始めにリクールは、哲学の伝統の中で扱われてきた想像力(あるいは像)の見取り図を描く。想像力には2つの軸がある。1つは対象に関わる軸。この軸の一方には対象の現前がある。その場には存在しない対象を再現する想像力である。他方には対象は不在である。その代わりに肖像、夢、フィクションが存在する。こちらは生産的想像力である。
もう1つの軸は主体に関わる軸である。この軸の一方には、批判意識がまったくない状態があり、この場合、像は現実と混同される。他方には、批判意識がある状態で、この場合、想像力は現実を批判する道具となる。
I. ディスクールにおける想像力
リクールは想像力の問題を言語に結びつける。すなわち隠喩の理論を適用することによって、想像力とはすぐれて「意味の更新」(innovatoin sémantique)を促すものとして捉えられる。想像力(像)は、私たちの心に浮かぶ場面のようなものではない。リクールが依拠するのは詩的想像力であって、それは「響き」(retentissement)に例えられる。響きとは、文字通りの音律ではなく、意味の振幅、意味の力動化(=多義的な意味の生産)と考えられるだろう。
リクールの隠喩論の重要な点は、隠喩を名詞の逸脱的用法とするのではなく(隠喩を、それぞれの名詞がもつ通常の意味からのずれと考える)、文の中における述語の逸脱的用法としたことである。隠喩において、文それ自体は不適当となる。だが文が不適当となるゆえに、そこに隠喩という新しい適切さが生まれるというのがリクールの主張である。
久米博は、このことを『テクスト世界の解釈学』で「隠喩は述語論理によって解釈すべき」と述べている。新しい意味は文から生まれる。たとえば、「海は母である」と言った時、この文の字義的な意味は不適当である(海は母ではないから)。しかし、私たちはこの文を読んだ時に、解釈への動かされる。しかもそれは海についてではなく、「母である」こと、すなわち、母とは何か、ということの理解に向かうのだ。解釈によって意味が更新されるとするならば、それは「母でない」が「母である」という矛盾を文が実現しているからだ。
この矛盾から意味を生むのが隠喩の働きである。アリストテレスは次のように述べている。「よい隠喩をつくることは、類似を見ることである」(bien métaphoriser, c'est apercevoir le semblable)。リクールは、この類似における力動性を重要視する。
「類似とは、それ自体、おかしな述定の用法の機能である。類似は、それまでは離れていた意味領域の間の論理的な距離を急になくしてしまう接近の中に存在する。それによって意味の衝突が生じ、続いて、隠喩の意味の輝きが作り出されるのだ。」
想像力とはしたがって、意味領域を新たに作り直すことである。この更新の運動こそが想像力である。リクールは、ウィトゲンシュタインの言葉を引き、それを「〜として見る」(voir-comme...)とも呼んでいる。またカントの図式論を援用し、カントの生産的想像力は、「隠喩的述語付与を図式化することによって、発生する意味作用にイメージを与えることである」(久米、p.116.)とも言っている。
このことはフィクションの問題とも深く絡んでくる。想像力は、知覚のあるいは行動の世界に対して、その中に踏み込まずとも、さまざまな可能性との「自由な遊び」(un libre jeu)を可能にするのだ。だが、それはこの世界と離れたところでの知的遊戯ではないだろう。自由な遊びは、「新たな思念や、価値や、この世界での新しいあり方」を生み出し、それがこの世界への批判へと結びつきうるからだ。
II. 理論と実践の間に位置する想像力
1. フィクションの発見術的力
さて、想像力の問題をディスクールの領域からさらに拡大する際に、重要なのは、この想像力が「指示作用の力」を持っているという点である。
確かに詩的言語は、現実への指示機能を持つことなく作用する。ディスクールの領域から離れるということは、ディスクールのもたらす状況内での指示機能を失うことを意味する。だが、リクールにとってこの認識は第一段階に過ぎず、その第二段階においては、詩的ディスクールは、私たちを生の世界に存在せしめ、また他の存在と存在論的関係を結ばせると言う。
確かにフィクション世界が指し示すのは、どのような現実ともつながりを持たない「非ー場所」(non-lieu)である。だがそれゆえに、フィクションは、新たな「指示効果」によって現実を間接的に対象とすることができる。その効果とは「現実を書き直すことのできるフィクションの力(le pouvoir de la fiction de redécrire la réalité)である。これがフィクションの発見術的力であり、これによって現実の新たな多層性を私たちは創造するのである。
2. フィクションと物語(récit)
ではこのフィクションと想像力はどのように実践されるのか。第一には人間の行為に対してである。ここでリクールはアリストテレスの『詩学』を引き、アリストテレスが詩(ポエジー、ここでは悲劇の模倣(ミメーシス)機能と物語の神話的構造を結びつけていることを指摘する。この指摘はリクールの文脈で次のように理解される。
フィクション - ミュトス(筋)- 物語の神話的構造 - 構造化されたフィクション
書き直し - ミメーシス(模倣)- 詩(悲劇)の模倣的機能 - 書き直される行為
フィクションは、現実から独立した構造を持っている。その意味では虚構というより、仮構と言った方が、空想という意味に陥らず、独自構造の存在により明確に気づくことができるだろう。そしてこの構造の中で、人間の行為が、模倣というレベルで書き直しされる。すなわち、現実と一見同じような行為が書き込まれているようでいて、構造の中に書き込まれた行為は、現実の模写ではなく、人間行為の本質が書き直されて描かれているのである。この書き直された現実を体験して、私たちは再び、現実へと帰還してくるのである。
だが実践はこれだけではない。フィクションが模倣の行為のレベルに限られるならば、書き直されるのは、すでにそこにある行為だけになってしまう。詩学が求めるのは、叙述的価値を持った書き直しというミメーシス機能だけではない。想像力にはもうひとつ、投映機能もある。
3. フィクションと<〜することができる>
ここでリクールは個人的行為の現象学を援用する。想像力がない行為はないが、それは次の3つの面で言うことができる。企図、動機、行為力である。企図とは、想像で先取りし、未来へと転じる想像力であり。企図と物語は、前者が後者から構造化の力を借り受け、後者が前者から先取りする能力を借り受ける関係にある。つまり物語という過去へ志向をもつものが、未来という軸を獲得することもできることを意味している。
動機と想像力は、後者が前者に場所を提供する。その場所で、さまざまな動機が比較・検討される。動機は、物理的な原因との差異、そして論理的な理由付けとの差異として想像力の中で実践的に位置づけられる。そして「もしのぞめば、これやあれができる」と、私の望みが動機付けの地平に形象化されるのである。
そして3つ目が「私はできる」という可能性=力である。私たちはさまざまなヴァリエーションを想像しつつ、行為主体として自らの力を認識する。それは、、言語モードとしては条件法として表せる。
こうして企図から、私の望むことの形象化、そして「私はできる」という想像的ヴァリエーションとして可能的実践を描くことができる。これはカントの「想像力の自由な遊戯」とも言えるだろう。
4. フィクションと間主観性
ここまではしかし、想像力は個人的な性格に留まっていた。次に考えなくてはならないのは、社会的な想像力であり、歴史的想像力である。出発点となるのはフッサールの間主観性理論である。
「経験の歴史的領域というものがある。なぜならば、私の時間領域は、対化と呼ばれた関係によって、別の時間領域に結びつけられているからである。
Il y a un champ historique d'expérience parce que mon champ temporel est relié à un autre champ temporel par ce qui a été appelé un relation de «couplage» (Paarung).
別の時間領域と言う以上、私たちは、同時代人だけではなく、過去の人とも、未来の人とも関係づけられる。そしてここに認められるのは相似的関係性(北村、p.210.)の原理である。これは、私たちのおのおのが、他の人と同様に、「私」の機能を実行することができ、自分自身の経験を自己に帰すことができるという原理である。
ここでリクールがカントに基づいて強調するのは、これが「超越的原理」であるということだ。すなわち、議論による疑問や検証の提示を待たずして、「他者は私と似ている別の私であり、私のような私である」(l'autre est un autre moi semblable à moi, un moi comme moi)のだ。
したがって想像力が歴史的領域を作る根本的な構成要素だというのは超越的な条件である。ここにフッサールのいう共感(intropathie, Einfühlung)を認めることができる。それは「他者の場所に立って、思考をし、感じることができうる」ということなのだ。こうして、まさに想像力によって、私たちは個人の地平ではなく、他者とともにいる場所を構築することができるのである。
そしてこの想像力が生産的と呼ばれるのは、まさにこの関係構築を生き生きとしたものとして保つことが想像力の役目だからである。そのためには他者を「彼ら」ではなく、他者と私を「私たち」とたえず想像しなくてはならないのだ。
(III. 社会的想像力は省略。イデオロギーとユートピアについて、別に総合的な考察が必要である。)
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