Staple_Singers.jpg 名盤であることはわかっていても、確認作業として聞くのではなく、新鮮な出会いとしてはたしてどれだけ聞けているだろうか。世の中で名盤と言われるものをひとしきり聞いてみることは勉強にはなるかもしれないが、音楽自体との出会いに感動して、音楽そのものを体感できるかは、世間の評価とはまったく別だ。たくさん音楽を聞いているからといって、そうした体験がいつもやってくるわけではない。

 最近になって、突然虜になってしまったのがこのアルバムだ。70年代初頭のソウルが持っていた社会的な運動を、Respect Yourselfというタイトルほど象徴するものはない。だが、このアルバムの面白さは、さまざまな音楽ジャンルが融合していることだろう。本人たちのバックボーンであるゴスペルサウンドを基調としながらも、ブルース、ソウル、ファンク、ロックそしてレゲエまでいろんな音が混じり合って強い力動感を生んでいる。このアルバムは、黒人による黒人のための音楽ではない。人間の解放という願いを持ったときに、万人が表現しうる音楽がこのアルバムには満ちあふれている。

 そしてこのアルバムがマスル・ショールズで白人ミュージシャンを起用していると知ったとき、このアルバムが、黒人的伝統に根ざすだけではなく、同時代の音楽と呼応しようとする高い志のもとに作られていると思った。

 とにかくリズムがタイトである。Respect Yourselfの地を這うようなリズムは切れのよいドラムワーク(特にスネアの音)と、冷静なベースのリズム進行によるものだ。怒りに任せるようなことはまるでなく、淡々としているが、同じリズムを聞いているうちに、じわじわと「自分を尊ぶ」という意味の重さが伝わってくる。

 その後に続く、Name The Missing Wordは、ポップなストリングスから始まるが、すぐに転調して、アーシーな雰囲気に、メイヴィスのヴォーカルが重ねられる。このポップさとアーシーさが交互に展開する、このアルバムの幅広さを表現している曲だ。

 そしてI'll Take You ThereとAre You Sure?はレゲエの色調の曲。ゆったりとしたメロディにユーモアさえ感じるこの曲を聞くと、脅迫的で強制されたメッセージでは決して世の中は変わらないとひしひしと感じる。メイヴィスを始めとする歌い手の寛容さ、度量の広さを感じる素晴らしい曲だ。

 ゴスペル音楽も、そのまま演じられるのではない。例えばThis Old Townは、リズムもアップテンポでご機嫌な曲だが、だが、その繰り返されるリズム、そしてそれに乗せて、だんだん高揚していくヴォーカルの熱はまさにゴスペルを彷彿とさせる。教会という場所に縛られない、誰であっても思わず踊りたくなるような、ご機嫌なゴスペルである。

 ステイプル・シスターズ、そしてグループを統括するお父さんも、黒人文化の土壌の中で鍛えられたプロである。だが、彼らが素晴らしいのは、仲間内の閉じていないことだ。音楽のもつ最大限の可能性を持って音楽を作る続けたことだ。それは60年代のライブなどを聞くとよくわかる。その場にいる信仰者に向けての音楽。だが、このアルバムの音楽はそうしたものではない。宗教や人種を越えて、ひろく希望を掲げるあらゆる人に呼びかけられた音楽なのだ。高揚感とは、人々の出自を問題にせず、人々に呼びかけるための人間的感情だ。

 幼児時代の言語体験は、そのあとのアイデンティティ形成に大きな影響を与える。言語は切っても切ることのできない自分の一部であり、それでいて家族、社会といった自分を取り巻く外部の一事象である。その間の折り合いをつけていくことが、自らの言語観を形成するだろう。その意味でこの論文が、3人の幼年時代から青年期までの言語体験を詳述しているところが興味深い。

 フランツ・マウトナー(1849-1923)は、ハプスブルク帝国の、現在でいうチェコで生まれた。プラハから北東に90キロはなれた小さな街である。家庭はドイツに文化的に同化したユダヤブルジョワ階級であった。有力階級はドイツ語を話していたが、80%がチェコ人であるという社会環境の中で、幼児のマウトナーは、家庭ではドイツ語を強制されることになる。だが、プラハに移り、社会的な広がりに気づいてゆくなかで、マウトナーは自分が使ってきたドイツ語は「紙の上のドイツ語」、父親から強制され、学校で学んできた「父の言語」であることを痛感する。結局、マウトナーにとって、このドイツ語、そしてチェコ語やイディッシュ語も、生の実感を伴わない言語であり、「死体となった三言語を自分の言葉の中に運び込む」しかなかった。

 「オーストリアのスラブ地方に生まれたユダヤ人」が、このような環境の中で、言語の考察に向うことは自然であった。作家でありジャーナリストであったマウトナーは、事実『言語批判論』を書くことになる。

 多言語、多文化状況は個人にとってアイデンティティとの関係の上で2つの関係を結びうる。複数性は、アイデンティティを単元的に考えれば、その根拠の不在は、自己の脆弱さに結びつく。それに対して、その複数性自体を豊かさに結びつけることもできる。マウトナーが前者であったのに対して、後者の例として、Le Riderは同じプラハ出身のユダヤ系家庭で生まれたジョージ・スタイナーを挙げる(ただし、スタイナーが生まれ、育った場所はパリ)。スタイナーと比較すれば(それが可能という条件においてだが)、マウトナーがきわめてペシミスティックなのがよくわかる。プラハの民衆のドイツ語を実際には知ろうとしなかったり、彼の言語観が懐疑論に陥っていったのは、根本的に現実を回避する性向を認めざるをえない。
 
 プラハのユダヤ人の家庭に生まれたフランツ・カフカ(1883-1924)はドイツ語とチェコ語の完全なバイリンガルであった。当時のプラハでは、母語ではなく慣用として使っていることばが国籍を決定した。商業を営むユダヤ系のカフカの家が、チェコ(語、国籍)を選択したのはもっぱら商売上のことであり、その中でカフカ本人だけが後になってドイツ(語、国籍)を主張することになる。

 カフカは、ドイツ語教育のギムナジウムに進むが、その間、最終学級までチェコ語を選択し、優秀な成績を収めている。ミレナの手紙の中では、「ドイツ人の中で暮らしたことはなくても、ドイツ語が母語であるが、チェコ語は自分の心に近い」とドイツ語で、ミレナのチェコ語で書かれた手紙に返信をしている。また就職の際の履歴書はドイツ語とチェコ語の両言語で作成され、仕事上の作業言語はチェコ語であった。

 だが時代状況の中で、カフカは、ドイツ語を母語とすることに疑問を抱く。それはたとえばクラウスが示した揶揄、同化ユダヤ人の話すドイツ語がmauscheln「わけのわからないことば」とされることに象徴される。実際には言葉の間違いなどどこにもない、だが完璧さゆえに一層揶揄されるという、反合理的主張が反ユダヤ主義の台頭によってなされ始める。ここからカフカの有名が次のことばが生まれる。

書かないではいられない、ドイツ語で書くことはできない、別の書き方をすることはできない、そして4つの目の不可能性、書くことができない...

 このドイツ語を母語とみなすことの不可能さは、ユダヤ人の母をmutterとドイツ語で呼ぶことの滑稽さにも関わる。また母親自体のドイツ語は、オーストリアの風の、そしてイディッシュの単語を含んだドイツ語であった。

 そしてカフカと言語との関係で、大切になるのは、もちろんイディッシュ語との関係である。イディッシュ語にカフカが惹かれたことは1912年の「イディッシュ語についての演説」で明らかである。その内容をLe Riderは次のようにまとめている。

Selon Kafka, le yiddish est une langue de l'exil et de l'aliénation, une langue parlée, échappant au contrôle des grammairiens, libre de toute norme scolaire et culturelle, concise, simple et authentiquement populaire.
 
カフカによれば、イディッシュ語は、放擲と喪失の言葉であり、文法家たちの軛を逃れた話言葉であり、学校と文化が作るあらゆる規範から自由であり、簡明、完結で真に民衆の言語である。

 だが、カフカにとって、イディッシュ語はあくまでも想像するしかない言語であり、彼にとっては「失われてしまった母語」なのである。カフカはイディッシュ語を学ぼうとする。しかしそれは、「夢の後を追いかけている」に過ぎなかった。
 ではどうすればよいのか。カフカは、ドイツ語を出来る限り漂白して使うことを決意する。その起源、文化的要素、凝った表現などを極力排して、カフカは「貧しさの豊かさ」という言語へと至るのである。
 
 エリアス・カネッティ(1905-1994)は次のように書いている。

Toutes les langues que l'homme devrait posséder : une d'abord pour parler à sa mère, et qu'il n'utilisera plus jamais par la suite ; une exclusivement pour lire, et dans laquelle il n'ose écrire ; une dans laquelle il prie, et dont il ne comprend pas un traître mot ; une dans laquelle il fait ses comptes, réservée aux seules préoccupations financières ; une dans laquelle il écrit (sauf ses lettres) ; une qu'il parle en voyage, et dans laquelle il peut aussi écrire ses lettres.
 
人間が保有しているはずであろうあらゆる言語。一つ目は母親に話しかけるための言語。これはその後使うことはなくなる。ただ読むための言語、それを用いて書こうとはしない。祈りを捧げるための言語、それについてはこれっぽちも意味を理解していない。計算のための言語、これはもっぱら経済的な心配のために使われる。書くための言語、ただし手紙は異なる。旅行中に話すための言語、これを使って手紙を書くこともできる。

 カネッティの場合、言語の複数性は両義的である。それが個人の内面の豊かさを作ると同時に、不安をもかき立てる。またカネッティには、言語への不信もある。例えば『マラケシュの声』では、言葉では捉えられない、出来事、イメージ、音がそこには展開していたと言われる。

 では彼の幼年時代の言語状況はどのようなものであったのか。カネッティが生まれたブルガリアのルスチュクでは、カネッティによれば、7つから8つの言葉が聞かれた。その中で、彼の母語は、その出身である。ユダヤ・スペイン語、セファルディの言葉であった。とは言え、日常ではブルガリア語も話し、また両親は2人だけの間では、ドイツ語を話した。6歳のときにはマンチェスターに引っ越しをする。ここでは英語だけではなくフランス語を学ぶことになる。しかし父親の死後は、ウィーンへとまた引っ越しをする。そしていよいよドイツ語が、母親によって課せられる。いきなり強制的に母親から覚えさせられたドイツ語が、カネッティにとっての母語となるのだ。したがってその母語は、両親に独占されていた言語であり、父の死後はその穴を埋めるように母親に課せられた言語、すなわち、幸福と苦痛、愛と代理の言語だったのである。その後祖父によってヘブライ語を習わされるが、もはやカネッティにとっては、最初の母語ユダヤ・スペイン語が、母の言語ドイツ語によって消し去られて以後、ヘブライ語は「余分な言語」であったと言える。