くるり, さよならストレンジャー (1999)

sayonara_stranger.jpg 地方性を感じさせるミュージシャンがいる。くるりは京都の出身であり、様々な曲の京都を思わせる歌詞、ジャケットに使われる写真など、自分たちの故郷への執着を感じさせる。ただここではそのような地方への執着とは違う意味で、もう少し地方性ということを考えてみたい。

 たとえば若き日の細野晴臣が、東京の自宅で舶来品に囲まれながら、銀座山野楽器で買ってきた最新の輸入盤を友人たちと聞きながら、曲をコピーするような都会性にたいして、音楽の情報といえばNHK-FMの番組しかなく、地元の県庁所在地に、一軒かろうじて輸入盤屋があるような地方性という意味ではない。くるりの世代であれば、そのような情報格差はもはやなかっただろう。ブリティッシュロックの30年を咀嚼しつくしたような楽曲を聴くだけで、彼らがおびただしい量の音楽に触れてきたことはすぐにわかる。

 ここで考えたい地方性とは、東京へ出てきた人間が、地方の風土への感覚を、肌の感覚として忘れずに、自分たちの音楽へと組み込んでいく、その姿勢である。

 このアルバムにおさめられている「東京」で、彼らはこんな風に歌う。

話は変わって今年の夏は暑くなさそう
あいかわらず季節には敏感にいたい

 東京以西の人間からすると、東京ではよく三月に冬が戻ってきて、雪もちらつく風景をみることがあるが、そんな時に地方との差を肌で感じるような感覚である。自分の中はすでに春になっているのに、東京にいると、その肌に冷たい風がふいてきて、不意をうたれるような感覚である。

早く急がなきゃ飲み物を買いにいく
ついでにちょっと君にまた電話したくなった

 日常の切れ端のなかで、かつての自分の生活の場所を思い出すようなスケッチである。東京での生活の中で、「ついで」でするようなこと、「忘れてしまって」思い出せないようなこと、それが、心を強く締めつける感覚。電話の世界は、きっとすでに遠い世界なのだろう。でもそれが切れ端の間から、ふと痛みをもって、戻ってくる。

 岸田繁のこの曲でのヴォーカルは激しい。彼のすきっ歯から、絞り出されてくるだけに、いっそうその声は、切実さを帯びる。いったい彼の黒めがね、やせ細った頬、分厚くて紅い唇、そして歯並びの悪い口ほど、ロックっぽいものはあるだろうか。

 そしてこの曲の最後のさびの「ぱ、ぱ、ぱっぱぱっぱ」というコーラスを聴くと、実に仲のよいバンドなのだと思ってしまう。

 このファーストアルバムには、『アンテナ』以降ふりきった、屈折が痛ましいほど感じられる。でもくるりの最高傑作は『THE WORLD iS MiNE』です。