フランソワ・フュレは、革命史家として、フランス革命をブルジョワ革命とみなす史観を否定し、また、アンシャン=レジームと革命に断絶があり、それによって、旧・新という裁断が生まれたという見方を、19世紀以降に作られたものとして退ける。こうしたフュレの革命観は、トクヴィルの革命観と非常に共鳴している。そのフュレによる、トクヴィルの『一七八九年以前と以後におけるフランスの社会的・政治的状態』(1836)、『旧制度と大革命』(1856)を丹念に読解したのが、この論文である。
断絶を否定するとは、たとえば、フランス革命を始まりと捉えるのではなく、結果と捉えるということを意味する。まず経済面においては、18世紀のフランスは、たとえ制度上は不平等であっても、習俗としては「民主的な」国になっていたとする。それは貴族層が、土地の細分化によって、中産階級の個人の集まりに解消されたり、第三身分の上昇によって、革命前にすでに「平等理念」が人々の精神に入っていたとする。政治面では、地方政権が、貴族階級の手を離れ、国王に与えられることによって、パリの地位的優位ならびに、ばらばらの地方の統一の必要性という事態から、中央集権化過程が押し進められていたとする。フュレは、このようなトクヴィルの見方を、ギゾーが情報源であるとする。特に封建制のなかから、君主制と自由が生まれてくる。つまり「下からは自由の名で、上からは公共秩序の名で」(p.248.)攻撃を受けるのである。ただし、ギゾーにとってフランスには「真の貴族主義的政治社会は決して存在しなかった」のに対して、トクヴィルにとっては、貴族社会とは、「中央権力に対して個人の自由を保証する家父長的地方社会」であり、この貴族社会が消えていったことによって、自由ではなく、平等へと道が開かれることになる(p.251)。つまり、これがトクヴィルにとっての民主主義なのである。これは「貴族制の諸社会は地方政権に傾斜するのに対し、民主制の諸社会は中央集権政府に傾く」(p.264.)という理論にまとめられよう。
次に、フュレは『旧制度と大革命』を読み直していく。封建的諸権利の問題、旧制度と大革命の連続性の例証としての公共権威と行政的中央集権化の発展の問題である。と同時にトクヴィルの不分明さも指摘する。君主制官僚機構の形成にとって最も大切な官職売買への言及のなさ、中央集権化過程における伝統的な年代記に沿った発展(進歩)を裏づける根拠の希薄さ、経済的な現象に対する言及の少なさ、貴族の立場の変遷を言う場合の通俗にとどまる見解などである。
そして、『一七八九年以前〜』と、『旧制度〜』を対比し、後者を支配するペシミズムから、トクヴィルの回帰したいと願う失われた時代のイメージを、貴族とその下に集う農民共同体として描き、それを君主制が破壊したのだと指摘する。またそれに続いて貴族主義的伝統は、気概と自由の感覚であり、それが民主主義的凡庸さと対照をなすのだと指摘する。
『旧制度〜』第三部については、革命は、貧困が問題ではなく、むしろ裕福な国を襲ったという事実、行政の面では、一七八七年、つまり、革命の2年前にすでに行政改革(選挙で選ばれる議会を地方総監のかわりに設ける)が行なわれたという事実をあげ、革命によって「再生」が実現したという革命観を否定する。ならば革命現象とはなにか?それは「暴力の役割とイデオロギー(言いかえると、知的幻想)の役割」である。
このようにフュレにとって、大革命はすでに大革命のときにはおわっていたということになるのだろう。そしてこうしたイデオロギーを否定する態度が、フュレの同時代的な意識なのである。我々は果たして時間にくさびを打ち込むことができるのかという疑問、そしてアナール派のような、ゆっくりとした時間の流れにおけるたえざる変化という歴史構造に、フュレが位置していたことを知るのである。
このアルバムを聴くとちょっと驚くことがある。それは曽我部恵一の声が、とてもハスキーになっていることだ。ツアーのさなかで声が枯れてしまったのか?それとも彼の声は、シャウトするとこのようなしゃがれた感じになるのだろうか? 憂歌団というには、そこまで成熟していないというか、成熟を拒否しているか、どちらかなのだが、いずれにせよ、観客への挑発という点では、かなり魅惑的な声質だ。それは曲と曲の間に入れられている、しゃべりの部分でも同様だ。当日ライブの場に居合わせた観客はもちろん、このライブアルバムを聴く者さえ、どんどん音楽のなかに引き込んでいく。
サニーディ・サービスのころには、こんなしゃがれた声を聞くことはなかった。「東京」のクレジットに記された吉井勇という詩人の名が示すように、とても内省的で、叙情的な詩にふさわしい声。「江ノ島」に歌われる、ゆるやかなカーブ、平日の昼間の海といった、静謐さを歌うのにふさわしい声、それが曽我部恵一の声だったと思う。でもこのライブアルバムでは、たとえば「浜辺」のような、グルーブたゆたう曲でさえ、彼の声は枯れて、震えている。
そんな声質の違いが、サニーディ・サービスとソロになってからの彼の音楽の違いなのだと思うが、それでも変わらないところはいっぱいある。それはたとえば、「恋の始まり」。曽我部恵一ほど、「恋の始まり」を素敵にスケッチしてくれるミュージシャンもいないのはないだろうか。「恋に落ちたら」は、今日のデートで、おそらく二人は、お互いがすきだってことを感じるはず、だから、今家をでて、デートに向かう「僕」の心を歌う。「テレフォン・ラブ」は、相手が見えないのに、声だけは耳に生々しくすぐ近く聞こえてくる、「電話」。それはいざとなれば真夜中だって彼女の声がきけるのに、でもダイヤル(!)するには、とっても勇気がいる、そんな「恋」を歌ってくれる。
ちなみにこのアルバムの名義は「曽我部恵一Band」である。Bandってなんだろうか?それはアンサンブルなんだけど、それぞれのパートが勝手に自己主張するグループのことではないだろうか。そんな緊張感をここちよく感じながら、一気につっぱしって聴いてしまえる、イカしたライブアルバムである。
地方性を感じさせるミュージシャンがいる。くるりは京都の出身であり、様々な曲の京都を思わせる歌詞、ジャケットに使われる写真など、自分たちの故郷への執着を感じさせる。ただここではそのような地方への執着とは違う意味で、もう少し地方性ということを考えてみたい。
たとえば若き日の細野晴臣が、東京の自宅で舶来品に囲まれながら、銀座山野楽器で買ってきた最新の輸入盤を友人たちと聞きながら、曲をコピーするような都会性にたいして、音楽の情報といえばNHK-FMの番組しかなく、地元の県庁所在地に、一軒かろうじて輸入盤屋があるような地方性という意味ではない。くるりの世代であれば、そのような情報格差はもはやなかっただろう。ブリティッシュロックの30年を咀嚼しつくしたような楽曲を聴くだけで、彼らがおびただしい量の音楽に触れてきたことはすぐにわかる。
ここで考えたい地方性とは、東京へ出てきた人間が、地方の風土への感覚を、肌の感覚として忘れずに、自分たちの音楽へと組み込んでいく、その姿勢である。
このアルバムにおさめられている「東京」で、彼らはこんな風に歌う。
話は変わって今年の夏は暑くなさそう
あいかわらず季節には敏感にいたい
東京以西の人間からすると、東京ではよく三月に冬が戻ってきて、雪もちらつく風景をみることがあるが、そんな時に地方との差を肌で感じるような感覚である。自分の中はすでに春になっているのに、東京にいると、その肌に冷たい風がふいてきて、不意をうたれるような感覚である。
早く急がなきゃ飲み物を買いにいく
ついでにちょっと君にまた電話したくなった
日常の切れ端のなかで、かつての自分の生活の場所を思い出すようなスケッチである。東京での生活の中で、「ついで」でするようなこと、「忘れてしまって」思い出せないようなこと、それが、心を強く締めつける感覚。電話の世界は、きっとすでに遠い世界なのだろう。でもそれが切れ端の間から、ふと痛みをもって、戻ってくる。
岸田繁のこの曲でのヴォーカルは激しい。彼のすきっ歯から、絞り出されてくるだけに、いっそうその声は、切実さを帯びる。いったい彼の黒めがね、やせ細った頬、分厚くて紅い唇、そして歯並びの悪い口ほど、ロックっぽいものはあるだろうか。
そしてこの曲の最後のさびの「ぱ、ぱ、ぱっぱぱっぱ」というコーラスを聴くと、実に仲のよいバンドなのだと思ってしまう。
このファーストアルバムには、『アンテナ』以降ふりきった、屈折が痛ましいほど感じられる。でもくるりの最高傑作は『THE WORLD iS MiNE』です。
ケヴィン・エアーズの曲には、「ブルース」とつくタイトルの曲が多い。この「夢博士の告白とその他の物語」にも2曲おさめられている。一聴すると、どの曲もブルースっぽいところはないのだが、エアーズが「ブルース」とつける理由は、おそらく、ロック調のめりはりではなくて、ルーズさが曲の魅力だいうことなのだろうか。とにかくルーズという言葉がぴったりな人だ。ソフトマシーンにいながら、さっさと脱退してしまう。髪の毛もぼさぼさで、かなりだらしないヒッピーの雰囲気である。カンタベリー系のミュージシャンには結構ポップ志向の強い人がいるが(たとえばホークウィンドのロバート・カルバート。名盤多し)、エアーズほど、能天気なポップアルバムを作る人もいないだろう。
しかしこのアルバムのポップさは、かなりシュールなポップさである。複雑な転調を繰り返すが、けっしてプログレのように壮大な展開にはならない、でもやはり直尺ものの曲。メランコリーな色調で心情にうったえるというよりも、こちらの頭の活動を鈍らせるような夢幻的なバラード。そんな一筋縄ではいかない曲がつまっている。
そして何よりもエアーズの魅力は、その低くて、やや鼻につまった声だろう。アルバム最後のTwo Goes into Fourは、その低い声で紡がれる優しい子守唄である。リンゴ・スターのGood Nightと並ぶ最高のおやすみソングだ。
この後、エアーズのアルバムは、どんどん平板なポップへと流れていく。しかし、決してルーズさは失っていないし、ルーズな人間ならではの優しさをつねに持っているミュージシャンである。下北沢のディスクユニオンで、あまりきちんとチューニングしているとは思えないギターで数曲を歌い、その後サイン会までしてくれたエアーズは、ずっとほほえんでいた。九段会館のコンサートでは、すでに客席に明かりがつき、終了のアナウンスが流れている中で、何度もアンコールをしてくれた。アンプも最後には故障してしまったが、そんなことは関係なく、楽しそうにギターをひいていた。そんなケヴィン・エアーズを私はこよなく愛している。人から「聴いてごらん」と貸してもらったレコードで、もっとも深い印象を抱いたのがこのThe Confessions of Dr. Dream and Other Storiesである。
Ferdinand Brunot(1860-1938)は、第三共和政下において、大きな足跡を残した言語学者である。とりわけL'Histoire de la langue française(以下HLF)は1905年に着手され、彼の死後も公刊され続け、11巻、20,000ページ以上に及ぶ畢竟の大作である(その後HLFは弟子の Charles Bruneauに引き継がれ13巻となった)。「人権擁護連盟」の設立に加わり、「Association des amis de l'abbé Grégoire」が、グレゴワール師没100年を機に、また時代の全体主義的な風潮への危機意識の中で1931年「Société des amis de l'abbé Grégoire」と改称したとき、その議長を、ソルボンヌ大学文学部名誉学部長として、務めたことからもわかるように(Cf. Rita Hermon-Belot, L'Abbé Grégoire, La Politique et la vérité, p.254.)、熱烈な共和国主義者であった、Brunotは、フランス語教育、その普及政策にも深く関わった。彼が傾倒したグレゴワール師と同様、啓蒙と進歩への揺るぎない確信から、その根底を作るとされる言語を多くの人間が学び、理解していくことに心を砕き、骨を折ったのである。ここでは「心を砕き、骨を折った」と言ったが、それは例えば、Louis-Jean Calvetが引用するように、「良き共和国主義者であるためにはフランス語を話さなくてはならない」という手段ー目的が明らかな前提になっており (Cf. Louis-Jean Calvet, Linguistique et colonialisme, p.214. )、Calvetのような言語学における人種差別的偏見に敏感な立場から見れば、こうしたBrunotの愛国主義的態度は、人種差別、植民地主義の裏返しとうつるであろう。確かに、例えばLHM第9巻は革命期の言語の問題を扱っているが、国民語形成の事実を、冒頭に載せたRenanの論調通り、「国民の意志がなしとげた、フランス語による言語統一」という観点が、ページの随所に見られる。しかし、こうしたイデオロギー的立場から、共和国主義者として生きた Brunotを裁断する前に、今一度、HLFという作品を検討してみなくてはならない。
Les Lieux de mémoireの第3巻「Modèles」におさめられたJean-Claude Chevalier, L'«Histoire de la langue française» de Ferdinand Brunotは、その意味でいえば、イデオロギー色を排した、「人と作品」に焦点をあてた、Brunotの紹介である。ノルマリアンとしての大学でのキャリア、フランス語の教科書の出版、そして、録音という方法を使った口語資料の収集などを挙げながら、今現在のフランス語自体が、学問の対象となり、また学ぶべき教科の対象となっていく時代の中心としてBrunotを位置づける。それはつまり、規範としてのフランス語を明示し、伝える(学ばせる)ことを意味する。このことが「真理の追求、自由への愛、科学の信仰」(p.3391.)という共和国の価値に即していることはあきらかだろう。こうした信条をもった Brunotがフランス語教育法のマニュアルを書いたり(L'Enseignement de la langue française. Ce qu'il est, ce qu'il devrait être dans l'enseignement primaire)、正書法の改革に乗り出したのも、至極当然である。
論文の後半は、中世、16世紀、古典主義時代、18世紀、そして革命期にわけてHLFの内容が紹介されている。その基本線は、旧体制下の連邦主義的な言語のあり方に対する、革命時の言語の政治学のあり方である。Chevalierのこの論文ではそのような視点には立っていないが、先に触れたCalvetが言明するように、フランス語以外の話者の地域=反革命の温床とは言い難く、またBrunotもおそらくはそうした淡白な見方はしていないだろう。ちなみにこの巻は、Brunot自身も認めている通り、他の巻に比べて恐ろしく資料が欠落している巻である(cf.久野誠「革命前後の仏語研究小史」 http://www.ha.shotoku.ac.jp/~hisano/revolution.html)。
Chevalierはここで、革命期の語彙の増加、共同体の紐帯としてのフランス語という観点を概観しているが、その中でpatoisに対する、 Brunotの見識が、この人物の寛容さの証拠として述べられている。確かにBrunotはグレゴワール師と同じく、patoisを「啓蒙を阻み、国語の理想に反し、そして地方の連帯をも阻害する(patoisはさらに細分化されたものであるから)」ものと考えている。しかし、だからといってpatois を破壊するような、性急な態度はとらない。それはpatoisは話者の生活、日々の活動、深い感情の印だからである。Brunotは強制ではなく、「学校を通した自然な学習、時代を経て、そして人々の良識」に期待しているとChevalierは理解する。これは国家という枠組みと、その枠組みの中で制度化された学校を前提とした上で、Brunotの信条である、「人々が学びたいという意志の尊重」を意味する。すなわちフランス語とpatoisとはその慣用がまったく異なるのである。フランス語とはまさに国民語であり、啓蒙の言語、それに対してpatoisはやはり、人々の生活にとどまる言葉である。そしてさらにその前提には「愛国」、誰もが国を愛する証明としてフランス語を話したいという前提が不文律としてあるのではないか。
Pendant la première période de la Révolution, les Sociétés populaires alsaciennes n'ont pas travaillé consciemment à la diffusion du français. Néanmoins, j'estime qu'elles l'ont servie. Des gens de langue allemande y coudoyaient des Français et c'était beaucoup. Pour peu qu'ils eussent une première teinture de français, ils apprenaient à comprendre, sinon à parler. Si jamais la méthode directe a donné des résultats, ce fut là, dans ces milieux échauffés, où le patriotisme avivait singulièrement la curiosité, et où l'on souffrait impatiemment de paraître des Français incomplets.
「フランス革命の第1期においては、アルザス民衆協会は、意識的にフランス語の普及に務めてはいなかった。しかしながら、私は、協会はフランス語の普及に役立ったと考えている。ドイツ語を話す人々は、そこでフランス人と膝と膝を突き合わせた。それだけで十分だったのである。かれらは、話すことはなくても、理解することは学んだ。もしダイレクト・メソッドが結果をもたらしたとすれば、まさにこの熱気のこもった場所である。ここでは愛国主義は強く好奇心を刺激し、不完全なフランス人に見えることには、とにかく耐えられなかったのである」(Ferdinand Brunot, L'Histoire de la langue française, Tome IX, p.70.)
ここには、人々の愛国心への十全たる信頼がある。これがあるからこそ、Brunotは強制に頼らず、慣用に任せるという立場に立てたのではないか。
ニール・ヤングのライブアルバム「Live Rust」は、その前作「Rust Never Sleeps」のツアーから収録された。「Rust〜」はヤングからの「パンクへの回答」と表現されることが多い。このアルバムのA面はアコースティック、B面はエレクトリックで構成されている。確かにこのB面のエレクトリックな曲調の激しさは、ロックがもつ緊迫感、「明日を生きられない」といった性急さを、見事に表している。それをパンク世代ではなく、60年代後半からアメリカン・ロックを生き抜いてきたヤングがしたことに、大きな意味がある。
パンクとは果たしてそれまでのロックへの否定、断絶だったのであろうか?今から振り返ると、そうした「否定、断絶」といった衝撃度は、むしろショービジネスとして演出されたものという面が強い。たとえばピストルズの曲なども、今から聞けば、いたってポップ、言動に反社会的印象がつきまとうとしても、音楽的には、既存の音楽の破壊といった斬新さは認められない。つきつめていえば、パンクは、ロックがそれまで標榜してきた「否定、断絶」といったものを、ファッションのレベルで、パロディ化してしまったものではないだろうか。そして、もしロックの存在価値のひとつが「否定、断絶」にあるならば、まさにそれはヤングが70年代に実践してきたことである。
ヤングの場合、「代表的なアルバム」というのが挙げにくい。まずどのアルバムも似ていない。毎回やることが違うのである。そして、アルバムを単位として聞くというよりも、ひとつの曲の緊張感に対峙するという、聞き方をせまられるのである。この決して一カ所にとどまることなく、常にぎりぎりの切迫感をもって、ロックミュージックを作り上げてきた、この態度こそ、ヤングが「パンクへの回答」としたものではないか。
このライブアルバムもアコースティックから始まり、そしてエレクトリックへと展開していく。しかしある曲をアコースティックで仕上げるか、エレクトリックで仕上げるかはたいした問題ではないだろう。それは「My, My, Hey, Hey」、「Hey Hey, My, My」の2曲が端的に示している。Suger Mountainの澄み渡ったギターの音色も、Powder fingerの大音量のバンドのアンサンブルも、どちらであっても、会場に張りつめる緊張感は変わらない。