telling_the_truth.jpg レコファンで久しぶりにジャケ買いした一枚。しかも宣伝文には「フォークソウル」、「激レア再発」と書いてある。さらには5インチヴィニールシングルのおまけ付き。この文句とフェティッシュ感についひっぱられ、まったく聞いたことのないミュージシャンだったが、たまにはそんな音源にも触れてみようということで購入。

 最初聞いたときは、確かにフォークというか音数が少ないというか、一言で言ってチープ。いろいろ調べてみると「自家録」のように制作したとのこと。しかも声が脱力しまくり。もう少し力入れて歌ってくれてもと、少し食い足りないところもあった。

 だが裏ジャケには次のように書いてある。

-これはディスコミュージックではありません。
-世界中の大人のために制作されました。
-ティーンエイジャーにはこのアルバムはあまりにlyricallyでつらいものがあるでしょう。特に普段ファスト・ミュージックしか聞いてない耳には。
-でももしギターサウンドに入れこんでくれればきっとこの音楽を楽しめることでしょう。

 確かに77年という年を考えれば、まったくダンスとは無縁の、極端に音数の少ないソウルミュージックが世間に受け入れられるはずはない。

 だが、このアルバムを聞いてみると、実はソウルという基本はありながらも、カリプソや、ボサノヴァのようなワールドミュージックのアプローチが見られ、なかなか懐の深い音楽作りをしていることがわかる。

 また一曲Curtis Mayfieldの社会派ソウルをカバーしているとはいえ、基本的には個人的で内省的な曲や、ラブソングが多いようだ。失恋をした友だちをなぐさめたり、またシングルにはAfricaという曲があり、自らの家族、ルーツへのまなざしが歌われている。

 レコード屋にふらっとはいって、たまたま丁寧なリイシュー作業によって再発されたCDと出会い、30年以上も前に吹き込まれた音楽に感動する―歩いて、目に入って、手にとって、レジでお金を払う。そんなアナログ感から音楽への愛がふつふつとわいてくる。Jackie's Songの冒頭「ウー、ダディダディダー」というハミングがずっと頭の中を流れている。

 メショニックの本論文は、バンヴェニストが考察したsémiotiqueとsémantiqueに関連して、言語の本質をどのように規定すべきかを再検討したものである。メショニックが問題にするのは、バンヴェニストが言語の特質の画定を考えるあまり、言語と芸術作品とが峻別されるものとして提案されている点である。

 バンヴェニストは言語とはsémiotiqueとsémantiqueの二重の体系(système)をもつものであるとし、芸術はsémantique sans sémiotiqueが本質であるとして、その芸術作品解釈の無限性を強調する。

 それに対してメショニックは、sémiotiqueとsémantiqueの区別が実際には難しいこと(それは何よりもバンヴェニスト自身がdiscoursという概念を導入し、意味生成のダイナミズムに言及していることに伺える)、また言語をlangueではなく、langageととらえるとき、その意味生成のメカニズムは、実は芸術作品だけではなく、ポエティックとしてのlangageにも十分に認められることを述べ、バンヴェニストの理論の展開をはかる。この言語と芸術作品の垣根を越えるところにメショニックの本論文における主眼がある。

 メショニックがバンヴェニストの新しさとして指摘する要素のひとつがunitéとsigneの違いである。作品はその全体でひとつの「統一体」を形成するが、この「統一体」は記号ではないし、記号で構成されているわけではない。もしそうならばバンヴェニストもいうように、記号の累算が作品ということになってしまうだろう。だからメショニックも「語が作品を作り上げるのではなく、作品こそが語に付与されるものを作りだすのだ」(p.395.)と指摘する。

 だがメショニックはsémiotiqueそのものの定義を、閉じられた有限の記号体系ではなく、「他の記号へ、他のディスクールへと一般化可能な、そして一般化されうる記号体系」であるとする。そしてこの意味生成のメカニズムにディスクールが深く関与する。ただし、メショニックの提示するディスクールとは、複数の人間(社会)の間で了解される、その場に生起してくる意味というものではない。

 メショニックにとっては、その意味生成のメカニズムには、ポエティック、そしてリズムが関わってくる。そのために、メショニックは続いて、バンヴェニストが例示したsémiotique sans sémantiqueの例(礼儀にまつわる所作振る舞い、仏教における手の位置)を批判する。メショニックは実際にはsémiotique sans sémantiqueの事例は、「純粋にステレオタイプ化された信号」(p.401.)に限定されると述べる。

 そしてメショニックはsémantique sans sémiotiqueとしての「作品」の性質を、バンヴェニストの言う、1)芸術家がみずからのsémiotiqueを作ること、2)このsémiotiqueとsémantiqueの関係は作品そのものに内在していること、3)作品における意味の生成は、決して、両者の間で共通に受け取られている取り決めへとは参照されない(Benveniste, p.59, Meschonnic, p.404.)としてまとめる。 

 (付記:この3)の定義によって、宗教表象は作品から除外される。そこには、宗教的な取り決めがあり、その解読のみが機能として取り上げられるからだ)。

 そしてこの「作品」の性質は、メショニックにとっては、芸術と文学だけではなく、langageの理論そのもの(signeの批判として)となる。

 このような観点に立って、メショニックはバンヴェニストの理論の問題点を取り上げる。

 一つ目は言語は、解釈の体系であり、言語はそのためparler de「何かについて話す」という機能をもつとしている点である。それについてのメショニックの論証をまとめるならば以下のように考えられる。

 「何か」についての「何か」とは、作品の外部にあるものとの関係を措定する。これは記号の機能であり、作品はむしろdire「何かを言う」ものである。何かを言っている以上、その何かというsémantiqueなもの=意味の生成こそが、解釈の対象となるのではないか。

 二つ目はバンヴェニストが「langueは、ある共同体のすべての構成員のもとで、レフェランスの価値が同じままで、生産され、受け取られる」(Benveniste, p.62, Meschonnic, p.409.)としている点である。これは、バンヴェニストによって、芸術の意味生成と対比させるという意図のもとなされたlangueの定義である。

 この対比とは、メショニックに言わせれば、芸術における意味の無限、新たな読み、多様性、他者性と、言語のsémiotiqueな全体性、同一性の対比である。

 その上で、メショニックは、言語の解釈作用という機能においても、かならずそこから抜け落ちるものがあり、それが未来において価値の意味を生んでゆくのだとする(p.410.)。

 ここからメショニックの主眼はディスクールへと移る。メショニックは「langageがディスクールの秩序の中で考慮されるならば、そこで観察されるものは、記号が隠している、継続continuitéの機能である」とし、さらにその継続とは、エクリチュールとオラリテの両方に存在するパロールの運動組織としてのリズムであるとする(p.411.)。ポエティックとは、不断のこのsémanitqueとsémiotiqueの対立なのである。ポエティックの対象とは、「これまで名前のなかったもの」である。

 このようにMeschonnicは、言語と芸術の差異というバンヴェニストの対立的な考え方を解きほぐしながら、言語(langage)に内在するポエティックを、バンヴェニストのディスクールに参照させつつ、sémantiqueな領域=意味生成の領域へと引き寄せるのである。

 Benvenisteの論文«Sémiologie de la langue»(Problèmes de linguistique générale, tome 2, pp.43-46)は、記号論の領域において、言語が、他の様々な記号体系に比して、それらとは区別されうる特質を持っていることを考察したもので、記号と言語の問題を考える上での古典的な規範となる論文である。

 論文は、「icones, index, symboles」という記号の分類を提案したパースが、言語の記号の特殊性については特段の言及をしていないのに対して、ソシュールが問題にしたのは言語(学)の対象についての考察であったという差異から出発する。そしてバンヴェニストはソシュールの新しさを「言語学が、未だ存在していないが、人間的事象にまつわる他のあらゆる体系にも関与しうる学問の一部を構成している」(p.47.)と指摘した点にもとめる。その学問とはsémiologieである。ソシュールはそれを「社会生活において記号に基づく生活を研究する学問」と定義し、1)言語学はその一部をなすということ、2)sémilogieの正確な位置づけは心理学者の仕事であり、言語学者がすべきことはこのsémiologieにおいて、言語を特別ならしめるものとは何であるのか画定することである、と述べる。

 言語は記号体系である。しかし何が言語を他の記号体系と分別するのか? バンヴェニストは、ソシュールにおいて言語学とsémiologieの関係はあいまいなままに終わったとする。ただ、この2つの学をつなぐものとして提出されている概念がある。それが「記号の恣意性」(p.49.)であり、これが記号体系としての言語がもっともsémiologieの特質を表す理由であるとする。

 バンヴェニストの本論文での目的は、この「記号の恣意性」にとどまった言語のsémiologieとしての特殊性を画定し直すことにある。

 バンヴェニストはまず私たちの社会生活が記号の体系から成り立っていることを確認する。

「私たちの生活全体が様々な記号の網の中に埋め込まれている。そしてその記号の網は、どれかひとつでも欠けるならば、社会と個人の均衡が崩れるほどに、私たちの生活を条件づけているのである」

 つまりバンヴェニストがここでいう記号とは、私たちが他者と社会生活を営む上で、その秩序を構成するものであると言ってよいであろう。

 これに続いてバンヴェニストはsémiologieの体系を特徴づける4つの要素を挙げる(p.52.)。

1. le mode opératoire : 記号が作用する様式
2. le domaine de validité : この体系が認められる領域
3. la nature et le nombre des signes : 上記の条件における記号の機能
4. le type de fonctionnement : 上記の機能の類型

 さらにバンヴェニストはsémioligieの体系における2つの原則を挙げる。

1. 体系間の非-冗長性の原則:たとえばことばと音楽のように、たとえ「聞く」という共通の特性をもっていようとも、異なる記号体系間では、それぞれの機能を交換することはできない。だから冗長性は生まれない。しかしアルファベットと点字のような同じ記号体系では交換が可能である。

2. 二つの記号体系は同じ記号を持つことできる。しかしその記号はそれぞれの体系で異なった機能を帯びる。たとえば信号機の赤と三色旗の赤である。したがってある記号の価値は、その記号が含まれる体系の中でのみ有効である。
 
 バンヴェニストはこのようにsémioloigieの体系間の関係の原則を述べたうえで、その体系には「解釈を行う」体系と「解釈を行われる」体系があるとする。そして前者こそが言語の記号体系であるとして、sémioligieにおける言語の特性を主張する。そしてこの体系間の比較をするための条件として、sémiotiqueな体系と呼べるものは次の3つの要素を備えていなくてはならないとする(p.56.)。

1. un répertoire fini de signes : 記号の一覧が完結していること

2. des règles d'arrangement qui en gouvernent les figures : 記号から派生するフィギュールを統制する配置の規則があること

3. indépendamment de la nature et du nombre des discours que le système permet de produire : 記号、およびフィギュールは、その体系が生み出すディスクールの性質、数とは独立していること

 バンヴェニストはこの条件を出すことによって造形芸術のような芸術は、ある決まった記号の統一体を形成できず、sémiotiqueな体系のモデルを提出することはできず、言語体系ともほど遠いととする。つまりバンヴェニストは意味の体系の成立には、その体系が閉じていることが重要であると考えているのだ。それがunitéである。そしてそのunitéは、芸術の世界にはないものとして考えられる。言い換えれば前述した秩序の構成とは異なる次元に、芸術の世界は不定型のまま成立しているのではないだろうか(この辺りがMeschonnicが主張していることではないか)。ある一定の記号的拘束を持ちながらも、意味の生成にそのつど立ち会うのが芸術の世界と言えるのではないだろうか。

 それに対して「言語は統一体からなるla langue est faite d'unités」とバンヴェニストは述べる。一方、例えば音楽の要素である「音」は、記号ではない。なぜならば、バンヴェニストによれば「いかなる音も意味を生む要素を持っていないaucun n'est doté de signifiance」からだ。ここにバンヴェニストは言語と音楽の差異を認める。意味するものの統一体をもつ体系としての言語と意味しないものの統一体をもつ体系としての音楽の差異である(p.58.)。

 しかし、本当に音は意味を生む要素を持っていないのだろうか。ここにはバンヴェニストはソシュールと同じく言語の領域から心理を排除する傾向を認めることもできるのではないだろうか。それは音表徴の問題だけではない。この音のもたらす表徴は個人の問題だけではなく、おそらく他者とも共有されるはずのものである。つまり記号性がお互いの間で必ずしもやり取りなされていなくても、音という物質世界との間での交感が生まれるのが芸術世界ではないだろうか。これが不定型の世界=芸術の世界である。

 あくまでも言語の特殊性の確立を目指すバンヴェニストは、芸術とは芸術家がそのつどみずからのsémiotiqueを創造してゆくことで生まれると考えている。色(=記号を形成する要素)は意味をもたらすのではなく、むしろ芸術家に奉仕する存在である。すなわち、芸術家が色を選択し、それによって絵画を構成することによって「意味が生み出されてくる」のだ。だからこそ、絵画においては記号の一覧は完結しない。あるのは「表現すべきヴィジョン」(une vision à exprimer)である。

 したがって芸術作品と言語ではその体系は意味の生成(signifiance)という点で異なっている。前者は意味の生成は、その作品世界を構成する諸関係から生まれ、それはそのつど見いだされるものであるのに対して、言語における意味生成は記号そのものにすでに内在しているのだ。記号そのものに内在しているがゆえに、だからこそあらゆる交換、あらゆるコミュニケーションが成立する(p.60.)。

 そしてバンヴェニストの主眼は、「音、色、イメージ」といった非−言語的体系のsémiologieは、言語のsémiologieによって初めて成り立つということにある。すなわち、これこそが言語のsémiologieの特質なのである。他の記号体系は、それがsémologieとなるためには、「言語の介在le truchement de la langue」が必要なのだ(p.60.)。言語こそが他のすべての体系を解釈づけるーこれが本論文の目的である。

 ここでバンヴェニストは、sémiotiqueな体系の関係を次のように分類する。

1. ある体系が別の体系を生む:アルファベが点字を作り出す。同じ性質と異なる機能を持つ。

2. 類似の関係:ゴチック建築とスコラ哲学の類似性のように何らかの関連づけがなされる。

3. 解釈の関係:「言語はすべてのsémiotiqueな体系の解釈を行う」という意味での関係である。

 この意味で言語は社会をすら包み込む。そしてバンヴェニストは、言語におけるsémiotiqueな体系を次のようにまとめる。

1. 言語は、énonciationすなわち、話すこと=何かについて話すという事実によってその機能を明らかにする(話す行為には何らかの解読されるべき意味が携えられている)。

2. 言語は、区別されうる単位=記号からなる。

3. 言語は、共同体すべての成員によって参照される価値の中で生まれる。

4. 言語は、間主観的なコミュニケーションを顕在化させる。

 こうして記号の機能が明示される。ここにあるモデルはまさにコミュニケーションの了解からみればきわめて静的なモデルである。つまり言語と芸術の間には根本的な体系の差異があるとするのがバンヴェニストの立場である。

 ではこの言語の特質はどこから来るのか、バンヴェニストによれば、それは言語がsignifiance<意味生成>の二つの様式を兼ね備えているところから来る。その二つの様式とはsémiothiqueとsémantiqueである。

 sémiotiqueとは単位として構成される記号のもつsignifianceの様式である。これはmarques distinctives「差異の標章」によって成立している。この記号は閉鎖された体系によって成り立っているものであり、だからこそ、言語共同体の全員によって認識された「signifiant」なのである。したがってそれは認められるものである<再認>。

 それに対してsémantiqueとはディスクールによって生まれるものである。ディスクールのメッセージとは、記号の積算に還元されるものではない。それは全体で構成された意味なのだ。こちらは理解されるものである<新たな意味の了解>。

 言語はこの二つの領域ーsignifiance des signes et la signifiance de l'énonciation-を持っていることがその特質なのだ(たとえば礼儀作法は、sémantiqueなきsémiotiqueであり、芸術はsémiotiqueなきsémantiqueである)。

 こうしてバンヴェニストはソシュールの「言語のsémiologie」を、sémiologieを排除することなく、sémantiqueを導入することによって、閉じられた記号の体系を前提としながらも、意味の生成という主体の発話を導入することによって、あらたな意味の場を構築しようとしたのである。

Ryan Adams, III/IV (2010)

ryan_adams_iii_iv.jpg Ryan Adamsのニュー・アルバムが昨年末に出た。タイトルは『III/IV』。CD2枚組。カーディナルスとの共作として3枚目と4枚目にあたるという意味だろうが、それぞれのアルバムでコンセプトが違うわけでもない。曲の順番など雑然としていてとても考えて並べたとは思えない。単に出来上がった曲を適当におさめたら、CDの容量を越えてしまったので、じゃあ2枚組にしてみるか、という風采だ。しかも紙のジャケットの両面に裸のCDと歌詞カードが突っ込んであるだけで、何だかがさつだ...

 というわけでラフでヨレヨレの曲が脈絡なしに並んでいるのだが、それでもやはりRyan Adams。練りきれていないように聞こえて、どの曲も人を引き込む魅力で満ちあふれている。時間にして3分に満たない曲がほとんど。基本はギターぎんぎんのストレートなロック。

 毎度のことだが、今までのロックがさんざん聞かせてきたおなじみの「約束事」のようなメロディのオンパレードだ。中には『III』の4曲目Ultraviolet Lightのように『Easy Tiger』を彷彿とさせる曲もある。ただ全般的には80年代のニューウェーブ調の懐かしさを感じさせる曲が多い。同じく5曲目、Stop Playing with my heartはわずか2分半の曲。青春歌謡のような瑞々しくもいささか単純な曲。最後の10曲目は一瞬ヴァン・ヘイレンのデビット・リー・ロス?と思ってしまう。『IV』のトップNoでの、エッジの効いたギターの単純なリフなどは、Birthday partyを彷思いださせる。

 しかしそれでも陳腐にならないのが、Ryan Adamsが一流である証拠だろうか。今回のアルバムはそうしたなじみのメロディを、なじみのバンドで一発で演奏した印象である。サビで同じフレーズを連呼するような曲が結構多い。とにかくスピード感があって一気に聞かせてしまう。このあたりがRyan Adamsの力量か。

 むらっ気のある求道者、老成した若者、一筋縄ではいかないパーソナリティは健在と思わせるアルバムだ。