ここで扱われているのはプラトンの『クラチュロス』である。ここではクラチュロスとヘルモゲネスが「名の正当性」について論議をしている。クラチュロスは物の名は、その物の性質に照らし合わせて、必然的なものが選ばれているとする。例えばディオニソスはディオデュスとオニノンに語源的に分解できる。これは「ワインを与える者」という意味になる。一方ヘルモゲネスは名に正当性を与えるのは、社会的規約であるとする。社会的取り決めによって名はその正当性をもつのである。さてクラチュロスにおける名の必然性はどのように証明されるのか?それは2つの方法によってである。1つは上にあげた「語源」をさかのぼる方法。しかしこれは所詮は語の分解に過ぎない。もう1つは音の象徴性である。例えばrの音は運動の象徴である。たとえば流れるはrheinという。しかしこの音の象徴性も全て語に当てはまるわけではない。そこからソクラテスが下す結論は「言語は決して完全ではない」というものである。ここから「完全な言語」という西洋思想における大きな夢想が始まるのである。
ジェラール・ジュネット『ミモロジック』(書肆風の薔薇)
ここで問題にしているのは音が人間にもたらす感覚についてである。本書では1-2「音声の象徴性」、1-3「音と意味」、1-4「類音類義」で特にこの問題が扱われている。例えば記号としての言語観を相対化するための擬音語、擬態語の例などである。また、音がもたらす印象について、[i]の音が小ささを表すといった例が引かれている。こうした音のもたらす感覚の普遍性についての論証は、「充分」と言える地点まで至ることはないであろう。しかしこうした音象徴の例が音、音楽、楽器にまつわる文化的事象へと結び付けられるのが本書の特徴であるし、文化人類学者の視点からみた言語というものが浮かび上がってくるのである。
川田順造『声』(筑摩書房)
この本の優れている点は、日常の観察から初めて、言語論にまつわるタームを明快に解きほぐしているところである。例えば第一章冒頭の富士山の例をとってみよう(p.21〜)。ここで言われていることは、富士山という言葉から喚起するイメージは人によって異なる。しかし意味の了解が取れているということは、誰もが「あああの富士山ね」と、自分の知識から富士山の「意味」を呼び覚ますからである。この意味こそ、言葉のシニフィエと呼ばれているものである。つまり人の知識はそれぞれであるが、それでもその知識の共通項があるからこそ、お互いに意味の疎通ができるのである。この最大公約数的な意味の領域がシニフィエなのである。そして言語が示すのは、じつはこの意味の領域なのであって、決して現実の富士山ではない。このことがはっきりわかる例が「山」である。山は世の中にありとあらゆるほどある。そのどれもを山と呼ぶが、もっとも山らしい山というのは世の中に存在しない。それは我々の頭の中だけにある。その概念と照らし合わせて、目の前のものを「山」と読んでいるのである。この作品ではそれを「山という語の表す山は、一種の抽象的典型としての山である」と言っている。言い換えれば世の中に一つとしてまったく同じ形をした山は存在しない。つまりすべて異なるのにそれをひっくるめて山と呼べるのは、この抽象的典型としての概念が我々の頭の中にあり、その概念を分かち持っているから意味の疎通が行われるのである。
斧谷彌守一『言葉の二十世紀』(筑摩書房)
日本の哲学者和辻哲郎を批判的に読解した本で、和辻哲郎の倫理学の出発点を「私たちが社会で(共同体で)生きるということは表現と理解が一体化した状態だ」という認識におく。つまり私たちが相手に何か表現するということは、その場の状況やお互いの関係が理解できているから行えるのだという前提がある。だから社会は共通の理解のもとで成り立っている。しかしこのような認識は言葉をお互いが共有するものだという前提があるということも意味しており、さらにいえば、お互いが約束事を履行しながら生きているということにもなる。言葉が通じるということは「人間存在の共同性」があるからだ。それはそうでお互いが約束を守らなければ、つまり「倫理」がなければ、社会は社会として機能しなくなってしまう。、和辻は人間のあり方を四辻を歩く人間とたとえる。たとえば、異なる職業、年齢の人間たちが、相手とぶつかりもせず、四辻を交差する、そうしたイメージで、社会におけるお互いの存在了解を考える。しかしそこには、思わず歩みを止めてしまわざるをえないような、そんな言葉の存在もあるはずだ、というのがこの本の骨子である。それを「言葉の形式」(つまり意味を運ぶための一定の言語形式)、「感情に適合することば」といった表現で呼んでいる。
菅野覚明『詩と国家』(勁草書房)