Barthes, Roland

Roland Barthes, Écrivains et Écrivants(1960年)

 この論考「作家と著述家」でロラン・バルトは、言語活動には2つのカテゴリーがあると述べている。一つ目のカテゴリーは作家(écrivain)。作家の仕事は「いかに書くか」を問うことであり、そのために作家はことば(パロール)を加工し、ことばを彫琢する。それが作家の役割であり、そのことばは文学言語となり、やがて文学言語は社会の中で規範化され(たとえば国語の授業で文学が使われる)て保護されてきた。

それでも作家は世界と関わらないわけではない。ただその関わり方には距離があり、またその距離によって世界に対して「問い」を発することができる。バルトは作家は「世界を揺さぶる力」を持ちうるとするが、その条件は「参加しそこない」である。参加するとは世界と直接関わりをもつこと、参加しないとは、世の中とは無縁に自室に閉じこもって美的な作品を描いているような「大作家」の態度である。そのどちらでもなく、すなわち世界と距離をとりながら、世界を再現することが、作家のもつ可能性である。

 もうひとつのカテゴリーは「著述家」(écrivant)。日本語では「著述家」という訳語があてられているが、もともとはécrivant、書くという動詞の現在分詞であり、それを名詞としてバルトは使っている(英語でいえばwriter and writingで後者を「書く人」という意味で使っている)。こちらはいわばことば(パロール)を手段としてある目的を達成しようとして活動している人間である、その目的とは「証言、説明、教えること」(邦訳p. 201.)であり、それは「マルクス主義語、キリスト教語、実存主義語」と言い換えられているように、「政治/宗教/哲学」の言語である。

 近代にはいると芸術は資本の対象となり、それが買われたり、消費されることで、流通するものとなる。対して著作家は自己の思想を述べることが第一義なので、それが受け入れられるならば、「ただ」でもかまわないだろう。

 このようにバルトは、言語活動を文学と政治/宗教/哲学を対置させる。そして最後に作家と著述家の混合型として知識人という3つ目のカテゴリーを提示する。彼らは文学が要請してきた文学言語の規範から自由でり、そして著作家たちのように社会に思想を伝えようとする。しかし彼らの思想は、社会によって、うまく飼い慣らされてしまっている。つまり「政治/宗教/哲学」がラディカルに言語活動として実践されれば、それは社会革命へと繋がっていくはずだが、知識人の思想は、社会のなかに包摂されてしまっている。しかもマージナルなところに棲息させられている。これはおそらくサルトルのような知識人への批判なのだろうが、最後に示されているように、社会に制度化された場所(=大学)で、社会批判をしているような大学教授がバルトのもっとも辛辣な批判対象となっている。

Roland Barthes, Journal de deuil (2009)

 『喪の日記』と題されたRoland Barthesの遺稿は、母の死の翌日から書き留められた日々の断章からなる。これらの断章は、330枚のカードに書かれて残されていた。Barthesの著作には頻繁に断章形式が用いられるとはいえ、この日記はそうした作品群に属するものですらなく、日記というよりも、むしろ「覚書」と言った方がよいだろう。いずれはこの断片から、喪についての作品が生まれるはずであったのだろうか。

 日々の覚書は、ときに文ですらなく、単語が並べられただけの脈絡のない時もある。それらの単語は、自らの意味を見出すことなく、ただ母の永遠の不在のまわりにただようだけだ。ことばを「言う」ことはできる。しかし「表現」することはできない。それが実は喪の証しとなる。表現できるならば、それは「文学をする」こと、母を文学として語ることになってしまう。それはBarthesにとってはこの上ない恐れである(p.33.)。そもそも言葉にすることは不毛なのだ(l'insignifiance de notre verbalisation, p.260.)。
 しかし、それでも記憶をとどめるものとしてBarthesは日記を書く。

 Barthesはdeuilをnévroseという病理の状態と峻別する。フロイト自身はdeuilとmélancolieを分け、むしろ後者を病理的な症状とみなしているわけだが、それにもかかわらずBarthesは、フロイトを念頭においたうえで、deuilという言い方はあまりにも精神分析的だと言う(p.83.)。すでに『恋愛のディスクール』において、«Cette tristesse n'est pas une mélancolie»「この悲しみは鬱ではない」という文章に出会うが、日記の中でも喪の病理性は否定される。「母が生きていたときのほうが、母を失うおそれのあまり精神症にかかっていた」。そして「むしろ喪は、それゆえに神経症ではないのだ。むしろ母の死は、そうした病理を遠くへと追いやってしまったのだ」(p.140.)と。つまり喪は精神分析の対象にはなりえない、それがフロイトへの違和感の表明となって現れているのだ。
 だが同時に喪が病でないということは、それは治癒できる対象ではないということだ。やはり『恋愛のディスクール』において、喪は「治癒」という進歩的なものではないと言われている。喪とは回復するものではないのだ(p.18.)。もし人間存在、人間の生の根拠が、可変可能性であるならば(人間は変わってゆく存在である)、喪の苦しみがやまないということは、「変わりはしない」という意味で、その人間が死んでいるというのに等しい。
 他者の死は、自己の生を無化していまう。Barthesは言う。「愛していた人が死んだあとも生き続けるとは、思っていたほどその人のことを愛していなかったということだろうか」(p.78)。喪とは死者への後悔の念でもある。もしかしたら自分が思っていたほど愛していなかったかも知れないとは、それは死者への取り返しのつかない後悔となる。

 先ほど述べたようにBarthesにとっては喪ということばは、自己の内面を「表現」することばとはならない。彼が何度も用いることばはchagrin「悲しみ」である。Chagrinと対立することばとして、やはり何度も現れるのがémotionである。
 Chagrinとémotionはどう異なるのか。Émotionとは、自らの身体における動きであり、反応である以上、身体は受け身の状態にある。またそれは刺激である以上、ある緊張を強いたあとは、鎮まってゆき、また私たちを襲うような現象であろう。しかしchagrinは鎮まりはしない。「悲しみはすり減らない」のだ(P.81.)
 
 その喪とは他者には見えないものだ。その人がどのような悲しみの淵にいるとしても、その悲しみを抑えて人は生きる。Barthesはいう「もっとヒステリックになって、沈鬱な表情を見せて、みなを追い返し、社会のなかで生きるのをやめてしまえば、私はそれほど不幸ではなかっただろう」(p.139.)それでも喪は内に秘められれば、それを示す外的な指標はない。

Au deuil intériorisé, il n'y a guère de signes. C'est l'accomplissement de l'intériorité absolue. Toutes les sociétés sages, cependant, ont prescrit et codifié l'extériorisation du deuil. Malaise de la nôtre en ce qu'elle nie le deuil.

 社会は人々にその喪を外の表現することを、一定の儀式にのっとって喪を外に表現することで、喪の作業を遂行し、そこから回復することを強いるのだ。だから社会は喪を否定する。

 ここに集められた断片は「覚書」に近い。だが、やはり覚書ではなく日記であるのは、これが日々の記録、その日のうちに書き留められたであろう記録であることだ。その集積の意味は、喪は決して終わらないということである。昨日と今日は違う一日だ。しかしそれでも今日も悲しみに浸される。日記とは終わらない喪である。

『零度のエクリチュール』はフランスにおいて、langue、あるいはstyleの歴史ではなく、文字(文学・文章)言語の歴史を追うことを目的とした作品である。(p.6)
バルトは、ブルジョワジーのイデオロギー的単一性が続いている間は、作家とは普遍性の証人であった。この意識は1850年ごろ終焉をむかえる。それはフローベールにとって「オブジェ」という対象物になり、形式の制作が始まり、そしてマラルメによる言語の破壊(いわゆる指示対象の不在ということか?)となる。p.6.

 Langueとstyleは人間の歴史的事実の外側にあるということか。バルトはこれら二つは「時間と生物学的人間の自然な所産」と述べ、それを「文法の規範や文体の常数」と言い換えている。それにたいして文字言語は「歴史的な連帯行為」であるとする。文字言語には選択とその選択の制限が働く。作家はある文学言語を選択し、また過去の全体を含みこんで活動をしていく。p.15.

 歴史的な行為である以上、そこにはイデオロギーが発生する。それは政治的ディスクールにおいて顕著となる。知識人的エクリチュールも同様である。これらは制度であり、「わたし」はそれによって拘束され、「形式」は自律的なオブジェになる。p.25.

 古典主義的言語は、個人や意味の創造、偶発性を欠いた言語であり、伝統への厳格な依拠によって中性化され、語彙は慣用としての語彙であり、その語を集め、関係づける表現術なのである。したがって修辞や決まり文句は語と語の関係によって成り立っているもので、驚きを生むことはない。このような古典主義的言語は、ある集団に閉じられた社会的な言語であり、その集団の人々の間を流通するという意味において、厳しい法則をもっていながらも本質的にはひとつのパロールである。p.44.

 この文字言語が現れるのは、まず言語が国民的に構成され、それが否定性を帯びるようになる、すなわち、起源や正当性を問題にすることなく、禁じられているものと許可されているものをと隔てる地平線となるときである。そしてこのとき言語は、時間的推移というものを離れ、普遍的なものとなる。そしてこのときとはフランス社会においてブルジョワが勝利をおさめたときである。したがって、それは、民衆の自然発生的な主観性による文法的手続きを純化することによって、作られた階級的な言語である。p.52.

 ここで問題になるのは修辞、すなわち言述の秩序だけであり、道具的、装飾的な単一の文字言語だけが存在する。このイデオロギーは革命をくぐりぬけて1848年までつづくことになる。ロマン主義も道具性という古典主義言語の本質を保持しているのである。p.53.

 1850年以降、ヨーロッパ人口の増大、近代資本主義の台頭、社会における階級分裂と自由主義の幻想の崩壊という3つの歴史的事実が、ブルジョワ・イデオロギーの単一性、普遍性を終焉させ、文字言語は以後多様化し、作家たちは、みずからのおかれた条件そのものの不安定さという悲劇をかかえることになるのである。p.56.

 言語は、古典主義自体には共有財産であり、使用価値を持っていたわけだが、これ以降、作家たちは職人のように自らの形式を彫琢することなり、この価値は労働価値へと転化する。この職人芸的文字言語もブルジョワ的遺産の内部にあり、決して秩序を乱すことはなかった。これらの作家は文字言語を解放するのではなく、自らを正統化できる言語を創造する。そして解体をめざす作家は、基本的には書くことの不可能性、言語の崩壊、そして沈黙へと陥る。もうひとつの解決策は中性の文字言語の創造である。それは直説法的な言語、否定的な法であり、社会的、神話的性格は廃棄される。

 バルトがこの作品を書いていた時期の眼下に広がる世界は、市民世界が自然を形作り、その自然が語りはじめている世界である。作家は歴史に準拠するかぎり、つまり歴史性をもった文字言語しか使えないならば、作家はこの世界から除外されてしまう。こうした伝統としての記号をどう断ち切って文学を創造するか、はたして零度の文字言語が構想できるのか、ここに新しい文学のユートピアがかかっている。

 篠田浩一郎は『形象と文明』で、ブルジョワジーに関する一章をとりあげ次のようにまとめている。ルネッサンス期は個人単位で自由奔放なフランス語であり、17世紀前半はマレルブが、古語、外来語、新語、地方語、技術語を追放し、代名詞の省略を禁止する。つまりフランス語の「純化」が行なわれる。そしてアカデミの設立によって文法と語彙を国家がコントロールするとともに、近隣の諸言語に対してフランス語の支配権を要求する時代となった。これらはヴォージュラによって完成する(ヴォージュラは古典的文章言語を権利の状態ではなくて事実として勧告する)。この17世紀の文法家たちはフランス語という言語体系の非時間的な根拠を創りだすことによって体系を普遍的なものにした。このシステムは、政治的、文化的な力によって固定され、この国語の書き方が制度化され、「唯一のもの」となったときに、姿を現す。