ここで扱われているのはプラトンの『クラチュロス』である。ここではクラチュロスとヘルモゲネスが「名の正当性」について論議をしている。クラチュロスは物の名は、その物の性質に照らし合わせて、必然的なものが選ばれているとする。例えばディオニソスはディオデュスとオニノンに語源的に分解できる。これは「ワインを与える者」という意味になる。一方ヘルモゲネスは名に正当性を与えるのは、社会的規約であるとする。社会的取り決めによって名はその正当性をもつのである。さてクラチュロスにおける名の必然性はどのように証明されるのか?それは2つの方法によってである。1つは上にあげた「語源」をさかのぼる方法。しかしこれは所詮は語の分解に過ぎない。もう1つは音の象徴性である。例えばrの音は運動の象徴である。たとえば流れるはrheinという。しかしこの音の象徴性も全て語に当てはまるわけではない。そこからソクラテスが下す結論は「言語は決して完全ではない」というものである。ここから「完全な言語」という西洋思想における大きな夢想が始まるのである。
ジェラール・ジュネット『ミモロジック』(書肆風の薔薇)
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