は多義性をもつからである。すなわち、語は新たな意味を帯びるが、だからと言って今までもっていた意味が消えてしまうのではない。意味は加算され、それが体系の中に収められていくのだ。

 この多義性という考えは、リクールの解釈学の根本を構成する。リクール解釈学において重要なのは、言語の象徴性である。象徴とは「あることを言いながら別のことを言う」。すなわち、直接的な明示ではなく、その発話を通して、別のものを指し示す能力である。

 この多義性という語の性質こそ、語が体系に位置づけられながらも、あらたな意味の生成という点で構造主義分析に収まらず、また、ディスクール、発話というその状況の中でしか生を保てない文とは異なり、意味をたえず育んでいくという意味で、まさに構造と出来事の接点と言えるのである。