L'art français de la guerreは2011年ゴンクール受賞作品である。作者のAlexis Jenniはリヨンで生物を教えている高校の教師で、この小説が第一作。第一作にしてゴンクールを取ったのは、632ページにわたってフランスの現代史を濃密にあぶり出したことが理由だろう。
ここで扱われる現代史とは第二次世界大戦、インドシナ戦争、アルジェリア戦争と続く戦争の歴史である。それを2011年において書くことは、レジスタンス神話が崩壊し、植民地支配の負の遺産を抱え続けるフランスを書くことでもある。この分厚い小説には随所にアフォリズムめいた短い一言が散りばめられているのだが、たとえばフランス語は«la langue internationale de l'interrogatoire»(尋問のための国際語)と表される。
過去の歴史と今現在の両方を書き、その過去と今現在の一貫性を構成上でも示すために、作品には、Roman I, II, ..., Commentaires I, II...とタイトルがつけられた二つの軸が用意され、それぞれの章が交互に配置されている。Commenairesは「私」と一人称で呼ばれる主人公の現在の叙述であり、Romanはその「私」が出会ったかつての兵士、Victorien Salagnonの戦争体験を三人称で語る形式となっている。
Romanはドイツ占領下の1943年のフランスから始まり、1962年のpieds-noirs(アルジェリア生まれのフランス人)のフランス本土帰還で終わる。この2つの年が作品中ではっきりと何度も記されるのは20年という区切られた期間を明示するためである。そしてこの20年間は、叙述としては3つの戦争が描かれているが、戦争の意味自体は、3つに区切られてはない。
− Le vieux type que je vois, il m'apprend à peindre. En échange, il me parle de la guerre.
− Laquelle ?
− Celle qui a duré vingt ans ?
「どの戦争?」「20年間続いたやつさ」。この作品の中の20年間はたったひとつの戦争が行われたひとつの単位として提示される。すなわち、3つの戦争の差異は消され、20年の均質な時間の流れがこの小説を支配する。
このように差異を抹消し、ひとつの単位を作ることは、言語そのものの果たすひとつの役割と言えるだろう。無限に流れる時間と、その時間を刻む無数の個別の出来事を前にして、人間がその流れに楔を打ち、時間を画定できるのは、言語という能力を持っているからだ。なぜなら言語によって初めて人間は、その無限の時間と無数の出来事に意味を与えることができるからだ。その意味で、言語化とは時間の統合化だと言ってもよい。この言語化によって初めて有意味な世界が立ち現れてくる。
この統合化の作用は歴史叙述に比して小説の方がはるかに自由度が高い。とはいえ、このことは歴史と小説が別物ではなく、むしろ度合の差異によって違いがあるに過ぎないことを意味している。歴史は現実世界の暦的時間の上に刻まれる個別の出来事の事実性の制約が高いゆえに、統合化のさせ方にも一定の制約がかかりそれゆえに小説にはなれないだけある。逆に小説は、どれほど突拍子もない統合化をしようとも、出来事をまったく無視して書くことはできず、その意味で歴史性を捨てることはできない(もしそれができてしまったらそれは永遠を書くということになってしまうだろう)。
この自由の度合が違うとはいえ、すぐれた歴史とすぐれた小説が私たちに与えてくれるものは共通している。それは人間的経験である。凡庸な歴史が教えてくれるのは歴史的事実であり、凡庸な小説が教えてくれるのは私的体験である。歴史的事実には人称性がなく、私的体験には他者への呼びかけを欠く一人称しかない。
Jenniがフランスの歴史を20年に区切り、ひとつの戦争のもとに統合化することで、小説作品として私たちに与えてくれる人間的経験は、わずか二語で集約できる。
En gros, nous simplifiions : eux et nous. (p.600.)
eux et nous. 敵と味方。虐待者と被害者。アラブとヨーロッパ。白人と黒人。まさに単純化されたカテゴリーである。人間であるとは、敵や虐待者や白人であることではない。私たちは被害者でありながら、虐待者にもなりうる。それはSalagnonの伯父が、第二次世界大戦ではドイツ占領下で戦ったレジスタンスの英雄であり、アルジェリア戦争では、地元民を虐待し、最後には逮捕され死刑にされるという人生にたとえば集約されている。 私たちが民族を意識するのは、何らかの差別が顕在化するときである。たとえばSalagnonが出会うギリシア系フランス人でpied-noirの医師のもとで働く看護助手を、その医師以外だれもprénomで呼ばない。prénomで呼ぶ医師と、それに気づくSalagnonだけがこの助手と人間的関係を作り、看護助手としか見ていない人間たちは、その人間を黒人としかみなしていない。すなわち名前を呼ぼうとしない無意識的な行為のうちに、差別の構造が小説内では意識的に明らかになり、そのとき白人と黒人の間に壁が現れるのだ。
これらはきわめて単純で浅薄なカテゴリーに過ぎない。しかしなぜこれほどまでに単純で浅薄なカテゴリーに突き動かされ、人間は夥しい暴力を働き、人をいたぶり、殺すことができるのか。これがこの小説が私たちにつきつける人間的体験である。
悪を書けるのは文学の特権的領域であるとは思うが、それ以上に、文学は、善と悪へ色分けされる以前の、倫理的地平の手前に横たわる混沌とした世界を私たちの前にさらけ出す力を備えている。
暴力は今も日常に遍在している。主人公はリヨン駅で職務質問される一人の黒人の若者をみかける。その若者は逃げ出そうとするが、警官が追いかけてすぐに捉える。その現場を囲んだ若者たちが揶揄のしょうもないことばを警官に投げる。警官が反応をし、その若者たちに近づく。小競り合いが始まる。そのうちだれかが投石をする。警察隊が出動する。駅の混乱が町に広がり、商店街に放火が起きる。そのようなエピソードがCommentairesの中に挿入される。それは正義の問題でも権力の問題でもあるだろう。小説は解決をもたらさない。ただ私たちにそうした問題を人間的経験としてつきつけるだけだ。
小説にはいくつもの短い美しいエピソードが挿入されている。占領下時代に、子どもだったSalagnonがいたずらでドイツ兵にあかんべーをする。それを見た母親は、恐怖で子どもをビンタする。近寄ってきたドイツ兵は母親に言う−「子どもをぶってはいけない」と。
オデュッセウスの最後には実はまだ続きがある。ようやくペネロペーとの再会を果たしたオデュッセウスだが、再び舟の櫂を肩に担ぎ、長い旅に出る。旅先で「その肩に担いでいるものは何だい?」と尋ねられた時、つまり舟の櫂を誰も知らない世界になったとき、初めてオデュッセウスの旅と物語は終わる。将来武器を見た人間が「これは一体何に使うものか?」と物の正体を尋ねるようになったとき、ようやく兵士は安らかに目を閉じるのだ。
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