小川洋子『物語の役割』(講演)

 第4回目の授業(2006年春学期「言語とヒューマニティ」)では「虚構」ということばを使い、我々が他者を理解する時に「虚構」が付きまとう、しかし虚構をもって、意味づけることによって、我々は世界というものを生きていけるという話をした。下記の小川洋子の講演にある「物語」とは、まさに「虚構」であり、我々は人生を物語を形成しながら生きていくとされる。

たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。
 
あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというふうに、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。
 
作家は特別な才能があるのではなく、誰もが日々日常生活の中で作り出している物語を、意識的に言葉で表現しているだけのことだ。自分の役割はそういうことなんじゃないかと思うようになりました。

Webちくま 物語の役割 小川洋子

 声を主体にした人間の活動と、文字が現れて以降の人間の活動の変化を対象とした研究である。この中で特に扱われているのは、ホメロス問題に発する、古代ギリシアの声の文化から文字の文化への移行の問題である。ホメロスの叙事詩とは、まさに口承の文化であり、詩人は、詩の中に託された社会にとって重要な情報を、その社会という共同体の人々に語り継いだ。つまり声の文化とは共同体の文化であり、声とは個人のものではなく、共同体のものである。それに対して文字の文化は、正確に物事を論証し、人間が論理的活動をすることを可能にした。この物事を深く考えるとは、まさに個人が内面で行うことであり、文字の文化は、個人の営みを可能にしたと言える。共有される知識の伝達が声の文化ならば、文字の文化は、個人の思想の正確な表現であるといえよう。

J-W・オング『声の文化と文字の文化』(藤原書店)

 「これらの詩人たちは神々のことについてはいうまでもなく、あらゆる技術と、悪徳と徳にかかわるすべての人間的なことがらについても専門知識をもつとされている」(プラトン『国家』598E)詩人とは個人の芸術的創造を行う者ではなく、社会において必要な知識、しきたりを伝達する役割を持っていた。その行為は声によって行われたのである。そして文字の導入は、この古代ギリシアの文化にどのような変化をもたらしたのか?声の文化から文字の文化への移行に、プラトンによる詩人批判(国家追放)の理由を探ったのが、本書である。様々な知識を記憶するためには、自分の具体的な体験に結び付けて、覚えるのでなければ、到底覚えきれるものではない。「覚えるべき」ことを復唱する(真似する)と同時に、そこに個人の体験を練りこんでいくのが、口承の文化であった(主観と客観の混同)。「生きた記憶」によって、法や慣習が保たれていたのである。それに対して文字の文化では、個人とは、「覚えるべき」ことを批判的に吟味し、検証していく存在となる。つまり文字文化において、人は「自己」に目覚める。その自己は熟慮をし、深く物事を分析・理解するようになる。そして抽象的な思考が可能となるのである(ここからイデアについての考えも生まれてくるだろう)。この個人とはだれか?それは哲学者である。プラトンの詩人追放とは、哲学者の登場を促すためであったのである。「彼ら哲学者たちは、生成と消滅によって動揺することなくつねに確固としてあるところの、かの真実在を開示してくれるような学問に対して、つねに積極的な熱情をもつということを確認しておこう」(プラトン『国家』485B)

エリック・A・ハヴロック『プラトン序説』(新書館)