ジョージ・スタイナー『悲劇の死』第一章(1961)

 ジョージ・スタイナー『悲劇の死』第一章では、「悲劇」の意味が定義される。スタイナーにとってそれはギリシア悲劇であり、その後の時代の作品であっても、あくまでもギリシア的なものである。

 ギリシア的なものは、たとえばユダヤ的世界観とは無縁である。『ヨブ記』で確かにヨブは、神から様々な苦難を強いられる。しかし、その結末においては、神から財産を二倍にして返され、その後も長寿を全うする。エンディングは償いと幸福なのである。スタイナーは「償いがあるところには、正義はあっても悲劇はない」と言う。ここには不条理も理解の不可能性もない。あくまでも正義と理性が貫かれた世界である、というのがスタイナーの認識である。

 マルクスは「必然は理解されない場合にのみ盲目である」と言ったが、悲劇とはまさにその逆で、人間は必然の中にいて、しかも人間はその必然の理由を見ることができない。人間は「暴虐や気まぐれ」にさらされ、トロイアの町は炎上するが、この結末は「終局的」であり、その結末は人間の理解を越えてしまっている。ギリシア悲劇において、人間が知っていることは、ただ「運命の働きを理解することも支配することもできない」という絶対的事実だけである。

 たとえばペロポンネソス戦役は、この悲劇的精神の表れである。なぜならば人間は「憎悪を伴わぬ怒りのままに互いを殺し合おうとして出て行く」からだ。ここで、スタイナーは、この戦争による荒廃は今日でも変わらないと付け加えている。戦争について、スタイナーは、技術が発達すればするほど、人間はその科学的世界の前でかえって弱体化し、その技術によってますます戦争は残酷になってきたと言いたいのであろう。

 スタイナーは、悲劇は人間を支配する「理性や正義の及ばぬ」力だけではなく、「悪魔的エネルギー」をも持っていると言う。ギリシア悲劇の登場人物たち(アイスキュロス『テーバイに向う七将』のエテオクレス、アンティゴネ、オイディプス)は、内心では自らが破滅に進んでいることを知っている。それにも関わらずその破滅に至る行動へと突き進んでいく。それをスタイナーは警句のごとく、ギリシア人にとっては「知識と行動の間には(...)アイロニカルな深淵がある」と述べる。

 ギリシア悲劇において災厄の原因は、人間のあらゆる現実的な手段ー法、精神医学、経済的措置ーを持ってしても払拭することはできない。ましてや償れることなどありえない。失われたものは決して元通りにはならないのである。その意味で、悲劇は「とりかえしのつかないものの」のことなのだ。

 人間の知りうる領域は限られており、その外には広大な「他者性」が無限に広がっている。

 最後にスタイナーはギリシアの悲劇性が具体的に要約された作品として『バッコスの信女』の終わりに言及する。具体的な引用ではなく、そのくだりの説明があるだけであるが、例えば次のようなディオニュソスとカドモスの娘アガウエーのやり取りが、スタイナーの説明箇所に該当するだろう。

アガウエーお慈悲を、ディオニューソス、私どもは非礼をはたらきました。
ディオニューソス分かるのが遅すぎた。肝腎の折に無知だった。
アガウエー今は認めます。しかしあなたも余りに厳しく我々を責められる。
ディオニューソス神にもかかわらず、侮辱を受けたのだから、当然のこと。
アガウエー神々が気性を人間と同じくするのはよくない。
ディオニューソス我が父ゼウスは、はるか昔よりそれを認めている。
アガウエーああ、決定だ。父よ、無情な追放が。
ディオニューソス不可避のことを前にして、何をぐずぐずしているのか。
(...)
コロス神の引き起こす出来事の 姿は多様であり
神々が人間の希望を裏切って 成就されることも多様である。
予期したことは かなえられず
予期せぬことに 神は道を見つけ出す。
この出来事もかくのごとく終わるのである。
『バッカイーバッコスに憑かれた女たちー』
(『ギリシア悲劇全集9 逸見喜一郎訳)

 スタイナーは、「われわれは犯した罪よりもはるかに大きな罪を受けるのである」として、悲劇の不条理さをまとめている。

 しかし、この人間の苦しみは同時に「人間の尊厳を主張できる根拠」になる。私たちは決して、元に戻ることはできない。だがこの試練を通り抜けることで、「人間は崇高になる」とスタイナーは言う。悲劇を経た後の人間精神の尊さによって、私たちの中で「悲しみと喜び」が、「歎きと歓喜」が溶け合うのである。

 スタイナーは、この悲劇の精神は、西洋の歴史において『リア王』や『フェードル』などの作品を貫いてきたと言う。第二章以降で行なわれるのは、この数千年にもおよぶ精神史を演劇作品を通して、その悲劇の死までの道のりを辿ることである。